世界の最高点エベレスト頂上を目指して、其のB  〜酸素ボンベに命を
託して〜
高度順応がどこまで出来ているかは分からないが、いよいよ頂上に向けての行動が始まった。
ところが僕は慣れない酸素マスクにパニックを起こし、予想外の危険に見舞われる。
8000mで無酸素という恐怖を味わった

赤線はスキー出来たところ。青線はやろうと思えば十分スキー可能なところ。それ以外はエクストリーム


ローツェフェースの登高ルート、結果的にここが核心でした


ローツェフェースの取り付き。順応行動中にチリ雪崩で喉をやられた所


頂上までフィックスロープを辿るのみ


キャンプ3内部。この日の夜が辛かった


C3の直ぐ上。慣れない酸素マスクでパニック寸前に


ローツェフェース中間部。急な箇所は登山者で渋滞


大分高くなってきたぞ


ジェネヴァスパーの向こうにエベレストが見えてきた


必死の思いでサウスコル到着。標高8000mの最終アタックキャンプです


   世界の最高点エベレスト頂上を目指して、其のB〜酸素ボンベに命を託して〜

(日付)2009年4月13日(月)〜6月2日(火)
(山域)ネパール
(現地エージェント):コスモトレック (国内公募登山催行会社):アドベンチャーガイズ社(AG社)
 (AG社に支払った費用):735万円
(他のエベレスト隊員方)哲王さん、マックさん、スキーヤータカちゃん、謙ちゃん隊長、ランナーさん 
(いわゆるシェルパの方々):プラチリ(サーダー)、ボビー、チュパ、ガチャピン、ランパブ、マイラ(コック)
(行動)4月13日:成田→バンコク、14日:→カトマンズ、17日〜23日:→ルクラ→バクディン→ナムチェバザー
ル→ディンボチェ→アイランドピークBC
    24日〜26日:アイランドピーク登山、27日〜30日:エベレストBC(5400m)への移動、
     5月1日〜6日:第1次高度順応、C2手前6400mまで、7日〜8日:BC休養
    9日〜12日:第2次高度順応、ローツェフェース6850mまで、13日〜16日:BC休養、
     17日:→C2(6450m) 18日:C2休養、19日:→C3(7100m)、20日:→C4(8000m)、

(頂上アタックを控えて)
 2回目の高度順応行動は意気消沈する内容だった。僕はカルステンツから続く長旅と高所の影響で筋肉の疲
労感が全く取れない。しかも喉はかすれて碌に声も出せなくなっていた。しかし謙ちゃん隊長は全員登頂に向け
て自信満々だ。それでも時々崩れるアイスフォールを見つめながら、エベレスト登山は公募商業登山の中での
オリンピックだと感想を漏らしている。登頂の成否は酸素ボンベとシェルパの頑張りにかかっている。僕等は隊
員と言うよりお客さんだ。プロの方々に諸々の段取りを任せきり、自分は自分の体調管理に専念する。それが
自らの登頂のためのベストの選択と言えた。
 
 この間ずっとベースでマネージャー的な仕事していたランナーさんから、僕は様々な情報を頂いた。
 彼はAG社謙ちゃん隊長のもと、ほとんど登山素人でありながら、その抜群の体力で七大陸最高峰を登ってい
る。ランナーさんは公募登山の酸いも甘いも裏?も表も知っている方であった。そしてそのチョモランマ登頂秘
話は戦慄ものの内容であった。

 彼が登頂したのは5年前AG社による日本初エベレスト公募登山隊での事だ。6人の隊員の中で頂上に至っ
たのはランナーさん含め2名。下山時に遭難者1名を出している。
 過去3回のAG社エベレスト登山では、ガイドを除いて参加者は12名、登頂者は6名、内遭難者は2名(2名と
も登頂者)である。その中には様々なドラマと駆け引き?が詰まっており、結果のみで評価は決してできない。
確かなのは、今現在日本発で唯一信頼できるエベレスト公募登山催行会社がAG社なのだ。

 大事なのはこの事実を知った上で、僕等はエベレスト頂上アタックに向かうという事だろう。これは全て自分が
エベレスト頂上に立つために選択した事で、死ぬか生きるか、登れるか登れないか、その結果は全て1週間後
には分かる。

