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アジア横断登山行



世界放浪の山旅
東南アジア・シルクロード編

                         篠崎純一
 1989年4月19日午前6時30分、大きなザックを2つ抱え、僕は一人で住みなれた下宿を出た。名古
屋空港についても見送りはない。それはそうだ。この日の出発は誰にも伝えていない。第一僕自身、何時
出発できるのかはっきりわからなかったのだ。4月9日に医師国家試験を受験して、多くの友人がそれぞ
れの赴任先に向かう中、自分には就職先の病院はなかった。
 これから何をやりにいくのか、何が僕を待っているのか、詳しいことは決めていなかった。
 ただシルクロードというのは意識していた。登山しながらシルクロードを旅する。漠然とそういう考えは持
っていた。
 出発時、持っているチケットは台湾までの片道航空券のみ。後は食料から登山許可にいたるまで全て現
地調達の予定である。出発前に出世払いで何とかかき集めた100ドル札の束を僕はお守りのようにギュ
ッと握りしめた。
 買ったばかりのガイドブックを飛行機の中で読む。「台湾の最高峰は玉山3950m、登るには登山許可
が必要。許可を取るには6ヶ月以上前に・・・・。」 許可なんて持ってるわけがないぞ、いきなりこれ
か?でもまずは行くだけだ。
 玉山の麓は阿里山という観光地になっている。タクシーの運ちゃんが言った。
「これ以上先には進めないよ。あんたは独りだ。まして登山許可は無いんだろう。俺はここの住民だ。あ
んたの言うことを聞いて迷惑をこうむるのは俺なんだぜ」
 僕は引き下がるしかなかった。玉山登山はあきらめるべきだ。なあに玉山は誰にも登れる簡単な山
だ。登ったってどうってことないさ。自分をそう納得させ、阿里山下山のバスに飛び乗った。
 高雄郊外の霧台山や大尖石山で台湾の田舎の山登りを楽しんだ後、次の目的地フィリピンに香港経由
で向かうことにする。
 マニラの街は暑かった。僕の泊まっているおんぼろホテルにはクーラーが無い。こりゃたまらん。なんと
かならんか。




 話によるとマニラの郊外にはタガイタイという避暑地があるらしい。よしそこに逃げ込もう。市バスに乗
り込みタガイタイに着いたのは夜。街灯など無い。真っ暗闇の中寝床を探し回った。
 翌朝明るくなってから周りを見渡した。いかにもフィリピンの田舎町だ。熱帯雨林の中から今にも冒険ダ
ン吉が飛び出してきそうだ。
 遠くに湖が見えた。そのほぼ中央に美しい島が浮いている。地図によるとその島にはタール火山(295
m)という山があった。



 よしそれに登ってみよう。面白そうではないか。ガイドブックに載っているような登山はもう卒業だ。僕は
湖に向かって歩きだした。湖畔に小さな漁村があった。こんな田舎にも時には観光客がくるらしい。きち
んと宿もあった。ここで島に渡るため漁船を借りる。「あの山に登りたい。行ってくれないか。」
 一時間ほど波に揺られると、島に着いた。島にも民家があり牛を飼っている。小さいながらキャッサバ畑
もある。
 漁船のオーナーに島の中心部の火口まで案内してもらった。熱風が吹いて思い切り暑い。
40度は軽く超えているだろう。気温もここまで上がると、風に当たるほうがかえって暑いのだ。
 火口から独りでジャングルの中に入った。暑さでくらくらしながら1時間ほどやぶを漕ぐ。タール火山の
最高点に着いた。「今までこんな馬鹿なことをした人はいないだろう」もちろん測量で登った人はいると思
う。しかし登山のためにここまで来る人はそういるとは思えない。僕は自己満足すると、スコールの来る
前に下山し、再び帰りの漁船に乗り込んだ。



