環太平洋一周環境調査登山隊96年4月27日〜96年9月18日編

苦渋の結末を迎えた環太平洋登山の前半戦。
くじけそうな自分を励ましてくれたロレックス賞の受賞。
まだ自分には感動の日々が待っていてくれた。





Mt.Mckinley(6194m)
アラスカ州 マッキンレー
竹田伸、鈴木孝雄

   <頂上アタックまで>   竹田 伸
<アンカレッジにて>
 アラスカと言えば、雪と氷に閉ざされた土地だと思っている人が多いと思う。
 確かに年間を通じ寒冷な季節は長く続く。しかし我々がアンカレッジ空港に降り立った時の過ごし易さにはいささか拍子抜けしてしまった。北極圏に近いことで日照時間は長く、寝るのも惜しいくらいである。
 アンカレッジはキャプテンクックが錨を降ろした地として知られるが、古くから交通の要衝としての役割を果たしてきた。
 さらにマッキンレーのあるデナリ国立公園の様な、大自然への玄関口として発展してきた。我々はこの町を起点にしてマッキンレー6194m、カナダのローガン5959mに向け環太平洋環境調査のスタートを切った。
 マッキンレーは日本人にとって、植村直己、山田昇などのスーパースターが亡くなった場所としてあまりにも有名であり、岳人なら一度はチャレンジしたい山である。
 今回の我々の隊員構成は私を含め4名である。日本山岳会東海支部の副支部長であり、教員として多忙な日々を過ごす隊長の徳島和男、8000m峰無酸素登頂の経験もある鈴木孝雄、そしてプロジェクトのまとめ役の篠崎純一、文句のないメンバーとなっている。

<アプローチ>
 翌日天候に恵まれた我々は、アンカレッジよりタルキートナに移動し、レンジャーステーションで受付を済ませた。そこで緊急時の連絡方法と装備の口頭でのチェックを受け、タルキートナより標高2200mのランディングポイントまで軽飛行機で約30分のフライトとなった。
 ここよりマッキンレーノーマルルートのウェストバットレスに取り付くために、4200mの通称メディカルキャンプに向け登山を開始する。篠崎と私は、山スキーを履きソリを引くスタイルで、徳島と鈴木はスノーラケットにソリという格好である。もちろんクレバス対策のため二人一組でザイルを結び合っている。広大なカルヒトナ氷河に一筋のトレースが伸びて行く
 ランディングの日も含め5日間ゆっくりと順応をしながら高度を上げ、メディカルキャンプ入りする事ができた。山スキー、スノーラケットは登高のきつくなるウィンディーコーナー手前でソリと共にデポする。
 さすがにこの標高になると、頭痛もひどくなり喉も乾燥のためひどく痛む。
 しかしマッキンレーの核心部はまだまだ先である。メディカルキャンプよりウェストバットレスの稜線までは雪壁に張られたフィックスロープを伝う。稜線上は烈風が吹き荒れている。苦しみながらも何とか5200mのアタックキャンプの設営地に着く事ができた。

  

 <マッキンレー登頂>     鈴木 孝雄

<頂上に向かって>
 4時45分の起床である。初めての5000メートル台の睡眠なので、個人差はあるが高度障害が少し出てきた様である。脈を取ってみると年輩組は平地並の60前後なのに一番若い竹田は100を越えている。年寄りは反応が遅く、筋肉痛と同じで三日後に出ると笑い飛ばしてみるものの、竹田は食欲はあるが時々空咳もするし心配である。
 アタック日の朝食は簡単でかつ食欲が出るようにと海苔付きの雑炊が用意された。単調になりがちな山の献立の中で、食料係竹田の行き届いた配慮は、疲れた体にエネルギーと食事の楽しみを与えてくれる。
 各々熱い紅茶をテルモスにつめて7時20分に出発する。
 曇ってはいるもののここは窪地のせいか風は無い。まずますの天気である。
 平坦な雪原を20分も進むとデナリパスへの広い斜面のトラバース気味の登りが始まる。
 傾斜は段々急になり雪も不安定になったり、クラストしていたりときを緩められない状態が続く。何の目印も無い大斜面なので、もし天気が急変すれば帰幕は危くなる。マーカーにと赤旗をさして進む。
 ウィンディーコーナーの辺りではスコッチテープを巻いた金属製の棒の殆どが根本より90度に折れ曲がっていた。一度極北の風が吹けばこんな竹製ではひととまりもないとは思いつつも、気安めにはなるので、せっせとさして進む。
 同じ方向ばかりのトラバースで足首が疲れてきたころの5650メートルのデナリパスに着く。9時15分である。450メートルの登高に2時間近くかかっったことになる。
 まだ順応が不十分である。ここは北峰と南峰とのコルで極北の風が吹くと見えて、カチカチのアイスバーンである。
 岩陰に揃い一服する。食事をしている間に心配していた天気が変わり目にきた様である。
少し風が出てきて白いものも混じってきた。食事もそこそこに出発する。
 右の気象観測用の鉄塔のある尾根に取り付くのがルートなのに、我々はそれに気付かず、緩い傾斜の雪原の向こうに見えるピークを前衛峰とみて、直接取り付いてしまった。ラッセルが深くなりなかなか進まない。1時間近く歩いて振り返るとまだ雪原の真ん中である。
 高所順応がうまく行かなかった竹田と篠崎のパーティーは遅れがひどくなってきた。
 天気も変わりつつあるので、このスピードではたとえ登頂できたとしても帰幕出来なくなる可能性が出てきた。若手のパーティーはここから戻る事にする。

<頂上への苦闘>
 徳島、鈴木パーティーはそのまま突っ込む。やっとラッセルから開放され、急斜面に取り付く。アイゼンが気持ち良く効き高度が稼げるが、傾斜がきつくなり左へ左へとトラバースを余儀なくされた。ついに行き詰まり、壁に向かい合い前爪を蹴り込んでのトラバースなる。バイルを持ってくればと後悔された頃にやっとの思いで弱点を見つけ稜線に出る。
案の定ルートから外れている。行きがけの駄賃にと目前の5950メートルのピークに登る。
 ここまで来ても頂上は姿を現してくれず、まだ2キロメートルも向こうであった。
 一旦下り小さなピークを越えたらまた雪原が現れる。潜る雪に七転八倒。やっとラッセルから解放されたと思ったら、今度は今にも雪崩れそうな急斜面である。早く危険地帯から脱出したいが苦しく、心臓が喉から飛び出しそうである。
 雪質が変わり少し締まってくるが、踏み割るとクラストした雪片がバンバン落ちてくるのでセカンドは大変である。いやな箇所を無事に通過しやっとの思いで南峰からの稜線に這い上がる。目の前の稜線が頂上の一角か、或いはすぐ近くと思い楽しみにして稜線に飛び出してみると、そこは頂上からの稜線ではあるが、なんと頂上は遙か向こうであった。
 今までのルートとは一変してアルペン的ムードが漂い、その雪稜は長く険しく絶望的に見える。
 天気との競争であり、食事の時間も惜しんで登ってきたので遂にシャリバテである。凍らないようにとヤッケの下の上着のポケットに入れてきたチューブ状のゼリー食品であるが、既に半分凍ってしまったものを二人で分けて食べる。
 マッキンレーの頂上が、丁度西穂の独標から奥穂に登る位の感じに見えたのに、食事をしたら、急に近づいてくるような感じがした。
 むくむくともたげてくる登高意欲にどちらかともなく腰を上げ歩き出す。
 ナイフリッジは不安定で歩きにくい。雪が降った後強風がまだ吹いていないのか締まりが悪い。やっと頂上かと思ったら、それはカシンリッジから突き上げてくる頭で、稜線は更に向こうに続いている。小さなピークを越えたらその先の稜線は少し登るだけで後は急に落ちている。待望のマッキンレーの頂上である。時刻は午後2時半であった。まず雪のサンプルを採取する。その様子をカメラにおさめ二人で固い握手をした。あとは、いつもの儀式でお互いに写真を撮ろうと徳島はヤッケにしまってきたカメラを出すが、案の定凍って動かない。この時鈴木が撮った徳島の喜びの写真が海外の山の最後の写真になろうとは誰が想像したであろうか。彼はK2の新ルート開拓に全てを賭けていた。彼にはK2のみに終わらず、もっと若手を育て、東海支部を盛り上げ、世界の東海支部にして欲しかった。それが出来るのは彼以外にいないのである。惜しい人を亡くした。順序が逆であった。
 頂上の展望はすばらしく、360度山また山で、秀峰のフォーレイカー、ハンターがひときわ美しく見える。カシンリッジもすばらしい登攀を提供してくれそうである。
 雲行きが怪しくなってきたので何の未練も無く頂上をあとにする。登ってくるときは分かり難かったが、デナリパスから続く広くて緩い傾斜の尾根を真っ直ぐに下れば良い。ABCまで2時間半で降りる。

<下界に向かって>
 一晩中吹き荒れた風は朝になっても収まらずテントをバタつかせている。窪地のテント場でこんな風では稜線はさぞかし強風であろうと想像される。竹田は調子が今一つで登頂は諦める。篠崎はここより上はクレバスが無いので単独でアタックをかけようと、万全の風対策をして風の収まるのを待つが、踏ん切りがつかず、また、竹田も早く降りた方が良いと判断して、11時50分に全員下山を開始する。
 ウェストバットレスの下降口までは稜線であり北風をまともに受けるが、ここから先はもう安全圏である。バットレスはフィックスザイルが有りスピーディーに下る事が出来る。
 早速BCのテントをたたみ行ける所まで下山する。一段と重くなったザックは肩に食い込むが、気持ちは軽くウィンディーコーナーもアッという間に通過した。アタックの日に上は小雪が舞う程度であっったが、ここから下は大雪だったようで膝近くのラッセルである。3300メートルのテント場は、まるで涸沢の様で30張近いテントが張られている。
我々が入山した時は一張も無かったのにびっくりである。テントを張り終えると、すっかり回復した竹田は、目の前に広がる大斜面に見事なシュプールを描き、滑降を楽しんでいた。
 5月9日、今日はランディングポイントまでとゆっくり出発する。篠崎・竹田は橇1台を間に入れアンザイレンしてスキーで気持ちよさそうに滑る。登りは橇を使わずに全荷物を担いできた鈴木は、竹田に借りた橇の荷物の上に跨り、童心に返ったようで、徳島と共にアンザイレンしてキャッキャッと奇声をあげながら、スキー組と同じペースで滑っていく。午後3時にランディンングポイントに着き、30分後にはタルキートナへの機上の人となった。

