雪蓮峰を目指して(1988年)・・・経験の山
雪蓮峰(6627m)を目指して(第2部)・・・経験と苦渋の山
初めての天山山脈登山から2年が経ち、僕は卒業間近の大学6年生となっていた。周囲のクラスメートは卒業試験及び引き続く春の医師国家試対策を既に始めている。
だが僕はまだ冒険の夢を捨てられないでいた。前年度のインドヒマラヤ、チベットの旅が強烈だった事もある。
そこに徳島さんが隊長となり、日本山岳会東海支部が再度雪蓮峰に挑戦するという連絡が入った。
【角川出版からのコンタクト】
だが当時の僕には毎年続け様に海外遠征に出かける経済的余裕は無かった。当たり前だが僕は単なる貧乏学生に過ぎない。何時までも親のすねをかじって生きているわけにはいかないのだ。
そこに予想もしてなかった朗報が入った。
押しも押されぬ流行作家の夢枕獏さんが、86年の徳島さんと僕の天山山脈横断行のアサヒグラフ記事に興味を持った。そして角川書店と朝日新聞を経由して日本山岳会東海支部の僕のところに氷河古道案内を依頼してきたのだ。
玄奘三蔵の旅に興味のある夢枕さんは、山ほどある原稿締め切りをものともせず、猛烈な仕事量をさしおいでても天山山脈氷河古道の踏査行に行きたいと言う。
当時(今でもそうですが)夢枕さんは、飛ぶ鳥を落とす勢いの超人気作家だった。
僕もその代表作の一つである、魔獣狩りを早速古本屋で求めて読み、最初の数ページでその面白さに引き込まれ、時間を忘れ一気読みしたものだ。
ロマンあふれる冒険の旅と言うのは、何物にも代え難い魅力がある。それは流行作家でも貧乏医学生でも同じだ(その基礎となる見識のレベルはかなり異なりますが)。
これは僕にとって願っても無い美味しい話だった。少なくとも交通費はこれで賄われる。流行作家の夢枕さんと山に登れるというのも、若い僕には興味津々の出来事だった。
ラクダの旅がまた始まる
【夢枕さんたちとの旅】
夢枕さん、日大探検部の横澤さん、角川書店の山田さん、そして僕の4人の踏査隊は2年前に僕と徳島さんが辿った道を再度辿り、ムザルト川左岸を上流に遡っていった。
しかし途中のタムクタシュ氷河から流れ落ちる川の渡渉時に、装備一式が流されるというアクシデントが発生、計画は途中で頓挫、僕等は峠に至る事無く途中から引き返す事となってしまった。
この失敗の原因は踏査隊長だった僕の経験不足だ。
砂漠の川はちょっとした事でその流量が変わる。それに気づいて朝まで渡渉を待てば、急流の渡渉も問題無く出来たはずだった。
また流された隊員を救うために取った処置も、適切とは言えないものだった。川の流れにつかまった隊員が、自らの怪力?でロープを解か無かれば遭難事故に発展するところだった(その隊員は筋骨隆々の砲丸投げ選手でもあった)。
いっぱしの冒険家気取りだった僕は、鼻先を軽くへし折られた様なものだ。
わざわざ貴重な時間を割き、はるばる天山の山奥まで来て、こういう結果に終わったことを申し訳なく思う。
しかしこの旅は僕にとっては実り多い旅だった。夢枕さん及び山田さんから聞いた多岐に渡る話題はそれは面白くて、若い僕に刺激的のものばかりだった。
こういう創作家の頭脳と言うのはどうなってるのだろうか?この時に聞いた話は今の僕の姿に大きく影響している。
そして夢枕さんはあれから20年経ったのに、未だに僕に寄贈本を贈ってくれている。これほど義理堅い方も世の中あまりいないと思う。
左から夢枕さん、僕、横澤さん、撮影は多分角川のYさん。失敗したが僕には実り多い旅だった
【苦渋の再度撤退】
さて夢枕さんチーム帰国後、僕と横澤さんは続いて雪蓮峰頂上を目指し登山本隊と合流した。
前年度にインドヒマラヤの未踏峰に登頂していた僕は、登攀隊長として頂上を今度こそ落す事がその使命とされていた。
しかし僕が標高5950mのアタックキャンプに入った時、運悪く強風と悪天がやって来た。
まだまだ先は長かった
この凹地の最終キャンプで、強風に酸欠となり大ピンチに陥った
僕はあえなくアタックを止め撤退する事を決める。
多くの方の期待を背負っての登山だったが、僕にはその期待に答えれるだけの能力が無かった。
ただ確かに言える事はあのコンディションで、頂上に立つ事はいずれにせよ不可能だった。もしあの時アタックしていたら、誰かが死んでいたか少なくとも指を落とすかしていただろう。