雪蓮峰を目指して(1986年)・・ロマンの山

雪蓮峰(6627m)を目指して(第一部)・・ロマンの山、僕の海外登山の原点です。

【目指すはロマンの道シルクロード】

当時の僕は大学山岳部の中でそれなりの成果を挙げ、次の活躍の舞台を探している所だった。
同期部員はそろそろ就職が気になりだす頃だったが、僕は医学部生だったのでその必要は無い。かといって勉強をするわけでもない。
僕は単なる山好きの落第生だった。

そこにたまたま日本山岳会東海支部から、天山山脈の未踏峰に遠征隊を出すという話が舞い込んだ。ちょうど大学4年の夏休みに当たる時期だった。
僕は山岳部における活動の集大成として、この海外遠征が相応しいと考えた。国内の活動を経て海外遠征で最後の腕ためしをするというのは、当時の大学山岳部員としては至極当たり前の考えだった。海外遠征は山岳部の卒業試験みたいなものだ。

ところがこの天山山脈雪蓮峰は想像以上の難峰だった。そしてその周辺地域も自分の予想を遥かに超えた魅力あふれる地域だった。
この登山を通じて、僕は海外遠征の楽しさに目覚めてしまった。もう普通に大学や山岳部を卒業して社会人となるどころではない。これから先に僕のもう一つの人生が待っていたのだ。

雪蓮峰(6627m)概念図、中国ウイグル自治区にあります。緯度は高く、地形は険しい



【魅力あふれるキャラバン】

1986年の夏、約10人の仲間達で組織された遠征隊は飛行機を乗り継ぎ、北京、ウルムチ、アクスを経てタクラマカン砂漠から天山山脈ど真ん中に入り込んでいった。
シルクロードの核心部とはいえ、その地域一帯は外国人立ち入り禁止の砂漠地帯だ。
僕等の参考書は戦前における大谷探検隊の記録と、当時大ヒットしたNHKの特集番組シルクロードだけだった。地図も今と比べようも無い粗末な航空地図しかない。

海外遠征浅い僕には、北京から天山山脈に入る行程を旅するだけで、新鮮な驚きと興奮の連続だった。
商品がほとんど並んで無い共産主義中国のデパートと、カラフルな色彩にあふれたウイグル人マーケットの強烈な香辛料の匂いはあれから20年以上たった今でもはっきりと覚えている。

ムザルト川右岸に沿ったキャラバンも、僕には忘れられない体験の連続だった。大きなフタコブラクダと毛並み美しい馬は、まさしく遊牧民たちのステータスシンボルだった。現地の遊牧民と行う砂漠の旅はまさしくこれ以上無い異文化体験だったと思う。

砂漠ではラクダが一番強い


初めて出会う外国人に緊張


家畜は遊牧民の最大の財産だった


【ムザルト峠と氷河古道の踏査(僕の海外登山初手柄だったが・・・)】

さて僕等の向かおうと言う氷河古道周辺は、特に歴史ロマンあふれる地域だった。
戦前の国策だった大谷探検隊の活動もさることながら、遥か昔の唐の時代、玄奘三蔵が天山山脈超えをした時に通った謎の道も、この雪蓮峰の傍にあるという。

三蔵法師の辿った道のほとんどは、大唐西域記を通して解明されている。しかし三蔵はその行程でタクラマカンから何故かまっすぐガンダーラに向かわず、わざわざ困難な天山山脈超えを行っている。
なぜ天山を越えたのかも謎なのだが、どの峠を越えたかも実は未だに解明されていない。
ムザルト峠はその玄奘が超えた謎の峠の最有力候補なのだ。

氷河の雪解け水で濁流となったムザルト川の渡河に苦しんだ登山隊は、副隊長である徳島さんと若手隊員の僕をこのムザルト川上流部偵察に向かわせた。
そこで僕等は約1週間をかけて、幾つもの川と岩壁を渡り、最後は僕が始めて見る氷河を越えて、天山山脈の峠にまで到達した。そこは雄大な山とお花畑に囲まれた別天地だった。
しかもこの峠は玄奘三蔵が超えた謎の峠の可能性が非常に高い峠だった。僕は想定外の手柄を立てたかの様に思った。僕と徳島さんは意気揚々と遠征隊本隊のところに戻っていったのだ。

ところが本隊は偵察に行ったまま1週間近く戻ってこない僕等を心配し、上部ルート偵察活動をストップしてまで僕らを待っていてくれていた。
いい気になって氷河古道を探っていた僕等は、知らない内に登山本隊に大変な迷惑をかけていたのだ。疲れて帰ってきた僕等を仲間達は一言も文句言わず優しく迎えてくれた。それには今でも感謝と申し訳ない気持ちが残っている。

僕等の活動はアサヒグラフの記事になったのだが


【想像を超えた難峰】
雪蓮峰はまだまだ本隊BCから30km以上先の山奥にあった。補給線は伸びきって、食料も無く上部のルート開拓は困難を極める。
僕も頂上アタックに加わる事を目標に全力を尽くしたが、行動できる隊員は皆疲れきっていた。
結局この第一次登山隊は標高5700m地点を最高点として引き返す。高度障害に倒れる隊員も出て、この撤退行動はまさしく矢折れ弓尽きた敗残兵たちの様相を呈した。
更に帰りのキャラバンも増水したムザルト川渡河のため、大変危険なものとなった。無理に渡ろうとすると馬ごと人が流されていく。
言う事を聞かない馬を置いてきぼりにして、キャンプ場に戻りついた時の、馬主遊牧民の悲しそうな顔を今でも忘れられない。馬は遊牧民にとって命の次に大事なものだ。まさしく命からがらの脱出行だった。

これは雪蓮峰南峯、真の頂上は更に奥にあった


【僕はただでは帰らない】
登山終了後飛行機で日本に引き返す登山隊と僕は砂漠のオアシスであるアクスで分かれた。若い僕は体力の回復も早い。僕は一人で現地に残り旅を続ける事を選択したのだ。
大学の試験までまだちょっと間がある。当時の医学部はおおらかで、授業は出なくても試験で落第点さえ取らなければ進級できた。僕にはここまで来ておめおめ日本に帰る気は全くおきなかったのだ。

言葉も通じず、外国人も全くいない中一人でバスに乗り、カシュガルからパミール高原を通過、クンジュラブ峠を超えてパキスタンに入った。
当時まだこの国境は開けたばかりだった。個人旅行で国境通過する外国人はほとんどいなかったはずだ。気分はガンダーラを目指す玄奘三蔵だが、その現実はただの医学部落第生である。

そしてカラコルム山脈を2週間分の食料を持ちトレッキングして、更にインドのデリー、バラナシ、カルカッタ経由で帰国する。
この時のインドで見た様々な光景は今でも忘れられない。
インドに関する本は巷に山ほど出ているから今更ここに書かないが、この時の旅は若い僕に強烈な印象を与えた。今でも僕の性格や生き様に影響を与えているに違いない。

この年の夏は単なるそれまでの大学の夏休みとは異なっていた。この時から僕の人生は大きく冒険の日々にシフトされ、それは40才を軽く過ぎた今でも自分の心の中にくずぶっている。