(追記)篠崎は翌年6月に久保田敏康と共に個人山行として再度マッキンレーに出かけ、同ルートより登頂した。

<記録概要>
(隊の構成)  徳島和男、鈴木孝雄、竹田伸、篠崎純一
(活動期間)1996年4月26日〜5月9日
(行動概要)4月26日:名古屋→アンカレッジ
        27日:→タルキートナ→カヒルトナ氷河2500m地点
5月 2日:→メディカルキャンプ4300m地点、ベースキャンプ
         7日:マッキンレー登頂→アタックキャンプ5200m地点
         9日:→ランディングポイント→タルキートナ

<現地案内>
(アクセス)現在、日本からアンカレッジまでの直行便は無い。ソウル経由の大韓航空を利用する場合が多い。
 氷河フライトの為の飛行場のあるタルキートナまでは、アンカレッジから陸路となる。鉄道、バスもあるが、荷物のことも考えると各種シャトルバスサービスを利用した方が便利。
 タルキートナには氷河飛行の会社が数社でしのぎを削っており、サービスも良い。
 登山中に使うスノーラケットとトランシーバーは飛行機会社から借りると良い。ソリも借りられるし、白ガスも飛行場で購入した方が良い。
(ビザ)90日以内なら不要。多くの場合出国チケットを要求される。
(言語)英語。
(気候)登山適期は5月から7月上旬。6月がベストだろう。5月の登山は寒い。7月中旬以降は氷河に幾つものクレバスが開き、極端に危険となる。
(通貨及び物価)US$、アラスカ州に消費税は無いが、物価は本土に比べてやや高い。
(現地連絡先)Denali National Park Talkeetna Ranger Station(登山許可)
P.O.Box 588 Talkeetna,AK,99676
TEL:1-907-733-2231 FAX:1-907-733-1465
E-mail:DENA_Talkeetna_Office@nps.gov.
Doug Geeting Aviation (タルキートナの氷河フライト会社)
P.O.Box 4 Talkeetna,AK,99676
TEL:1-907-733-2366 FAX:1-907-733-1000
加藤逸朗 Midnight Sun Express & Captain Cook Inn
(日本人経営の現地旅行代理店、何かと便宜を計らってくれる。)
P.O.Box 104113,Anchorage,AK,99510
TEL:1-907-276-2033 FAX:1-907-276-3805
(登山手続き)マッキンレーとフォレイカーに登るには、登山に入る60日以上前にタルキートナのレンジャーステーションに事前登録しておく必要がある。その際に登山料前金として1人25$要求される。入山時にはレンジャーステーションに立ち寄り、細かい説明を受ける。その時に登山料の残金1人125$を支払う。
 その他に氷河フライトの会社にも、予約の電話かFAXを入れといた方が良いだろう。
 代金の支払いにはクレジットカードが便利。
 この辺の登山手続きを全て、日本の海外登山に強い旅行代理店に代行してもらう事も出来る。
             


マッキンレー山行 支部報用原稿
                            篠崎 純一
 環太平洋環境調査登山隊の2年掛かりのサンプリングツアーは5月25日の富士登山で、終了となった。
 この環太平洋計画の山の中で、一つだけ他隊員が登っているにもかかわらず自分が登頂できていない山があった。それが北米大陸最高峰マッキンレーである。
 1年前の5月7日、頂上間際まで迫っていたのにもかかわらず、僕自身は登頂を逃してしまっていたのだ。
 環太平洋の代表的な山を全て登ると豪語していたのに、マッキンレーに登頂していなかったら、尻の座りが悪くてしかたがない。
 そこで、この2年間の無職期間の最後を飾る登山に、僕はマッキンレーを選ぶ事にした。
 前回の経験がある分、今回の登山は余裕があった。準備も全てエージェントを通さずに済み、費用も安くついたと思う。
 6月2日にカヒルトナ氷河南東フォーク上の標高2200m地点にセスナで着陸する。ここから先は完全な雪と氷の世界だ。
 正面には恐ろしい角度でマウントハンターの北壁が聳えている。
 ここからウェストバットレス下にベースキャンプを設営するまで、悪天による停滞も入れ、タップリ1週間をかけた。
 ベースキャンプの標高は4300m。この高さに入るまでの間に、しっかり順応しておくのが、マッキンレー登頂のこつである。
 上部にはマッキンレーノーマルルートにおける最大の難所と言われているウェストバットレスが控えていた。
 しかし、ここには頑丈なフィックスロープが張りっぱなしになっている。
 このフィックスロ−プのおかげで、それほどクライミングの技術を持たない者でもマッキンレー登頂が可能になっているのだ。
 マッキンレーには毎年、かなりの数のアメリカ人ガイドによる公募登山隊が入山している。
 彼らが安全に登下降するためには、こういったフィックスロープが張りっぱなしになっている事がぜひとも必要なのだろう。
 僕らも有り難くフィックスロープを使わせて貰う。
アタックキャンプへの荷上げを経て、6月14日頂上アタックとなった。
 極地での登山は日照時間が長いので助かる。ゆっくりと寝坊して昼近くに標高5200mのアタックキャンプを出た、
 今回のパートナー久保田さんも調子が良いらしい。
 雪崩が恐ろしい広い斜面を、斜め上方に横切っていくと、デナリパスに着いた。
 ここは風が強くて有名な所だ。
 この付近では、日本を代表する登山家が何人も犠牲になっている。
 さすがにとても寒い。慌てて羽毛服を着込んだ。
 稜線上を着実に高度を稼ぎ、幾つかの広い台地を越えると、カヒルトナホーンへの突き上げとなる。高度の影響がぐっと体に応える所だ。
 やせた稜線を経て、午後5時半頂上に着いた。
 自分にとって2年間に亘った登山三昧の日々の最後を飾る山頂だ。
 その山が北米大陸最高峰のマッキンレーになった事は、やはり良かったと思う。
 カヒルトナ氷河下山時には、登りの時には見あたらなかったクレヴァスが新たに幾つも顔を出していた。
 少しガスが出ると、さっぱり方向が分からなくなるため、いつ足を踏み外すか分からない。油断禁物の下山である。
 入山15日目にセスナのランディングポイントに帰り着き、さっそくトランシーバーでセスナを呼んで貰う。
 山麓の小さな町タルキートナの飛行場まで、1時間ほどのすばらしい展望フライトとなる。
 昔、植村直巳が泊まったというモーテルに向かい、彼が宿泊した部屋にチェックインした。
 夕食はモーテルの経営するレストランで、バドワーザーを飲みながら分厚いステーキにかぶりつく。
 ここのレストランのメニューにはマッキンレーアイスという特大パフェがある。
 前年にも同じテーブルでそれを食べていた。
 今回もデザートにマッキンレーアイスを注文する。登頂後のアイスクリームの味は予想通り格別の甘みであった。






Mt.Logan(5959m)
ユーコン準州 カナダ ローガン

<ローガンの広大な氷河を行く>   小川 繁
<アラスカハイウェーをひた走る>
 1996年5月13日、アンカレッジ空港でマッキンレーを終えた篠崎、竹田の出迎えを受ける。早速レンタカーを借り受け、食料、装備の買い出しを行い今日の宿泊地キャプテンクックイン(日本人経営)へ。
 夕食にマッキンレー隊の徳島、鈴木が加わり日本食レストランへ行く。登山中のエピソードをいろいろと伺い、一仕事終えた先輩達の姿を見て、次は俺だと意気込む。
 宿に帰り、食料、装備の仕訳を行うが大変な作業が夜まで続く。高橋の見事な手際よさに感心しながら眠りにつく。
 宿のご主人加藤さんたちの見送りを受け出発。アラスカハイウェー1号線(グレナン)を30分ほど走ったところで市街を抜け、早くも目の前に広がるチュガチ山脈の氷河と雪景色を右に見ながら快適なドライブ。グレナレンで4号線と交差、右に向かえばバルディーズへ、北極海から石油パイプラインが太平洋まで通っている終着地である。以前タンカーの座礁事故があり大変な環境破壊を起こして有名な地である。
 左に向かいガコナ、目前に5000m級のランゲル山群が山裾まで見える。氷河から流れ出た水が大湿原を作り、ブラックバーン、ランゲル、サンフォードの頂がその先に聳えている。やがてフェアバンクスからの2号線と合流、右折しカナダ国境へひたすら走る。アンカレッジを発って10時間、やっとアラスカの国境検問所を通過して、カナダ側のビーバークリークに到着。
 早朝目が覚めてあたりをうろつき廻る。寒々としたこの小さな集落は、10分も歩くと先は原生林がどこまでも続く。眠り込んでいる仲間を起こし、朝食もそこそこに先を急ぐ。
 所々未舗装のハイウェーを一路ハイネスジャンクションへ、道は果てしなく地平線の先まで延びている。やっとクルアニレイクに到着、湖は全面凍結したままの氷河湖であり、この静かすぎる景色には気が滅入る。
 原野を切り開いて出来た街は起伏が多く、ワーデンオフィス(国立公園管理事務所)の建物は芝生に囲まれたログハウスであった。
 手続きを済ませ、ビデオを見ながら簡単な説明を受ける。手紙にて色々とアドバイスしていただいたローレンス氏は不在であった。後にローガンのランディングポイントでお会いし、大変お世話になる。
 さあ本日最後の仕事、我々をローガンまで運んでくれるパイロットのアンディさんを訪ねる。大柄で温厚そうな方であった。随分と古びた小さな飛行機が目に入り、これで明日飛ぶのかと思うと不安になる。
 アンディさんに宿を紹介してもらい、飛行場裏手にあるロッジを訪ねる。街の名前はシルバーシティーとあるが、なんと2件しか家屋が無い。
 氷の塊が湖の縁まで迫り、対岸の岩山が高く聳えている。何と寒々とした風景であろう。