 マニラからミンダナオ島のダバオに飛ぶ。フィリピンの最高峰はアポ山(2965m)というが、その山がダ
バオのそばにあるからだ。
 ダバオはどこかきな臭い感じのする町だった。どいうわけか町を歩く女の子には美人が多い。日本だっ
たらすぐに芸能界からスカウトがくるんじゃないか。
 僕は一日アポ山の情報を求めて町をうろうろした。ところが入ってくる情報はどうもよろしくない。
 「アポ山には入れないよ。NPAという共産ゲリラが山中で活動しているんだ。」
 ポン引きのボン氏が耳元で僕にささやいた。
 「え、それじゃ登山はできないのかい」
 「まあ心配するな、俺にまかしときな。それよりもおまえ登山の前に女を抱かないかい。いい子がいる
よ」ボン氏はそう言ってニコッと笑った。
 翌朝再びボン氏につかまった。
 「昨日まで俺はポン引きだった。だが今日から俺は登山ガイドだ。
 彼は僕をまず、フィリピン軍の駐屯地に連れて行った。真偽のほどは知らないが昔ここは日本軍の重要
基地だったという。そこでNPAの最も少ないルートからという条件で一枚のタイプで打たれたお墨付きをも
らった。これがNPAに捕まったとき何か役立つのかもしれない。
 翌日僕はフィリピンのジャングルの中にいた。最初の一時間でボン氏はばてて進めなくなった。彼は愛
すべき男であった。しかしダバオには引き返してもらう。
 僕は現地の若者の中から新しい登山ガイドを雇った。ジャングルを避けるため登山ルートは沢沿いに
できていた。上部に行くにつれ森の濃度は薄くなり、歩きやすくなる。頂上直下の湖畔で一泊キャンプした
後、僕はアポ山に登頂した。



 その後今度は、マレーシアに入りボルネオ島のコタキナバルに飛んだ。ここには東南アジア最高峰キナ
バル(4102m)があるのだ。
 キナバルの麓は観光地化している。主峰であるローズピークに登るだけなら簡単なことだ。登山道沿い
には食虫植物をはじめとした奇妙な動植物が生息しており、蝶や花に興味がある方ならかなり楽しめるの
ではないか。
 少数民族の雇用対策として、登山者は必ず登山ガイドを雇わなければならない。ガイド代を節約するた
めに僕はイギリス人4人、ドイツ人1人とパーティーを組んだ。いろいろあってこのうち無事登頂したのはド
イツ、イギリス、日本各国一名ずつであった。キナバルの頂上付近は、巨大な岩塊となっており、その上
をまるで石畳を歩くかのようにぺたぺたと登ることができる。登頂には2日あれば充分だ。頂上では日の
出に間に合った。僕らはイギリス人持参のスコッチウィスキーでおごそかに荘厳な景色を見ながら乾杯し
た。受験勉強でなまった体を引き締め高度にも慣れさせるため、僕は頂上直下の小屋に一人で残った。
そして数日間の間付近の小ピークの数々に登ったり、ごろごろと休養したりして過ごした。


 
 それから再び香港に戻り、いよいよ大陸横断登山旅行に出発するための準備に入った。香港では同国
最高峰の大帽山(958m)でハイキングを楽しんだりもした。
 東南アジアでの足慣らしを経て、5月27日夜、僕は広州行きの国境越えナイトボートに乗り込み、いよい
よ中国に入ったのであった。
 広州の鉄道駅には切符売り場に見たことないような長い行列ができていた。こりゃ参った。覚悟を決め
て行列の最後に並ぶ。果たして切符は手に入るのだ
ろうか?
「没有」案の定切符は買えなかった。困ったな最初からこの調子なら何時になれば目指すシルクロードに
つくのだろうか?途方にくれているとなにやら怪しげな男が近づいてきた。
「切符は買いたいんだろ」予想通り闇屋だった。窓口で買うより倍近く高い切符だが、これが中国で外国
人が切符を買う最も賢い方法と気づくのに時間はそうかからなかった。
 途中シルクロードの出発点西安で途中下車して観光を楽しんだ後ウルムチに入った。



この間列車の旅は決して快適なものでなかった。駅弁はまずくて、石や毛髪が入っている。ビールはぬるくて気が抜けている。中国語がわからないから周囲の人と会話を楽しむこともできない。これは結構つらいのだ。そのう
えゴビ砂漠のど真ん中を列車が走っているとき、持病の尿管結石が発症した。狭い硬臥に横たわり僕は
痛みに七転八倒した。周囲の中国人も心配してくれるがオアシスの町で下車してもますますどうにもなら
なくなるだけだ。僕はただひたすら耐えた。広州からウルムチまでは1週間の列車旅だった。
 ウルムチ駅に着いたときには結石の痛みもやや治まってきていた。しかしそこに待っていたのは更に良
くない事態だった。ウルムチについたその日に北京では天安門事件が勃発したのだ。日本との連絡は完
全に遮断された。
 僕はウルムチで日本山岳会東海支部による天山山脈雪蓮峰(6627m)遠征隊に合流する予定だっ
た。北京に関する情報を僕はまったく手に入れれなかった。ただウルムチの町は平常どおりで危険なこ
とは何もなかった。そういう中僕は一人で日本からの連絡を待ち続けた。そして一週間後突然日本から数
日遅れの電報が届いた。「北京は内乱状態、雪蓮峰登山は中止する。北京には戻らず、ヨーロッパ経由
で帰国せよ」文面にはそうあった。「ありゃー、何てことだ。これはだめか・・・・」
しかし状況は突然変わった。電報が届いた日の夜、突然日本との国際電話が通じた。「情報を分析した
結果、登山計画は実行する」僕はあきれながらも、ほっと安心したのであった。






