雪蓮峰を目指して(1989年)・・・出会いの山

雪蓮峰(6627m)を目指して(第3部)・・・出会いと執念の山

 2回目の雪蓮峰登山から帰国した時の僕は、あれだけ努力したのに報われなかったという思いを引きずり、大きな挫折感の中にいた。しかも僕は医師国家試験をまじかに控えた医学部6年生だったのにも関わらず、医学の勉強で大きく周囲から遅れていた。
 同じ医学部生と共に勉強しようとしても、僕には彼らが何を話しているのかすら良く分からない。
 予想通り大きく落ちこぼれた僕は焦りうろたえた。しかし一方で生きて勉強できるという事はそれだけでかなり恵まれているいう事実にも気づいていた。

【僕は人生を甘く見ているのですか?】
 つまるところ僕は試験を通過するのが上手なのだろう。山で鍛えた集中力もあったかもしれない。数ヶ月の集中的な勉強で僕は大学卒業試験を上手くパスした(多少の紆余曲折はあるが、それは省略)。
 僕にも卒業後の研修就職先を決める時期が来ていた。だが僕にはなんのコネもしがらみもない。たくさんある候補の中から、給料が良いと言う理由だけで静岡のF市民病院を選んだ。

 ところがF市民病隠から研修医の希望者が多すぎるという連絡が学生会に入った。僕にはもともと積極的にF市民病院に行くと言う理由は無い。真面目な他の学生を差し置き、遊んでばかりの僕が就職希望を押し通すというのは不遜な話だ。
 僕は潔くF市の隣の、研修医定員割れだったK市民病院に就職希望先を変えた。

 ところが国家試験も押し迫ったある日、F市民病院副院長から直接僕の下宿先に電話が入った。産婦人科に行く可能性があるのならば、やはりK市でなくF市民病院に就職してくれという電話だった。
 運というのには前髪があっても後ろ髪は無い。来年度も日本山岳会東海支部は雪蓮峰に遠征隊を派遣する計画が浮上してきていた。僕は次の瞬間に「F市民病院に行くから、その代わり一年間就職を待ってくれ」とすぐさま答えていた。電話の向こうで副院長が絶句するのが分かった。

 その電話をきっかけに僕は心が決まった。僕は就職しない。長い名大医学部の歴史の中で、自分の趣味のためにこんな事を言い出した医学部生は一人もいなかったらしい。僕は多くの教授、学生会から呆れられ、一部からはちょっとだが非難された(ただそういう変わり者の僕を応援してくれる教授や学生も少なからずいた)。
 僕には夢があった。それはシルクロードを旅しながらその周辺の山を登りまくるという計画だった。その一環としてもちろん天山山脈の登山も含まれる。それは僕の新たな冒険の始まりだった。

【国家試験の結果と天安門事件】
 医師国家試験を受けて数日後、荷物と財産?を全てまとめた僕は一人で日本を離れた。
 半年間に及ぶ集中的な勉強でなまった身体を東南アジアの山々で鍛えなおし、勘を戻らせる。国家試験合格の報は香港の公衆電話で聞いた。
 結果を聞いた翌日に僕は広州行きのフェリーに乗り、中国に入った。シルクロードの始発点西安の町から長距離列車に乗りウルムチを目指す。列車がゴビ砂漠のど真ん中を走っている時に、僕は持病の尿管結石の発作に襲われた。
 発作は数日間続いた。ウルムチに着いた時にも痛みが残る。僕はふらふらしながらウルムチの病院を訪れた。そこで遠く北京の町であの天安門事件が進行中である事を知った。北京では多くの若者が人民軍戦車とにらみ合っていた。

 日本からのFAXが入った。内容は国境が閉鎖される前に至急中国を離れろというものだった。
 だが天安門と天山山脈は遠く離れている。名古屋から北京までの距離よりも遠いくらいだ。ウルムチに一人いる僕には天安門事件の実感は全く無かった。チベットの時と異なりウイグル人の独立暴動もありえない。
 中国側の意向としては、大事な外貨獲得手段である登山隊をできるだけ受け入れたい。それは中国の治安の良さを宣伝する効果もあった。名古屋の登山隊本隊は結局登山計画続行を決めた。もしかしたら僕がウルムチにいた事も登山決行の判断に影響を与えたかもしれない。

この中国製ペプシコーラが砂漠で水が無く困った僕等を救ってくれた


【雪蓮峰南峰の登頂】
 しかしこの年は例年より天候不順で寒かった。緯度の高い天山山脈は冬が来るのも早い。
 必勝を期したつもりが、なかなか上部のルート工作は進まなかった。そういう中、僕と山崎隊員はまず雪蓮峰南峰の初登頂に成功する。続いていよいよ頂上アタック決行の予定だ。

雪蓮峰南峰初登頂には成功したが。左奥が本峰


 しかし雪蓮峰はそれでも僕らを頂上に導かなかった。巨大雪庇に守られたナイフエッジの連続にあえなく撃沈する。南峰頂上直下には苦労して持ち上げた登攀具が多量に残された。
 3度も苦労してはるか天山まで来ていながら、頂上に立てなかった僕は相当に間抜けだ。実力と運と根性のその全てが僕には足りなかったのだ。
 しかし3度共全員無事に生きて帰ってこれたから、決して不運では無かったと思う。これらの登山を通して僕は多くの方々と忘れられない出会いがあった。

南峰を超えて更に険しい稜線を進む


光り輝く頂上は僕には遠すぎた


【その後の僕と雪蓮峰】
 この登山終了後、僕にはまだ激闘の日々が残っていた。その後引き続いたアジア横断登山、アフリカ横断登山は僕の登山のマスターピースとなった。しかし僕の一連の行動に呆れ帰ったF市民病院に結局就職は出来なかった。
 ほとんど一年近く行方不明だった僕は、翌年の春にはまだサハラ砂漠にいたのだ。

 結局自分に身についたもの以外何も無い僕を拾ってくれたのは、三河のK市民病院T部長だった。僕はそこでゼロから産婦人科と臨床業務全般を学んだ。
 翌年も日本山岳会東海支部は徳島隊長を中心に雪蓮峰遠征の計画を立てた。僕にも当然話は来たが、当時の僕はそれどころではなくなっていた。既にその時には、目の前で出血している患者さんの血を止め命を救うのが、僕の最大重要関心事項となっていたのだ。

 強力隊員を集めた4度目の雪蓮峰登山は、これまた大変な激闘を経てついに雪蓮峰の初登頂に成功した。初登頂者の中には僕の岳兄徳島さんがいた。ムザルト峠初踏査から始まった雪蓮峰登山は徳島さんの執念により終結した。
 そして僕の雪蓮峰も終わり、僕はその代わりに産婦人科の仕事と言う新たなべクトルを持った。

 結局自分は頂上にまで立てなかった山として、未練や挫折感が無い訳ではない。
 しかしやはり総じて雪蓮峰は幸運と出会いの山だった。2度と登られる事の無い絶頂は、永遠の未踏峰として僕の心に残る。そして今でもこれから先もずっと、シルクロードの人目のつかない山奥にその美しい姿を輝かしている。