<世界最大の山岳氷河地帯にて>
 いよいよ出発の日が来た。これからしばらくベットに寝れないかと思うと、なかなか布団を抜け出せない。 
竹田、高橋と荷物を積んだ飛行機は爆音と共に砂塵を巻き上げ、蛇行しながら離陸していく。2時間後、後発の篠崎、私も機上の人となり、山裾ぎりぎりのアクロバット飛行を1時間も体験した。操縦桿を握るアンディさんの楽しそうな顔が今も忘れられない。
 2800mのランディングポイントに全員集結。早速、風避けブロックを積みテントを設営。タクティクスの再確認後、スキーを履き、橇を引きながら荷上げに向かう。
 3100m付近にデポして、始めて氷河をスキーで下るが、雪質は悪い。
 5月17日、今日から本格的な荷上げが始まる。篠崎、竹田そして高橋、私の組に別れアンザイレンをして、先行している隊のシュプールに続く。
 クィーンピークとキングピークに挟まれた氷河地帯をひたすらスキー歩行、右側のキングピークは5000mまで垂直に岩壁が発ちはだかっている。
 3400mにC1設営、高度順化が終わっている2名を残しBCまで一気に下る。
 5月18日、今日も昨日と同じルートで荷上げに行く。C2に向かった篠崎からC1をもっと上に上げるように指示がある。荷物を増やし次なるC1予定地に着き、休憩をしていると息を切らし篠崎達が帰り着く。C2へは急斜面が連続し1日の行程が長いと報告を受ける。
 5月19日、急斜面が連続し高度の影響を感じ始める。C2を整備して、篠崎、竹田と別れ急斜面のもなか雪に苦労しながらC1に帰り着く。
 5月20日、昨日より早くC2に到着。上部の荷上げ、偵察から帰ってきた篠崎の報告は、クレバスが多く、所々ヒドンクレバスを踏み抜いた跡があり、明日はお互いに細心の注意を払い行動する事を確認しあう。
 5月21日、出発して間もなく雪壁があらわれ、スキーをザックに取り付けつぼ足で登る。急な斜面を四つん這いになり、高度の影響を更に強く感じ、喘ぎながら上部を目指す。突然先を行くカナダ隊の女性が転落し、アンザイレンのお陰で事なきを得る。懸垂氷河の巨大なブロックの脇を抜け見通しの良い氷河上に出る。やがて大きく口を開けたクレバスを迂回し、スノーブリッジを息を止めて渡る。
 遠くの雪面に人影が見え、C3の位置を確認する。入山して連日の行動に体力の限界を感じる。
 C2への帰途を考えるとここらで下った方が安全である。高橋に下山を伝え一緒に同行して貰う。
 C3予定地まで向かう篠崎、竹田と別れて下り始めるが、スノーブリッジが登ってきた時より悪くなり、おそるおそる滑り渡った。 
 C3から戻ってきた篠崎等の話しでは、女性が落ちて救助をしたと報告を受ける。
 この日から4日間、天候が悪くC2に停滞するが、調子が戻らない私は下山を決意する。
 途中もなか雪にさんざん苦労しながら、ランディングポイントまで2日間を要し、5月28日帰り着く。ランディングポイントでは次々に入山してくる各国の隊が増え、賑やかになっていた。突然私の名前を呼び、手を握ってくる外人がいた。なんと公園レンジャーのアンドレーローレンス氏である。以後3日間キャンプを共にし、ご馳走を振る舞っていただく。


<北米第2の高峰ローガン登頂>     竹田 伸

<アタックキャンプC4へ>
 5月26日の朝は、4日間の停滞が嘘のように快晴となった。
昨夜は、キングピークからの懸垂氷河の崩壊と思われる大きな音に一度飛び起きたが、かなり下の方で起こったらしい。
本日で、小川はBC経由でランディングポイントまで下山待機し、篠崎・高橋・竹田の3名は、C3入りの予定だ。定時連絡の時間を決め出発。セラック帯も4回目の登りとなるとかなり傾斜も緩く楽に感じてしまう。大きなクレバスを迂回し、今にも崩れそうなスノーブリッジを渡り、その後はいかにもヒドゥンクレパスが有りそうな斜面をお互いに結んだザイルだけを頼りにスキーで慎重に進む。
 20日に荷上げを行ったときには、先行していた篠崎が突然ヒドゥンクレパスに落ち、ザックが引っかかって止まったから良かったものの、スキーなしでこれ以上上部へ行くのは危険と判断し、途中で装備をデポし引き返していた。
 C3は標高約5000mで、少し離れたところにセントエライアス山がよく見える。21日に4人でC3まで荷上げを行う予定であったが、小川の調子が良くなく、高橋と共にC1まで先に下降する。
 その後篠崎とC3まで荷上げを行なった時、環境調査のサンプリングをしながら上部を見上げると、トレースが無い未知のルートが見え、胸が躍った事を思い出しながらテントを設営した事を思い出す。たっぷりと水分補給と食事をし、氷点下のいつまでも薄明るい夜の下、3人くっついて早々と眠りにつく。
 翌日は、アイナパスまで荷上げの予定である。
昨日、隣に一緒に設営していたカナダのケベック隊の話では、もうアイナパスまでは他の隊がルートを開いているという話だったので、今日のアイナパスまでの荷上げは少しは楽に思っていた。しかし相変わらずヒドゥンクレバスとセラックが続く。コバルトブルーの深い海のように開くクレバスは自分たちを誘うかのように不気味である。
 しかしクレバス地帯を越えると、日本の広いスキー場を思わせるルートがアイナパスまで続く。アイナパスはもうあそこだとわかるのに、荷物と白い氷河の大地は自分たちを近付けようとしないかの如く、重くそして広大だ。
 上部でクラストしてきた斜面を、スキーからアイゼンに履き替え1時間程登り、アイナパスに到着した。すぐにカラス対策のために穴を掘りその中に荷物を埋め目印に旗を立てておく。帰りはヒドンクレバスの恐怖もつい忘れ、スキーにて各自でクレバス地帯までの滑降となった。
 帰国後、支部長に氷河地帯でアンザイレンせずに行動したことで、ひどく怒られることになったが、5000mを越える場所からの滑降は一生心に残る最高のものだった。
 テントに戻り、高橋に少し疲れが溜まってきたようだが、3人で話し合い天気の良い今のうちに行ける所まで行こうということになった。
 自分は、先月のマッキンレーで体調不良か、初めての高度に順応できなかったかが原因で登頂できず悔しい思いをしたが、うまく順応できているのか、今回は体調も良く天候だけが不安であった。
 28日はC4予定地までの行動で、距離も行動時間も長く予想されるので、1時間早い出発となった。
昨日より重い荷物で、しかも風もあり指先が冷くなるが、ローガンでは微風のようなのものなのだろうと思いつつアイナパスに到着。
 ここより下降であるが、トラバース気味にトレースが付いておりソリを引きながらでは、まるでサンドバッグを下に付けながら歩いているようなもので非常に危険に思えた。しかし大量の荷物を担ぐことも出来ず、大変な下降となった。幸いにもたとえ滑落しても大丈夫と思えるほど急斜面ではなく、下まで行っても300m程で止まりそうであった。
 アイナパスより同時行動していたケベック隊は、どうやら登山学校の方々らしくルートも熟知しているようで、ソリを引くような事はしていない。それに十数名の人数なので一人一人の荷物も自分たちよりは楽なようだ。
しかし、女性が半分ぐらいのメンバー構成の為か思うように行動できないようだ。
やっとの思いで斜面を降りてみると、迂回するようにルートをとればもう少し楽に下降出来るルートがとれそうに見え溜息をつく。さらに広大な斜面を進むが、いっこうにローガンのピークらしき場所が見えない。長い長い尾根だけが右側に見え左側には氷河地帯が低く見えるだけだ。
 今回のローガン山行の資料として、我々は過去の登山記録をタクティクスの参考にした。その中に、どうやらこのあたりに観測基地があり、隊の一人が体調を崩し、観測基地の輸送機に便乗させてもらい下山したと載っていたのを覚えている。
 やっとの思いで先行するアメリカパーティーのテントが設営してある場所にたどり着きここをC4とした。自分たちも含めてアメリカ2人組のパーティー、ケベック隊の3パーティーだけで、さすがに篠崎もソリのサンドバックとの格闘が効いたのか疲れが隠せない。天場の整地をしテントを設営するのに、1時間はかかっただろうか。硬い岩のような氷の大地を削るのは重労働である。トイレもC2では休養日に周りから見えない程の深さを掘り立派なトイレを作って喜んでいた自分だが、今は作る気になれなかった。
昨日、C4入りしたアメリカ隊は頂上に行っているようだ、遅くなっても帰ってくる様子もなくルート状況を聞こうと思っていたが、情報もないまま明日は頂上アタックとなりそうだ。
地図で見る限りでは、それほど困難な行動にはならないように思えたが、ルートの取り方と、天候次第では辛いものになる事は間違いないだろう、ただひたすら祈るばかりだ。


<快晴に恵まれた頂上アタック>
 5月29日、いよいよ頂上へ向かう日の朝が来た。
午前6時に起床、真っ先にテントから頭を出すとまたとない快晴だ。
アメリカ隊は、昨夜遅くに帰ってきたようでスキーの板がテントの外に立て掛けてある。自分たちは、このトレースをたどりながら行動を開始し、未だに確認できない頂上を目指し出発。
しばらくスキーで、アップダウンを繰り返しながら徐々に高度を上げ頂上に延びるらしい尾根の手前で傾斜がきつくなりアイゼンに履き替え登り始める。
トレースは途中で急斜面をトラバースするように着いており、このあたりからいやな予感がしてきた。地図を見てもまだ先の方だとわかるぐらいで現在位置がはっきり確認出来ない。ただこのトレースは頂上まで続いているという事だけは確信が持てた。
 トラバースを終えると右側上部に頂上らしい峰が見えひと安心、直ぐに休憩をとりながらスキーをデポし、意気揚々で上部へ行動するも、途中よりルートがふたつに分かれており再度確認となった。
 その結果、すぐ上部に見えるのは西峰で、本峰はここよりさらに先に見える所だという事がわかった。
 三人とも深い溜息をついた後、気を取り直し西峰より下り本峰へと急ぐ。アメリカ隊もどうやら西峰を本峰と間違えてしまい時間がかかり、昨日はかなり遅くに帰ってきたようである。
 自分たちもこのままでは10時間を超える行動となりそうだが、白夜に近い季節と雲一つない快晴の天気が、味方をしてくれるため確実に登頂できることを確信していた。
 途中でスキーをデポし、アイゼンを着け歩いていたため、先頭を行く自分は、膝ぐらいだが、小さなクレパスに落ち肝を冷やした。本峰への急斜面を登り、コルを右へ進路を取り、さらに登っていくと両サイドが奈落の底へと落ちている様な所をトラバース気味に登る。
 もうここより高い所は360度探しても無い頂上に到着した。休む暇もなく環境調査のサンプリングと記念撮影とビデオ撮影を行う。
 風もほとんどなく、海外登山の経験豊富な篠崎もこんな天気の良いのは初めてだと言っていた。
 自分は、このスケールの大きな山に憧れ、初めての登頂で興奮し、一人はしゃぎ回り、人生の中で大きな1ページを刻んだように思った。
 いつまでもここから周りを眺めていたいような気持ちを抑え、すぐに下山を開始する。
 帰り道にスキーのデポも回収しなければならない。下山の時ほど事故も多いため、3人とも真剣な表情だ。
 途中、ケベック隊とすれ違ったが、みんなさすがに疲れが隠せない様子だった。
 AM9時に出発し、C4にはまだ明るいPM10時に到着し、たっぷりと水分補給と食事をし、倒れ込むように眠りについた。