 その約一ヵ月後自分は雪蓮峰の6050m地点で懸命にルートを延ばしていた。ここは傾斜が急になって
岩が出ている。僕はこの地点をロックバンドと呼んで、密かに登山成功の鍵を握る地点と考えていた。
一昨年の雪蓮峰登山ではこの部分を大きく巻いてルートを作った。そのため余計なロープと労力を必要と
したのだ。雪崩の危険を回避するためにも直答する必要がある。これは森本登攀隊長の考えでもあっ
た。
 僕は当初きっと誰か他の岩登りのうまい人がここにルートを作ってくれるだろうと思っていた。しかし順番
は自分に回ってきていた。「仕方ないあそこを突破するぞ。」僕は覚悟を決めてルート工作を始めた。周囲
はガスがかかり小雪が舞っていた。実際に登ってみると本当に難しいのは数十mしかなかった。しかしそ
れでもここを突破したことは僕にとって大きな喜びだった。



 翌日晴天の中、山崎彰人隊員と僕は雪蓮南峰(6450m)の頂上に立った。一つの山の初登頂だっ
た。








 シルクロードの旅人たらんと思っていた僕にとって、天山山脈の峰に登頂したら、次はパミール高原そし
てカラコルムを狙うのは必然的なことであった。
 僕はパミール高原での登山を代表する山としてムスターグアタ(7540m)を選んだ。中国とパキスタン
を結ぶ友好道路から望むムスターグアタは実に立派だ。昔のシルクロードの旅人も、必ずやこの山を見
上げたに違いない。
 ムスターグアタに登るために、僕は連絡官の張氏、ポーターの王氏と組んで新しく日中合同隊を作った。
ムスターグアタの標高は7564m、僕の今までの最高到達点よりも1000m以上高い。しかしルート自体
に困難なところはない。問題は高度だけだ。
 当初僕はこの山にアルパインスタイルで挑むつもりだった。しかし高度の壁は思ったよりきつかった。結
局僕はたった一人の極地法を採用した。
 ベースキャンプまでは、トラックの入れる部落からわずか一時間のキャラバンですむ。そこからは頂上
までひたすら白い斜面が続くのみだ。あえて言えばC1からC2の間に数箇所急なところがあって、しかも
その間に無数のヒドンクレバスが走っていた。だがこれも一度慎重にトレースをつければ同じところを何度
も通過するだけである。






 ベースキャンプ建設から12日後の8月18日、僕はムスターグアタに単独で登頂した。ほぼ同日に入山
した他隊に先駆けて一番乗りの登頂だった。





 ムスターグアタ登山で僕のおんぼろ装備はますますぼろくなった。ひげも汚く伸び、顔の皮も日焼けで
ひきつれて、猿の尻のようになってしまった。
 そういう格好で約100kgの荷物を持ち、カラコルムハイウェーの満員バスにむりやり体を突っ込んだ。
 これからパキスタンに入ってカラコルム山脈に登るぞと心は張り切っていたが、外見は浮浪者とあまり
変わらなかっただろう。
 案の定パキスタンのイミグレーションは甘くはなかった。僕は精一杯の笑顔を作ってオフィサーに言っ
た。「ビザは持ってません。だけど3ヶ月の滞在許可を下さい」
 オフィサーは汚いものを見る様に僕の顔を一瞥すると、軽く言い放った。「ノー3日だ」
 交渉の余地は無かった。僕はトボトボと荷物の許へ戻った。その時僕は足に軽い凍傷を負っていた。
その痛む足でイスラマバードに行き、滞在許可の延長をしてこないといけない。この時が今回のシルクロ
ード行で最も苦しいときであった。
 イスラマバードでは、セクレタリーオブパキスタンという役職を持つ怪しげな男が一ヶ月のビザを発行し
てくれた。
 イスラマバードの街は暑かった。食い物も辛いカレーばかりだ。そういう中僕はできるだけ安静を保ち痛
む足裏に市販の膏薬を塗って、凍傷の治療に専念した。
 何とか足のほうが良くなったころ、僕は再びバスに乗りカラコルムの山中に向かった。
 目標はシムシャル峠の未踏峰群であった。
 シムシャル谷には、巨大な8000m峰はない。従ってそんなに多くの遠征隊はこの谷に入ってなかった。
ましてそのシムシャル谷を7日間もつめたところにあるシムシャル峠で登山をした人間はそれまでいなか
った。
 パキスタンでは6000m以下の山は無許可で登れる。シムシャル峠周辺には手ごろな5000m峰が未
踏のまま多数あるに違いない。僕は地図を読んでそうにらんだ。しかもシムシャル峠は古くから利用され
たシルクロードの歴史的峠の一つだ。その点も重要な選択理由であった。
 シムシャル谷のキャラバンは最高に面白かった。ワイヤーロープでのチロリアンブリッジ、大変な落石
帯、氷河の横断を含む極めて冒険的なキャラバンだった。そして何より僕はそこで生活している遊牧民た
ちのライフスタイルに興味を覚えた。