(長くて辛い夜)
 09年5月17日に、いよいよ頂上アタック行動が始まった。まずはシェルパを含むアタック全隊員がC2に集ま
る。
 ところが出発が遅すぎたため、C1からC2の間で隊員同士行動がばらばらとなった。そのうち夜が来て真っ暗
となる。氷河上での深夜単独行動は非常に危険だ。皆それぞれの知恵を絞って、窮地を乗り越えるしかない。
C2からの強力シェルパ隊のヘルプが出て、何とか深夜日付の変わる頃、全員C2に集合できた。
 一日の休養を経て、C3に向けての登高が始まる。ローツェフェースの取り付きからを数ピッチ登れば、もう僕
にとってほとんど初体験高度だ。それでもエベレスト前の順化登山が役立ったのだろう。ゆっくりゆっくり登っ
て、全員無事に標高7100mのC3に着いた。ここから先は酸素を吸える。僕にとって始めての酸素吸入体験
だ。これで少しは楽になるんじゃないかと思うと嬉しい。
 ところがその日の夜は僕にとって地獄の様な夜となった。あろうことか僕のレギュレーターの調子が悪く、僕の
マスクにほとんど酸素が流れてこなかったのだ。酸素は無味無臭だ。初めての酸素吸入である事もあり、僕は
自分が無酸素である事に気づかない。ただ何かおかしいぞと思うだけだ。
 何て長くて辛い夜だと思った。ちょっと眠くなれば息が止まり、呼吸困難からすぐ目が覚める。マスクを吸って
も全く楽にならない。結局僕は一睡も出来なかった。それどころかこの夜一晩だけで僕はすっかり疲れてしまっ
た。酸素の期待に裏切られて、もうこんな事では頂上なんて不可能かもしれないと思った。

(サウスコルまで命懸け)
 C3からは行動中に酸素も吸って良い事になっていた。寝不足無酸素でややボーっとしたが、この位で降参な
んてできはしない。与えられた酸素ボンベを背負い、急なローツェフェースの壁を登りだした。ところがどうも息
苦しい。上手く呼吸が出来ない。慌てて強く呼吸するとますます横隔膜が酸素を消費するので、更に辛くなる。
これはまずいぞ。死んじゃうかもしれない。僕はパニックとなり、近くのシェルパに助けを求めた。
 まずは酸素マスクの交換をお願いする。交換すると少し呼吸が楽になった気がした。謙ちゃん隊長が来て何
かアドバイスをくれている。しかし僕の頭には入らない。サーダーのプラチリが一気に酸素の流量を増やしてく
れた。しばらくすると少しづつ身体が楽になってくる。

 やはり酸素マスクへの不慣れが影響していたのだろう。まだ僕自身酸素無しで動けない標高には至ってな
い。ギリギリまで頑張らずに下山なんてありえない。そう思いなおして、ゆっくりゆっくり上に向かって歩き出し
た。
 C3から最終キャンプC4までの道のりは長かった。フィックスロープを辿るだけの道とはいえ、慣れない酸素
マスクと人生始めての標高にドキドキする。しかし大事な事はパニックを起こさない事だ。流れてくる酸素流量
にあわせて、少しづつ呼吸しながらゆっくり登る。パニックを起こせば却って身体は酸素を消費する。だんだん
酸素を吸っての登高のコツが分かってきた。酸素さえあれば後は時間との戦いである事に気づく。
 ところが、ジェネブスパーを越えて最終キャンプのあるサウスコルが見えてきた所で、身体の動きが突然悪く
なった。苦しくは無いが身体がスローモーションの様にしか動かないのだ。目の前にテントが現れても。そこに
至るまでにどれだけの時間がかかるか分からない。

 おそらく午後5時ころ僕は何とか最後のキャンプに辿りついたようだ。謙ちゃん隊長が残りの酸素流量をチェ
ックする。目盛りはゼロを指していた。僕は標高8000mのサウスコルで無酸素となり、半ば朦朧として最終キ
ャンプまで歩いていたのだ。
 謙ちゃん隊長は「どうしたのコレは、もう酸素無いよ。どうしてレギュレーターいじるの、途中で倒れちゃうかも
しれないじゃないか」と言う。誰もレギュレーターなんていじってないと思うが、僕には反論する元気も無い。
 8000mで無酸素になった原因は、明らかに朝の僕のパニックにより、プラチリが酸素流量を増やした事にあ
る。酸素マネジメントに慣れてない僕は、その危険性に気づかなかったのだ。僕が無事サウスコルの最終アタッ
クキャンプまで辿り着けたのは、自らの高所順応プレ登山が効いてくれたお陰だろうと思う。