<重荷に苦しんだ下山>
 30日は、アイナパスまでの登りと、荷物の量を考えC2までの予定だ。
アイナパスまでは、C3入りした時のルートは避け、ソリも引きやすいように大きく迂回するようにルートを取り、難なく到着する事が出来た。
 ここからはもう登りはないなと、お互いに言い合い富士山の強力と同じ様な重量をかつぎ、スキーでゆっくり広大な斜面を下降していった。
 途中の大きなクレパスを、アンザイレンしながら越えた所で、テントが一つあり、今から上部へ行くという二人組に出会った。話を聞くと昨日どうやらクレパスに一人落ちたらしく、怖くなり前進しようか迷っている様子であった。
 確かに誰かが落ちた後があったが、よく怪我もなかったなと思った。
 C2に到着し、明日はランディングポイントの予定なので燃料も贅沢に使い、少し暖かくなったテントの中でデポしてあるビールの事が頭の中をよぎった。
 翌日もC1上部のセラック帯を下るまでは、3人の表情は相変わらず厳しいままだった。特に大きなクレバスにかかった今に崩れそうなスノーブリッジを越えるときには緊張した。
そこからはトレースを忠実にたどれば、各自でスキーの下降が可能と判断し、重い荷物を担ぎながらだが、右にクイーンピ−ク、左にキングピークを眺めながら、1時間程のすばらしい滑降が出来た。
 ランディングポイントに着くと小川が、退屈だったと愚痴をこぼしながら出迎えてくれた。4人で飲んだビールは最高の味がした。

 
<記録概要>
(隊の構成)  小川繁、篠崎純一、高橋徹、竹田伸
(活動期間)1996年5月13日〜6月9日
(行動概要)96年5月13日:アンカレッジ合流
           14日:アンカレッジ発
     16日:シルバーシティー飛行場→ランディングポイント
           17日:C1設営
           18日:C2設営
           26日:C3設営、小川下山
           28日:C4設営
29日:ローガン頂上往復
31日:→ランディングポイント
6月 2日:→シルバーシティー
4日:→アンカレッジ
6日:篠崎帰国
9日:小川、竹田、高橋帰国
 
<現地案内>
(アクセス)バンクーバーもしくはアンカレッジから、陸路で国立公園管理事務所のあるハイネスジャンクションに向かう。両方ともアラスカハイウェー経由である。バスが走っているが、便数は少ない。(週3便ほど)
 バンクーバーからは2日半、アンカレッジからは1日を要する。ハイネスジャンクションには小さなモーテルやスーパーマーケットもあり、肉類も手に入る。
 現地での移動も考えると、レンタカーが便利。しかしその場合、入山している期間は飛行場脇に停めっぱなしになる為、不経済な気もする。それでも多人数ならシェア出来るのでレンタカーを勧める。
氷河までのフライトはクルアニレイク沿いのシルバーシティー飛行場から飛び立つ。ハイネスジャンクションからシルバーシティーまでは車で2時間弱である。
 氷河フライトはアンディ1人で全てを受け持っている状態だ。利用者はたまにしかいないようだ。氷河までの往復のフライト料は2人で1020カナダ$であった。
(ビザ)不要
(言語)英語。
(気候)5月から7月が天候も安定し、氷河の状態も良好となる。ほとんど白夜に近い状態で、日照時間も長い。
(通貨及び物価)カナダ$、現地の物価は日本とほぼ同じか。宿泊費はかなり安価
(現地連絡先)クルアニ国立公園管理事務所 KLUANE NATIONAL PARK RESEARVE
Box 5495 HAINES JUNCTION YUKON Y0B 1L0
TEL:1-403-634-7279 FAX:1-403-634-7277
飛行機会社 ICEFIELD RANGES EXPEDITIONS ANDREW WILLIAMS
59-13 Ave.,WHITEHORSE,YUKON,CANADA Y1A 4K6
FAX/TEL:1-403-633-2018
(登山手続き)入山に当たってはクルアニ国立公園事務所に登山許可申請書と健康診断書を3ヶ月前までに提出する必要有り。現地事務所には入山料と氷河着陸許可料を支払わなければならない。入山料1人5週間まで50カナダ$、氷河着陸許可料30カナダ$。





Nevado IRIMANI(6462m)
ボリビアアンデス イリマニ山
     鈴木 邦則
<ラパスにて>
 20時間を超えるフライトの後、ボリビアの玄関口であるラパス空港に降り立つ。やっと膝を伸ばせるか、と思いきや我々を歓迎してくれたのは富士山頂よりも更に希薄でほこりっぽいアンデスの大気であった。軽い動悸と息苦しさに見舞われ、早くも不安がよぎる。ラパス空港は世界最高所の空港であり、その標高は4100mもある。周囲はアルチプラーノと呼ばれる乾燥した高地平原がコルディエラレアルの山懐まで続いている。ラパスの街はこの荒涼とした台地にぽっかりと空いた月面のクレーターの様な凹地に位置している。
我々を乗せた車はそのへりを大きく弧を描きながら底の方に向かっている。この街から40日に及ぶアンデスの山旅と環境調査が始まるのである。
 イリマニ峰は標高6462m。ラパスの市街地からは直線距離にして約40km程離れているが、市内のどこからでもその堂々とした体躯を眺める事ができる。その姿は綿帽子のようでもあり、チチカカ湖方面からは日本の武者の兜のようにも見える。いずれにしてもラパス市民にとっては守護神のような存在である。
 今回の我々の隊員構成は私を含めて3名である。一人は環太平洋のプロジェクトの立案者であり、全ての山域に参加している医師の篠崎純一、さらに環境調査担当の鈴木美代、彼女は研究所勤務であり、この役割にはうってつけである。さらにパーティーには2名のガイドに同行してもらう事になった。ベルナルド・グアラッチ氏と助手のエドワルド君である。2人とも風貌はいかめしいものの力量は抜群であり、特にグアラッチ氏はエヴェレスト登頂も果たしたボリビア屈指のガイドとの事である。その優れた力量ゆえガイド料も相当なもので、交渉の結果登山日数は最短の4日間となった。
 ラパス入りして5日目の朝、いよいよイリマニに向け出発を迎える。近郊のチャカルタヤスキー場(標高5400m)にて高度順応も行った。パーティーの健康状態も良好である。しかし4日間ではたして山頂往復が可能なのであろうか。不安がつのるものの、ここまで来たら一蓮托生。ままよとばかりに迎えの四輪駆動車に乗り込んだ。


<アプローチ>
 百万都市ラパスの市街地を抜け、アルチプラーノを刻む河谷沿いに車は進む。樹木は谷間の湧水地にごくまばらに見られる程度で、サボテンのような植物が点在する乾燥した台地が延々と続いている。湧水地には小規模な集落が形成されているが、カラフルな民族衣装を身にまとい、髪を三つ編みにしたインディヘナの女性や子供達が物珍しそうに車を見送っている。荒涼とした、くすんだ色の大地と、強い日差しに照らされた彼女たちの鮮やかな衣装の色彩が強烈なコントラストを生み出している。この光景は我々が今、アンデスの山懐にいることを強く印象づけた。
 イリマニ登山の前進基地とでも言うべきウナの村には昼頃の到着する。スペインの統治時代の名残りで、南米の街や村には必ずといっていいいほどアルマス広場と呼ばれる教会を中心とした広場がある。ウナの狭い広場には我々の到着と同時に、瞬く間に人だかりが出来上がった。雇い主を求める馬子とポーター、そして物珍しさに集まって来た村人たちである。ガイドのグアラッチ氏はこの人だかりを見事なまでにさばいている。村人は彼の言葉には実に従順である。スペイン語と土着の言葉が入り交じった彼らの会話はよく理解できないが、注意深く観察していると、どうやらグアラッチ氏は順番に彼らに仕事を与えているようである。「前回はおまえだったから、今回はおまえに与えよう」といった具合である。現金収入を得る機会を村にもたらし、欧米や東洋からの登山者から信頼を得ているグアラッチ氏は彼らインディヘナのヒーローであり、リーダーであるように見えた。この村にて2頭の馬、馬子、数名のポーターを雇い即席のキャラバンが出来上がる。イリマニの氷河から流れ出る河谷に向かって、いよいよ出発である。
 本日の目的地となるB.C.予定地のプエンテ・ロトまではゆっくりと歩いて3時間の行程である。ジープタイプの車なら上がって行けそうな道がしばらく続くが、急峻な河谷の斜面には日本の山村のそれと同様の段々畑が続く。途中、ケチュア族の小さな集落をいくつか見送り、リャマの放牧地帯にさしかかる頃から雲行きが怪しくなってきた。昨日のラパス上空の空模様からは天候の悪化が予想されたが、案の定大粒のあられが降り始め、気温も急激に低下してきた。馬子たちも馬の歩みを速めさせ、我々もそれに従った。
 夕刻、イリマニ北峰から流れ落ちる氷河の末端に広がる草原地帯プエンテ・ロトに着く。ここがB.C.設営地である。周辺は平坦な草原に氷河の雪解け水が流れ込み、さながらヨーロッパのアルプを思わせる地であった。晴れていれば、なかなか居心地は良さそうである。放牧されたリャマの群れが近づいてきて、我々の事を遠巻きに観察している。東洋からの登山者はここでは珍しいのであろうか。
 夜半テントを叩く雪の音が気になったが、翌朝、辺りは10cm程の積雪を見た。C1予定地のニド・デ・コンドル(標高5600m)までのルート状況が気にかかる。
 季節外れの新雪を踏みしめながら、2日目の行動を開始する。こちらの不安を吹き飛ばすかの如く天候は急激に回復してきた。B.C.を出発後北峰からの氷河の末端を横断する頃にはイリマニの主稜線が見え始める。およそ2000mに及ぶ標高差を斜面は一気に駆け上がり、アルペン的なその風貌に圧倒されそうである。この辺りからいつの間にやら我々の隊には見覚えの無い2人の女の子が合流していた。どうやらポーターである父親を追いかけ、家から駆けつけて来たようである。「ブエノスディアス(こんにちは)」と声をかけると、はにかみながらも笑顔で答えてくれる。その漆黒の瞳を見ていると、遠い昔の氷河期にベーリング海峡を渡った彼らの祖先が、我々の先祖と同類であったことが分かるような気がしてくる。彼女たちは素足でゴム草履を履き、衣類は驚くほどの薄着であった。カモシカの如く斜面を駆け上がるその足取りは軽やかで、瞬く間に我々の視界から消え去った。後にはそろそろ5000mに近づいた標高に喘ぐ、牛歩の列が続いた。鉄色で特異な形をした岩屑のザレを過ぎ、岩稜沿いに登ること数時間、午後になってようやくC1となる「ニド・デ・コンドル(コンドルの巣の意)」5600mに辿り着く。ここからはセラック帯の上面にヒマラヤひだの発達した鋭い北峰と、中央峰から南峰に続く稜線を眺める事ができる。明日アタック予定の南峰へは一本の雪稜が延び、ここまでのアプローチよりも更に傾斜は増している。ピークを見上げながら、ああでもない、こうでもないと勝手な登高のシュミレーションを繰り返すうちに夕刻が迫り、急激に気温が下がってきた。
 夜になると心配していた頭痛に見舞われ始める。食欲も一気に落ちた。ついに高度障害が出てきた様である。ガイド料をケチって4日間で6500mを往復しようという登山である。休養日などもとよりあろう筈も無く、体調を崩せば即テントキーパーとならざるを得ない。明日の回復を願いつつ、速めにシュラフにもぐり込む。