 彼らと共にヤクを連れてキャラバンをした事は僕にとって生涯忘れられない体験となった。



 シムシャル峠は狙い通りクライミングパラダイスであった。峠に一人用テントを張ると僕は次々と周囲の
山に登っていった。



 今僕の見ている景色は、今まで誰一人見たことのない景色なのだ。峠の周囲にはシュルト氷河、シュー
ジュラブ氷河、ジョイドール氷河の3つの大きな氷河がある。これらの氷河の周囲には、高度こそ劣るが
未踏の山々がごろごろ転がっていた。しかもこれらの山々は未許可で登れるのである。



 僕は単独であるが故に比較的易しいルートに常に取り付いた。ロープは基本的に使用しなかった。雪
の斜面ならそれで何とかなった。ただガルダンデスという岩峰を登った時には、5ピッチロープを使用し
た。
 未踏峰4座を含む6峰に登頂、それがシムシャル峠での成果であった。既登の2峰は後になってから、
現地の遊牧民が登ったのではないかと聞いたものである。
 ベースキャンプを発つ日、ポーターの一人がヤクに乗って迎えに来てくれた。ヤクの体は温かい。またが
ると尻の方からぽかぽかしてくる。ヤクに乗って峠を越えた。既にカラコルムでは早い冬が押し寄せようと
していた。



 パキスタンからイランに抜けた。国境行きの列車は例によって満員。トイレの前で寝かされる羽目になっ
た。
 イランはパキスタンに比べ、はるかに近代的な国家である。街道は舗装され街灯まである。そしてなんと
いっても素晴しいのはやみ両替のレートである。公定レートの17倍、時には20倍近くになった。僕のよう
な貧乏旅行者にとってイランはパラダイスだった。僕は久しぶりにエアコン付きのホテルに泊まると、湯船
の中にたっぷりとお湯を入れて風呂に入ったのであった。






 イランでは同国最高峰のデマバント(5601m)に登った。現地で出会った蝶収集家と一緒であった。登
山には3日を要した。内容はただ歩くだけである。富士山のような形をした山で、登山自体も山小屋のな
い大きな富士山を登っているようなものだ。
 困ったことに登山にかかる費用は全てドル払いであった。登山とは何と金のかかるものだ。残念ながら
山登りにはやみ両替は通用しなかったのである。



 冬と競争するがごとく、僕はトルコに急いだ。トルコではノアの箱船で有名なアララットに登るつもりであ
った。東トルコは既に大分寒かった。麓の村から真っ白に輝くアララットが見えた。これは山は相当厳しそ
うだぞ。
 僕は登山許可を得るために、いろいろと手を尽くした。
 「もう冬だ。だめだ。冬は登山禁止だ」トルコ観光局の人間はそう言うと「また来年の夏に来なさい」と慰
めてくれた。
 アララットは美しい山であった。「許可なしで登ってやろうか」ふとそういう思いがよぎった。だが山はもう
完全に冬であった。今の持っている装備で登るのは相当困難だろう。
 僕はあきらめた。あきらめると突然気が軽くなった。
 「さあ観光しよう」僕はそう思うと、トルコを代表する観光地であるカッパドキアへ向かったのであった。
 イスタンブールでは毎日雨が降り続いた。ガラタ橋から霧の向こうにアジア大陸が見えた。
 僕の旅はまだ終わっていなかった。



僕にはまだまだ行きたい所はたくさんある。
 次はアフリカに行こう。僕はそう思った。しかし所持金はもう底を突いていた。日本に帰るしかない。この
ままアフリカに向かったら、帰りの飛行機代まで無くなってしまう。「よし帰ろう。これから先のことはまた日
本で考えるさ」
 僕は満足した。日本を発ってから7ヶ月が経とうとしていた。
         (89年12月17日、ナイロビの安宿にて、南京虫と戦いながら) 
        東海山岳第6号より


このシルクロード行はアジア横断登山として登山界からも比較的高い評価を得た。上は山岳雑誌
の表紙になった僕です。

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