<山頂の大気と雪は我が掌中に>
 翌朝、2時起床。幸いにも頭痛は納まっていた。他の2人も調子は良さそうである。意を決し、4時にテントを飛び出す。満点の星空の下、冷気を突いて登高が開始される。主稜線に突き上げる急な雪稜に取付き高度を稼ぐ。2時間ほど登った頃にようやく空が白み始め、周囲の状況がつかみやすくなる。リッジを登り切ると、クレバス帯が現れ、右に左に慎重にルートを探る。ザイルを組む2人のガイドは確実な足取りで我々を導いてくれる。その無駄の無い動作は頼もしい限りである。クレバス帯を通過した後、急斜面の雪壁が現れ、これをスタカットで慎重に乗り越える。バイルを握る手に思わず力が籠もる。滑落したら最後、恐らく2000m下のB.C.近くまで放り出されるか、途中のクレバスの餌食になるに違いない。
 高度6000mを越える。出発してから4時間が経過したが、明け方の軽い足取りはいつしか消え失せていた。呼吸が苦しくて、パートナーとのザイルが突っ張り動作が止まる。大きく肩で息をした後にまたザイルが緩み始める。こんな事を何百回繰り返したであろうか。朦朧とした意識の中、視野から雪面が消え紺碧の空が一面に拡がった。イリマニの頂上に我々5名は立った。
 早速、大気と雪のサンプリングを開始する。このサンプルには登頂に費やした汗ばかりでなく、ここに辿り着くまでの少なからぬ労力と1年半という準備に費やした時間が込められているのである。
 登頂の喜びと同時にもう一つの収穫を得て、我々はイリマニ山頂を後にした。
 登りに使ったルートをそのまま下降し、C1を撤収後一気にBCまで駆け下りる。この日の行動時間は16時間。登下降の高度差は計3000m余り。なかなかハードな一日であった。
 最終日。BCにて気持ちの良い朝を迎える。不思議なもので、登頂の充足感が疲労を吹き飛ばしてしまった様である。ゆっくりと身支度を整え、ウナに向かい歩を進め始める。
 しばらくすると周囲の民家から出てきた子供達が我々を取り囲んだ。さっそく爪切りを取り出し彼らに目的を説明すると、はにかみながらも次々と手を差し伸べてくれた。それは土埃にまみれてはいるものの、温かい手であった。小さなその手に触れていると、日本で待つ2人の我が子が思い出された。
 ウナに向かう足取りはいっそう軽やかなものとなった。こんなにも充足感を味わえたのはいつ以来であろうか。この4日間は単調な日本の暮らしでは味わうことのできない濃密な時間となった。


<記録概要>
(隊の構成)  鈴木邦則、篠崎純一、鈴木美代、Bernardo Guarachi,Edwald
(活動期間)1996年6月20日〜28日
(行動概要)6月 20日:成田→ラパス
         21日〜24日:ラパスにて高所順応
   25日:ラパス→ウナ→B.C.
  26日:→C1
27日:→山頂→C1→B.C.
28日:→ラパス


<現地案内>
(アクセス)日本からの直行便は無い。一般的には日本→ロスアンゼルスもしくはシアトル→マイアミ→ラパスのルートで入国。
(ビザ)入国目的が観光で30日以内ならばビザは不要
(言語)スペイン語、ケチュア語、アイマラ語が公用語。スペイン語が主で英語はほとんど通じない。
(気候)ラパス周辺は、5〜8月が乾期で、登山のベストシーズンは6〜7月。直射日光は強く、紫外線も強い。気温の日較差も大きい。
(通貨及び物価)単位はボリビアーノ。南米特有のインフレは抑えられている。
(現地連絡先)日本大使館 TEL:591ー2ー366589
       島ツアーズ(日系現地旅行会社)TEL:591ー2ー372001
Bernardo Guarachi (Andes Expedition )
Officina Central Av.Camacho 1377 Edif.Saenz Piso 3
TEL:591-2-319655 FAX:591-2-932344
       (チョモランマ経験もあるイリマニ登山ガイド、仕事は確かだが手配料は        高価な気がした。)
(登山手続き)登山許可は不要




 HUASCARAN(6768m)
 ペルーアンデス ワスカラン 
     鈴木 美代
(前置き)
環太平洋一周環境調査登山隊、ペルー・ボリビアアンデスバージョンは、ペルーのワスカラン、ボリビアのイリマニの2山を約1ヶ月半掛けて登る、と言う計画であった。
 隊員は鈴木邦則、篠崎純一、鈴木美代の3名である。篠崎以外のメンバーが高所に不慣れであることを考え、高所順化のためまずボリビアのラパス(3800m)に入ることにした。そのままイリマニ(6462m)を登り、次にペルーに入ってワスカラン(6768m)を登った。
 従って本稿は次のイリマニに続くものとなる訳である。本文はそれぞれ独立しているが、このような訳で時にイリマニを前提とする記述が混じる。ご理解ご了承頂きたい。

(ワラスへ) 
と言ったような訳で我々のペルーアンデス最高峰ワスカランへの第一歩は、ボリビアの首都ラパスから始まった。7月2日早朝、イリマニ下山後4日目のことである。
まずはティティカカ湖畔の街プーノを目指す。そこから列車でクスコに向かい、マチュピチュに立ち寄って麓のアグアスカリエンテスで2000m付近の爪を採取し、クスコからリマまで空路移動、リマでバスを捕まえてワスカランの登山基地であるワラスへ入る、という計画である。
 バスはラパスを出てしばらく荒れた高地を行く。やがて左手にティティカカ湖が見えてくる。緑の茂みの向こうに青い入り江が広がり、その向こうにイリマニが雪を頂いて聳える。このあたりはティティカカ湖の眺めの中でも最も潤いに満ちていて美しい。湖が深くくびれたティキーナ湖峡を、バス、人、それぞれが船で越す。ここから湖は右側になり、コパカバーナを過ぎてペルー国境までさらにティティカカ湖畔をゆくが、先ほどに比べると風景が乾いている。
 3時頃国境に着いた。陸路国境を越えるのは初めての経験なのでちょっと緊張する。国旗がはためき、兵士とおぼしき姿がちらほら見える。やはり県境とは訳が違うのだ。ボリビア側で出国手続き、ペルー側で入国手続きをするため、そのたびにバス一台分の行列ができる。貨幣の両替、それから時計を1時間戻す。線を一本またぐだけなのに…。
 ペルー側に入ると、道路がぐっとよくなった。家々の佇まいも耕作地の様子もはっきりと変わる。線を一本またいだだけなのに…。
 プーノには夕方着き、翌日ウロス島に出かけた。プーノの港から見るティティカカ湖は濁った緑色をしていた。これは湖面をびっしりと苔の如くに覆うアオコのせいである。その上を歩いて行けそうな気さえする。しかし、ウロス島を囲む葦の茂みを抜けると、ティティカカ湖はボリビア側で見たのと同じ青さを取り戻していた。
7月4日、週4便の特急列車でクスコに向かう。乾いたアルティプラーノの眺めが続く。リャマであろうかアルパカであろうか、首の長い家畜が放牧されているが、私には見分けがつかない。彼方に雪を頂く山が見え、その手前に川がゆったり流れている。高度が下がると緑繁る畑地があらわれる。ウルバンバ川が緩くうねっている。
 列車が止まると付近の子供達が群がってきて口々に菓子をねだる。欧米人達は列車の窓から彼らに飴やチョコレートを投げ与えている。私はちょっと複雑な気持ちになってしまった。日本にも最近まで、ギブミーチョコレート、と米兵の後を追いかけた歴史がある。私自身はやってはいないが(そこまで歳ではない)何か過去の自分を見るようで、気軽に菓子をばらまく気にはなれなかった。子供達には何の屈託も感じられないし、廻りの大人にもとがめ立てする雰囲気はない。私一人のこだわりなのだが、こんな時どう行動したら良いのか今もって分からないでいる。
 ところでこの特急列車、ディーゼル機関車らしいのだが、まるで蒸気機関車かと思うほどの煙を吐く。こんなのが日に何便も通うようになったら、と考えてちょっとゾッとした。
クスコには夕方着いた。ご存じインカ帝国の首都である。征服者の作ったスペイン風の街並みのそこここにインカの石積みが残る魅力的な街だ。ちょっと小便臭いが…。
 リマまでの飛行機を手配しておいてマチュピチュ観光に行く。「空中都市」として有名なインカの遺跡である。ここと、その隣のアグアスカリエンテスで2000m付近の爪のサンプルを採取しようという訳である。と言うのも、我々ペルー・ボリビアアンデス隊は0m〜4000m近くまで人の住んでいる地域を移動するので、各高度における爪のサンプルを採取して来るようにと言うのが至上命令だったからだ。
 まず遺跡の背後に聳えるワイナピチュ山の登山道の番人に当たってみた。彼は爪はくれたがよく話を聞くと、クスコの住人で毎日ここまで通って来るのだそうだ。クスコは3000mあるのでちょっとはずれ。マチュピチュの麓のプエンテルイナス駅で土産物を売っている女性達に当たる。彼女たちは土産物のアクセサリー類を加工する為に爪がいるのでやれない、とこれも不発。結局その夜宿泊したアグアスカリエンテスの宿の主人の爪をもらった。この高度では一人分しか取れなかった。概して南米の人々は爪をきれいに切っており、のびている人は、またそれなりの理由があって延ばしているので、たかが爪と言ってもそう簡単にはもらえないのである。
7日、日曜の夜中にクスコに戻り、翌朝の便でリマに飛んだ。リマで一泊した後、7月9日早朝、いよいよワラスへ向かうバスに乗り込んだ。

(ワラスにて〜谷川さんのことなど〜)
我々の乗ったバスはあまり性能がよくなかったらしく、途中次々と各社のバスに追い抜かれ、ワラスに着いたのは夕闇の迫る頃だった。
目当てのホテルに落ち着く。いよいよワスカランへの道が始まるのだ。到着が遅かったのでまだ姿を確認してはいないが、今自分の廻りをペルーでもっとも高い山々が取り囲んでいるのだと思うと胸が高鳴って来る。
 ワラスにはブランカ山群を登る連中が各国から集まってくる。山用品のレンタルショップもあって、パートナー募集の張り紙がしてあったりする。公立のガイドハウス、カサデギアや民間のガイド斡旋業者もあるようだが、我々はこの辺りの情報はほとんど知るに至らなかった。と言うのもワラスに住んでもう30年になるという日本人、谷川さんを通じてすべての手配があっという間に済んでしまったからである。
 ブランカ山群に属する山々を登る日本人が常にお世話になっている谷川老人だが、今回の遠征の前に、健康がすぐれないのでご迷惑を掛けてはいけないと言う噂が流れていた。そこで我々としてはお訪ねしないでおこうと思っていたのだが、我々の泊まったホテルにその晩まで滞在してた日本人青年がいて、彼の情報では、谷川さんは矍鑠たるもので日夜飛び回っているとのこと。翌日ほんのご挨拶のつもりで出向いたのであるが、その場で旅行社に案内して頂き、その日の夕方にはチャーターバスやポーターの手配、さらに翌日の買い出しにポーター1名がつきあってくれることまで決まってしまったのだった。
 それにしても、海抜3000mのワラスの街を息も切らさずに歩くピンと背筋の伸びた姿には感動してしまった。 

(出発 −ガルガンタコルまで−)
7月13日早朝、隊員3名ポーター3名は、ワラスの街を後にワスカランの麓ムーショに向った。天候は思わしくない。空はどんよりと曇って、我々は歓迎されざる客なのかな、と思わせる。しかしムーショに近づくに連れ、上空の天候の回復を知らせるかのように、双耳峰の影が雲に写り始めた。
ムーショは美しい谷合の村である。イリマニの麓のウナに比べると大分開けている。集落の中の家々は土壁が漆喰で塗られ「スペイン風、但し田舎」と言った印象である。
 村のどん詰まりの家の前で車を降りた。ここがアリエロ(馬方)の元締めの家らしい。食堂も兼ねている。ロバの手配を待ちがてら朝食を摂り、さてとばかり外にでると、空はすっかり晴れてワスカランがその真っ白な姿を現していた。
ガルガンタコルを中心に二つの大きな峰が聳える。この形を、コンドルが飛び立とうとする姿だと言う人もいる。確かにそうも見える。でもこれは乳房だ、と私は思った。男性達には分かるまいが、これは湯船にゆったりと身を浸して見下ろす、静かな入り江の姿だ。
 10時前、いよいよワスカランのベースキャンプへ向けて出発。ワラスからやってきた 6名にロバ3頭とアリエロ1名が加わると、なかなか立派なキャラバンになった。ロバ達は己の行くべき所を完全に心得ている顔で、勝手にトコトコ歩いて行く。アリエロは道草を食う奴を時々追い立てるだけで、後はロバ達に任せているようだ。
道は墓地の脇を抜けしばらく畑の間を行く。やがて辺りがエウカリプトの植林帯にかかると傾斜も次第に増してくる。葛折りの道を行くこと2時間ほどで尾根に飛び出し、ここからピークを一つ緩く巻くと程なくベースキャンプに到着した。イリマニのベースとは全く異なり、かなり急な傾斜地である。段々畑式にテントスペースが作ってある。辺りは黄色の茎なしタンポポ(テュプクとか言っていたが良く分からなかった)や、豆科と思われる紫の「タウリッシュ」が一杯だ。
傍らを流れる沢で、水のサンプリングを行った。氷河からの水はいくぶん白濁している。水温は11℃、イリマニに比べずいぶん高い。それだけ赤道に近づいたということであろう。そういえば空気の中にも張りつめた冷たさがない。夕暮れの光は煙るように柔らかく、その中に座っていると山登りなんか忘れてしまいそうだ。
翌日は約5000mのC1まで。昨日ロバ3頭で上げた荷物を人間6人で運ぶ。私などは個装に毛がはえた程度だがそれでも一見それらしい恰好になった。
イリマニでは荷物を持ったらいきなりつぶれたが、高所順化が済んでいるのでそこまで無様なまねはしないで済んだ。
 氷河の末端カンポモレーノに着く。ポーター達はここに泊まると言うので、テント一張りと彼らの荷物と留守番1名を置き、5人で残りの荷物を上げることになった。
 ここから上は雪になる。所々亀裂があったりして気を抜く訳には行かないが、今シーズン何十人もの人々が行き来したルートはまるで一級国道だ。やがて傾斜が緩み、広い雪の台地にでる。核心と言われる雪壁までずっと見渡せる。そのちょっと下にC1があるはずだ。大勢の人がそちらに向かって歩いているのが黒い点になって見える。あんなに大勢ワスカランに行くのだろうか。この光景は驚きと不安とが交錯した感情を私に抱かせた。C1は見えているのに少しも近づかない。C1まで、本当に長く辛く感じた。
2時半、ようやくC1到着、テントを張り、お茶を飲み、明日を約してポーター達は下って行った。
翌7月15日、最終キャンプであるガルガンタコルへ向かう。クレバスに注意しながらポイントの一つである雪壁の下まで行き、ザイルを出す。もっともここも先人達によって階段の如く踏み固められ、なんの心配もないようなものだが、万が一転げ落ちるとそのままクレバスにはまってしまう可能性がある。用心深くこの壁を越える。
そのままアンザイレンして進む。クレバスが所々に口を開けている。難しくはないが気は抜けないルートだ。ちょっと傾斜のある雪面のトラバースの後、ぐいと台地に上がるとそこがテント場だった。大きなセラックの下である。緊張していたのか、高度の割には疲れを感じなかった。
テントを張ってからコルに上がって見た。ガルガンタコルは標高約5900m、ワスカランの北峰と南峰を結ぶ、野球場が作れそうな程広いコルである。テント場からセラック下の雪の細道を少したどり広くなった雪面を緩く登るとそこがコルだ。大きなクレバスが行く手を阻むように真横に走っていた。踏み跡の先に赤旗が立って、ここがルートだったのだろうが、クレバスが開いてしまっており今は飛べない。越えられそうな場所を捜して皆でクレバスの縁をうろうろ歩き、ずっと左に回り込んだ所にしっかりしたスノーブリッジを見つけた。
翌日のルートにひとまずめどが立ったので、後はゆっくり体調を整える。イリマニ突貫作戦は成功と見え、頭痛も食欲不振もない。翌朝4時出発と決め、早めにシュラフに潜った。

(登頂)
7月16日。いよいよ頂上アタックだ。
3時起床。早い出発を心掛けたつもりだが、4時頃我々が出発した時テント場に残っていたのは、隣のテントにいた単独行のドイツ人青年一人だった。
赤道に近いとはいえ夜明け前の寒さは厳しい。
アンザイレンしたまま昨日見ておいたスノーブリッジを渡りワスカラン南峰に向かう。ひとまず真っ平らなコルの上だ。少しじれったいほどゆっくり歩く。高所では急ぐのは禁物だ。
 やがて登りになってきたなと思うと、あっという間に突き上げるような傾斜になった。南峰の裾の急斜面に入ったのだ。この急傾斜帯が一段落する頃、テント場から1時間、ぼちぼち空が白んでくる。しかし、どうも今日は天気が良くない。厚みのある雲がまだらに浮かび、その雲の端が黄金色に輝く。美しくも荒々しい夜明けの景色である。
 一休みして先を急ぐ。先行パーティーが上の方でグズグズしているな、と思ったら、行ってみて分かった。大きなクレバスが開いていたのだ。巾.1.5mくらいか。2mはないと思うが、登り傾斜なので厳しさはそれ以上かもしれない。こわごわ覗いてみるが底は確認できない。奈落としか言いようがない。飛べるか?飛べなければ先はない、しかし飛べるか?
私は飛べない。それははっきりしている。あとの二人、長身の鈴木邦か、身軽な篠崎か。しかし二人とも確信はなさそうだ。そこへ、先程のドイツ人青年がやって来た。長身細身、彼なら飛べるかも知れない。しかし彼は単独行なのでザイルも持っていない、確保者もない。逡巡したあげく一か八か、と言う感じで跳躍体勢に入った。落ちれば確実にあの世行き。そこで我々のザイルで彼を確保するから、飛べたら我々を確保してくれないか、と申し入れた。交渉成立。かくて、現代の平和的日独同盟により我々はめでたくこの難所を突破することができたのだった。
後はひたすら歩く。南峰の斜面を巻くように少し右にトラバースしそれから直上する。目の前には白くて丸い斜面が続いている。巨大な饅頭の上を歩いていったらこんな感じになるだろうか。空はようやく晴れてきて日も差してきた。クレバスには相変わらず注意が必要だが他には特に難しいこともない。ただ単調でやりきれない。
上から人がおりてくる。みんなもう登頂したのだ。さっきのドイツ人もいる。オラと明るく挨拶したつもりだけど実はヘバヘバだ。後どれだけ行けば良いのだろうか。
赤旗が見えた。頂上か?いやクレバスだ。飛び越す、また歩く。どれだけ歩いても斜面の形は変わらない。しかし待てよ、ちょっとつぶれてきていないか?気のせいか、いや、確かにつぶれている。腰高饅頭が大福餅になった案配だ。
と思っているうちに傾斜が消えた。後は平らな雪面があるばかり。とにかくだだっ広いのでどこが本当の頂上やら良く分からないが、もう登るところがないのだから、ここが頂上なのだ。時に正午、我々はついにペルー最高峰の頂に立った。
地理の教師である鈴木邦は頂上から山の向こうの景色を見るのをとても楽しみにしていたのだが、今日は雲が多く残念ながら景色は良く見えない。山頂はとりあえず日が当たっているが、風もあり寒さはなかなかのものだ。言葉が滞る。なるべく雪の踏み荒らされていない所を選んで雪と空気のサンプリングを行い、早々に下山にかかった。
 我々はこの日最後の登頂者である。もう誰にも会わない。下山にかかると間もなくガスが出てきた。山肌を覆う一面の雪と大気を埋め尽くす霧で辺りは真っ白だ。思考が真っ白になる高所で(それほどでもないか…)視界まで真っ白になられるとちょっとコワイ。
 登りに手こずったクレバスは今度は下り傾斜なので難なくこなし、3時過ぎガルガンタコルのテント場に帰り着いた。ここも高度的には6000m近く、可能ならC1まで下りたかったが時間的に無理なのでこの日はガルガンタ泊まりとした。

(下山路は心穏やかに)
翌朝、前日無線で打ち合わせたとおり、ポータ二人、サンティアゴとフェデリコが上がってきた。青空だが風が強い。野球帽しか持っていないサンティアゴはシャツを頭に巻き付けたアラブ人のよな恰好で現れた。精悍な顔つきのサンティアゴはこんな恰好がなかなか様になる。サポートも的確で実に頼りになった。一方のフェデリコは丸顔にいつも人の好さそうな笑みを浮かべていた。
 寒いので休まずに来たと言う二人にとりあえず熱いお茶を振る舞う。テントを撤収し、10時過ぎ、ガルガンタコルを後にした。風も強いのでアンザイレンして下る。C1地点で一休みし、この日はカンポモレーノまで下った。
ポーター達がベースにしていたカンポモレーノは、気持ちの良い岩棚のキャンプ地である。BCとC1の中間に位置する。留守番していた年かさのポーター、マルセリーノが熱いスープで迎えてくれた。やることをやった満足感がジワット体を包んでくる。
 振り返ればワスカランが二つの峰を青空に浮かべていた。麓で見たときよりいっそう柔らかく優しく見える。これは乳房だ、と私はまた思った。
 篠崎は昼寝を始めた。彼にとって「環太」登山計画はまだようやく半ばをすぎたばかりなのだ。鈴木邦はポーター達とスペイン語と日本語の交換教室をやりだした。怠惰で穏やかな午後の時間が過ぎていった。
その夕方、ワスカランは私たちに別れを告げるかのようにバラ色に染まった。

なお後日ワラスに戻ってから聞いた話であるが、例のクレバスはその後ますます開き、あの日以後ワスカラン登頂は不可能となったそうである。際どい登頂であった。

<記録概要>
隊員構成 鈴木邦則,篠崎純一,鈴木美代
行動期間 1966年7月2日〜7月23日
行動概要 2日〜 9日 ラパスよりワラスへ移動
10日〜12日 ワラスにて諸準備
13日 ワラス→ムーショ→BC
14日 BC→C1
15日 C1→C2(ガルガンタ)
16日 ワスカラン登頂→C2
18日 →ワラス
19日〜20日 ワラス→リマ(夜行バス)
21日 リマ発(現地時間)
23日 成田着(日本時間)

<現地案内>
アクセス:日本からの直通便は週1便。一般的にはロサンゼルス乗り換え、また     はマイアミ乗り換え。
ビザ:観光目的で90日以内の滞在ならばビザは不要。
言語 :スペイン語、ケチュア語。 英語はあまり通じない。
気候 :雨期と乾期に分かれ、一般には4〜10月が乾期だが地域による気候の差が   大きい。気温の 日較差もかなりある。
通貨:ソル、為替は概ね安定してきている。
現地連絡先:SEIZO TANIKAWA
      Jr. Juan de la Cruz Romero Tienda 9E del Mercado Central HUARAZ ANCASH PERU
(谷川さんは、あくまでも現地民間日系人であり、好意で日本人の面      倒を見てくれている。その点を配慮し、失礼の無きようにすること。)登山手続き:登山許可は不要。ワスカランのあるブランカ山群の治安は比較的良      い。




アリユーシャン列島
シシャルディン峰(SHISHLDIN2861m)
小川務
<始めに>
目標としたアリユーシャン列島の最高峰シシャルディンは、米ソ冷戦の中で登山が許可されず、やっと1992年になって長野県山岳協会隊が2名の登頂者を出した環太平洋北辺の秘境の山である。この地域は、アジア大陸や日本からの汚染物質の最終到達地域の一つであり、また自然由来の酸性雨の原因となる火山からの亜流酸ガスも同時に調べられる地域である。
 準備の段階で、これまでにない困難が我々を待ち構えている事がわかって来た。
 一つは天候である。アリューシャンは低気圧の墓場と言われ一年中厚い雲が島々にはりつき、強風が吹き荒れる世界最悪の気象地域であるらしい。長野協会隊が遭遇した暴風はエベレストのサウスコルの強風も子守り歌に聞こえるほど、すごかったと言う。
 またウニマク島にはグリズリーと呼ばれる巨大な灰色ひぐまがアラスカ半島から氷結した海峡を越えて移り住み、現在120頭がテリトリーを構えているらしい。その領域を突破しなければ、山に近寄ることはできない。この熊対策は日本では良い考えもなく、現地参加の米国側メンバーに相談して、まさかの時の為にライフル、ショットガン、44口径のマグナムと催涙スプレーガス、さらにベースの食糧保管用のドラムカンを用意した。悪天対策では、濡れに強い衣類や長靴、濃霧や目標物の無い火山台地の行動用に人工衛星を利用した位置測定器GPSを購入した。


<ダッチハーバーに飛ぶ>
 8月6日。アラスカ航空のジェットはアンカレッジから1時間50分の飛行の後、厚い雲を突き破り、海面をこするように飛んで小さなダッチハーバーの飛行場に着陸した。
 飛行場では、隣のウムナック島に住むガイドのスコット・クー(49歳)、アンカレッジの地質調査所の火山学者ジョン・リーダー(46歳)、地元の高校生で荷揚げを手伝うコディ君(16歳)が迎えてくれた。
 ダッチハーバーはアリューシャン列島最大の町であり、南北の岬の山が強風を遮る天然の良港で、かっては世界一の漁獲高をあげたこともある。飛行場の近くと町の中心にスーパーマーケットがあり、ほとんどの生活物資が購入できるが値段は割高だ。
 町の教会はロシア正教のねぎ坊主型の屋根で、かってはアラスカを含めたこの列島がロシアの領土であったことを思いおこさせた。
「あの海岸に並ぶコンクリート製の六角形の物はトーチカで、日本軍の上陸を防ぐために米軍が構築したものだ」とスコットが指差した。
 1942年6月8日に日本軍がアッツ島とキスカ島を占領し、次の目標をダッチハーバーにしたのだと言う。一部屋だけの民間の博物館には、日本軍と米軍の残した兵器や日本の軍旗が展示されていた。


<ウニマク島上陸>
 シシャルディン峰のあるウニマク島へはペンエアー社の8人乗り水上飛行艇をチャーターした。白い機体のスピリット・オブ・アラスカ号と名のついた飛行艇はダッチハーバーから45分後にウニマク島のクリスチャンラグーンという入江に着水した。
 河岸に翼のフロートをつけて飛行艇を固定し、荷を次々に降ろす。飛行艇は天気の悪化をおそれてか、早々にダッチハーバーを目指して帰っていった。
 ついに無人島に上陸してしまった。天気の具合で、迎えが来るのがいつになるか分からないが、それまで食いつながなければならない。そんな決心を初めてした登山の開始であった。
 重荷を背負ってベース予定地の台地を目指す。コディ君はゴムボートにドラムカンを乗せて、河を溯っていく。水音に驚き大きなサーモンが何匹も飛び上がる。岸辺に無数の熊の足跡。グリズリーだ。大きな足跡に混じって小さな足跡もある。「子連れだ、最悪だね」スコットがつぶやいた。
 島に張り付いたような黒雲の間から、一瞬シシャルディン峰がのぞいた。先住民族アリュートが道標の山と名付けた美しい円すい形の山容が高く聳えている。 この山は海抜ゼロメーターから登らなければならない。しごかれる登山になりそうな予感がした。
テントから顔を出すと、今日も相変らずの雨雲だ。時々冷たい小雨が降ってくる。「ファィンデイ、出発だ」スコットが宣言した。そうか、アリューシャンでは強風や大雨で無ければ好天なのである。
 35キロを超える重荷に喘ぎながら、ガンコウラン、ムースベリー、光ゴケなどのふわふわした歩きにくい斜面を、銃を持った3人の米国人の間に我々が入る隊列をつくりながら登る。グリズリーが踏みしめた道が草原を縦横に走る。溶岩台地に入り込む頃から、濃霧で視界が無くなってきた。米国人達は熊避けのホイッスルを吹き、我々はカウベルをガランガランと鳴らして歩く。やがて足下の草原が消えてザクッ、ザクッとした火山灰地になった。標高880メートル、予定よりかなり低いが重荷と濃霧に歩くのがいやになってテントを張る。
 翌日も霧が立ち込めている。風向が北に変わり、湿気も強まつた。悪天の兆しである。2時間ほど登ったところで強風と雨に捕まった。アリューシャン名物の暴風の到来である。
 一瞬の内に視界が全く無くなり、我々は小さな火口の上で方向を見失った。とりあえず、少し後退し、風当たりの弱いモレーンの陰を選んでテントを張り、アンカレッジで購入した25センチもあるペグで止める。
 荷上げを手伝ってくれたスコットとジョンは嵐の中をキャンプ1に下っていった。後日談だが、この時2人は4時間近いリングワンデリングをした後、キャンプにたどり着いている。
 風は最初テントをバタバタと叩き、やがて地鳴りとともにドドーッと吹き飛ばすように吹いてくる。シュラフに入ったままテントの重しとなって2昼夜を過ごした。
 8月11日、風は弱まった。視界はほとんど無いが出発である。この列島では、好天を待っていては登頂できないのだ。
 行く手にクレバスが多くなり、深くなっていく。霧の中、クレバスを避けて右往左往する。先頭が行く方向を後の隊員がコンパスで測り指示しながら登る。
 2200メートル付近で突然雲が切れ、青空の中に飛び出した。純白の頂が目の前に聳え、久々の陽光が顔に張り付いた氷を溶かしてくれる。頂上への斜面は一昨日からの厳寒と烈風が作り上げたエビの尻尾の世界であった。
 サクッ、サクッ、登りながら振り返るとさっきまで雲に隠されていた斜面が足元に切れ落ち、何回もまたいできたクレバスが不気味なひだに見える。三角形の頂上雪壁を登り切ってようやく赤茶けた頂上に達した。北側には亜硫酸ガスの青白い噴煙を盛んにあげる火口が見下ろせた。
 北はベーリング海、南は太平洋、眼下の鉛色の渦巻く雲を見ていると、シシャルディン峰とともに漂流しているような気がしてくる。
 後続の二人を待つ間、空気や雪、そして火山学者ジョンのために溶岩の採取をする。
 時刻は夕方の8時30分、クレバスを避けてルートを真西にとり、日没と競争して高度を下げる。しかしその夜はテントまでたどり着けず、氷河の中のビバーグとなった。硬い氷をけずり、ツエルトをかぶる。ガソリンコンロをつけ、熱いコーヒーをすすりながら寒い夜を過ごした。
 翌日、アタックキャンプに帰り着く頃、また濃霧に捕まった。GPSの指し示す方角に下っていく。やがて、霧の中に黄色のテントが浮かび上がった。衛星を使った位置測定機であるGPSは、まさにピンポイントの精度を持っている。
 ベースへの下山の日、シシャルディン峰はまとわり付く黒雲を取り払い、その秀麗な姿を初めて見せてくれた。我々は、何回も何回も振りかえりながら、また重荷を担ぎ、眼下のクリスチャンラグーンを目指して下っていった。


<グリズリーの王国・ウニマク島>
 川辺のベースキャンプに突然、巨大なグリズリーが現れた。体長4メートルはあろうか、くすんだ茶色の長い毛に覆われている。テントに近づいて来る、その距離20メートルほど。米国人3人は、あわてて銃を構える。横一列の戦闘態勢だ。
「撃つのか」、「アタックしてきたときしか撃てない」「日本人は熊よけのガスを持て」矢次ざまにスコットが指示をする。
 足を止めたグリズリーは、首をゆらし、しきりにこちらの臭いをかいでいる。やがて視線をそらし、テントを巻くように川に下りた。
夕刻の丘の上に別のグリズリーが現れた、小さな茶色の点が、見る見るうちに大きくなる。ガンコウランの草地を滑るように近づいてくる、たまげるような巨大さだ。やがて眼前の河におりたち、ベニザケをあざやかに仕留めると、悠々と丘を登り、こんどは中腹に繁っているブルーベリーをあさっている。時々立ち上がって、我々を窺っているようだ。
 夜を待って、襲ってくるのだろうか。恐ろしい。どうも我々のキャンプ前の河は、ベニザケが産卵に遡上する、グリズリーの猟場のようである。
 長居は無用、我々は上陸地点へと移動した。溶岩台地のテントを訪れ愛きょうを振りまいたホッキョクギツネ、好奇心たっぷりのホッキョクジリス。オオカミのような鳴き声をするルーと呼ぶ水鳥。
 強風のために飛来しない飛行艇を待つ間、ロビンソンクルーソーのように、魚を釣り、対岸で戯れるグリズリー達を眺めながら、北辺の島の夢のような日々を過ごした。


追記:最高峰のシシャルディン峰は北緯54度75分,東経163度97分に位置し、常に蒸気と亜硫酸ガスの噴煙を上げている活火山。我々の登山は、西面からの初めての登頂で、全体では92年の長野隊(北面から登頂)に次いで第2登と思われる。
東隣のイサノトスキー峰(2,465m)はゴッゴッとした岩山の休火山で、92年の長野隊が初登した。島内にあるその他の山は全て未踏と考えられる。

<記録概要>
隊の構成:稲葉省吾,小川 務,石川保典,篠崎純一
     ガイド:Scott Kerr、火山学者:John・W・Reeder
     キャリーマン:Cody
活動期間:1996年8月5日〜8月24日
行動概要 8月6日:アンカレッジからダッチハーバーへ移動
        7日:→ウニマク島クリスチャンラグーン上陸
       8日:島内陸部へ。視界なしGPSとコンパスがたより。
      11日:シシャルディン登頂、氷河の中でビバーク。
      12日:ビバーク地→C2→C1
   13日: C1→クリスチャンソンラグーン、グリズリーに注意しつつ下山。
      14日〜17日:悪天停滞。グリズリー多数現れる。
      18日 上陸地点→ダッチハーバー
20日:→アンカレッジ

<現地案内>
アクセス:日本からソウルかシアトル経由でアンカレッジへ。ウナラスカ島のダ     ッチハーバーには、アンカレッジからアラスカ航空とペンエアー社の     飛行機が各々毎日1便飛んでいる。さらにウニマク島には飛行艇をチ     ャーターする事になるのだが、料金は8人乗りのグース機で往復1回     3,300US$と高額である。また、ウニマク島は「国立野生動物保護区」     に位置し、入域及び飛行艇の着水には「魚類及び野生動物局」の事前     の許可が必要。
ビザ: 観光目的なら90日までビザ不要。
言語: 英語
気候: 6〜8月が登山のシーズンだが、この地域は低気圧の墓場と言われるく らい天気の悪い海域に位置する。1年の3分の2は悪天と考え、予備日 を必ず入れて日程を組むこと。
通貨及び物価:通貨はUS$。登山装備や食料、熊対策のスプレーガスなどは全て良 品がアンカレッジで比較的安く購入できる。さらにダッチハーバ ーでもホワイトガソリン、キャンピングガスなどの燃料や釣り用 具、食料が売られているが、ダッチハーバーの物価は日本並に高       い。
現地連絡先:Aleutian Island Adventures
Box010 Nikolski,AK 99638-9999
Mr.SCOTT KERR Tel & Fax 1-(907)576-2239
登山手続き:飛行艇の手配や、現地許可等の事を考えると、上記スコット氏に連      絡を取るのが最善である。




 Mt.ATHABASCA(3491m) 
カナディアンロッキー2 アサバスカ 
                京極 忠人

<ジャスパーでの再会>
 ロスアンゼルスからグレイハウンドを乗り継ぎ、3日目にようやく目的地のジャスパーに着いた。カナディアンロッキーの最高峰ロブソンとアプローチの良さで人気のあるアサバスカに登ろうという今回の山行は、現地合流の形となり最寄りのジャスパーという町が待ち合わせ場所として選ばれたのである。
 途中のバンクーバーでは、駅で寝ているところを夜中に閉め出され、寒空の戸外のベンチで寝るはめになった。
 しかし、ジャスパーの駅ではそんなこともなく、バスの中で拾ったゼリービーンズを頬張りながら駅のベンチで寝れた。
 翌日、町のビジターセンターで篠崎と合流した。2月にアルゼンチンで会って以来、約半年ぶりの再会である。
 篠崎はアリューシャンの山に登った後、そのまま陸路で南下してきたそうで、数日前にジャスパーに着きレンタカーでドライブしていたらしい。
 早速買い出しに出る。ジャスパーはバンフと共にコロンビアアイスフィールド観光の拠点となっており、各国からの旅行者で賑わっていた。日本からの観光客も多く女子大生風のグループや町内会の団体ツアーは良く見かけた。
 30分で一回りできそうな町には、やはり観光客相手の店が目立つが、カナダらしくアウトドア用品店も多い。
 キャンプ用品や釣り用品に混じって登攀具も少しは置いてあったが、値段は日本と同じくらいである。
 食料を買い込み、町から車で10分ほどのキャンプ場へ向かう。
 キャンプ場はとにかく広く、森の中に点在するテントサイトから自分たちのサイトを見つけだすのにも一苦労である。テント場の近くには野生の鹿が顔を出したり、リスが遊びに来たりしていた。
 9月に入ってもカナダは夏休みなのか、大勢の家族連れがキャンプを楽しんでいたが、その大半がバスほどの大きさもある豪華なモーターホームで来ていたのには驚かされた。
 本場のスケールに圧倒されつつ僕らは粗末な登山用テントに入るのであった。
 

<アサバスカ登頂>
 翌朝5時、はっきりしない天気の中テントを畳んで出発し、アイスフィールドパークウェーを走る。
 アサバスカ登山口まではジャスパーから1時間程で行くことができる。
 アプローチも無くノーマルルートは難易度も低いので、日帰りで十分登れる山である。
 山の北側にある登山口の駐車場に着いてみると、晴れていれば一望できる筈のアサバスカ北面は完全にガスの中であった。駐車場を出てアサバスカ氷河から流れ出る小川の傍のモレーンを登り始める。
 足下の小石は脆くパラパラと崩れてきて登りづらい。ところどころ急な箇所では注意して登らないと落石を起こしそうである。
 2時間ほど登ると表面に薄い氷の張ったガレ状の斜面になり、山の中腹に広がる氷河に出た。
 氷河と言うよりはだだっ広い雪面と言った感じだが、その広い雪面にははっきりとトレースがついており、トレースの遙か先には他のパーティーが登っているのが見えた。
 まっすぐに延びるトレース沿いに、テントのポールで作った急ごしらえの旗竿を刺しながら進むと、少しずつ傾斜がきつくなり息も荒くなってくる。
 トレースは途中で北壁方向とノーマルルートとの分岐になった。他のパーティーは北壁に向かっている。
 ノーマルルートのトレースは山の北面から北西面へとトラバースする様に続いており、北西の斜面も広くなだらかな雪面となっていた。
 斜面の上部は岩と雪のミックス状となり氷が張っている所もある。
 不安定でいやらしい足場を越えると頂上の手前にあるピークに達した。一時晴れていた天候も頂上を目前にして雪になる。
 頂上とのコルに下り、頂上直下の南側が切れ落ちた急斜面を雪尻に気を付けながらトラバースすると、細長い頂上の端に出た。
 時計を見ると1時を回っていた。登り始めて7時間で着いた山頂では、360度のパノラマが広がる筈であったが実際はガスで何も見えなかった。
 篠崎が大気と雪のサンプルを採取した後、素早く下山を開始したが、程なく天候が回復し眼下にコロンビア氷河の雄大な眺めが広がった。
 ここぞとばかりにカメラを出して写真を撮ろうとすると、なんと1枚目でフィルムは終わってしまい、結局自分のフィルムには、髭面によれよれの服で立ちつくす篠崎の姿が写るのみであった。
 少し下りて頂上手前のピークまで来ると、北壁が見えるようになり、何人かのクライマーが日の射さない北壁に取り付き格闘していた。
 その後北壁の基部付近まで降りた所で次のロブソン登山に備えて1時間ほど雪壁登攀の練習をする事にした。
 篠崎に手取り足取り教えてもらい大変勉強になった。
 はたしてこのにわか仕込みの技術で、ロブソンに通用するのだろうかと少々心配であったが、後にそのにわか仕込みの技術を試す事さえできない事態になろうとはこの時は知る由も無かった。
 練習を終え旗竿代わりのテントポールを回収しながら下り、登山口に着いた時には日はすっかり西に傾いていた。
 ブーツを脱ぐと足は一気に軽くなり、その足取りのまま登山口のビジターセンターに入る。中にはありがちな土産物屋と様々なパネルや模型が展示されており、レストランも早々と閉められていた。
 暮れゆくアサバスカの夕焼けを眺めつつコーヒーなぞというわれわれのささやかな希望は、自販機一つ無いその状況にむなしく消え去って行った。
 表に出ると風が強くなってきていた。
 氷河を渡って吹き付ける冷たい風に身を縮めながら車へと急ぎ、夕焼けに染まるアサバスカに別れを告げる。
 車中ロブソンの話題になり、やはり若干の不安を感じたが、今はそのことより町のハンバーガーショップで何を食うかと言う事の方が重要な問題であった。

<記録概要>
(隊の構成)   篠崎純一、京極忠人
(活動期間) 1996年9月1日〜9月2日
(行動概要) 9月1日:ジャスパーにて篠崎、京極合流
         2日:アサバスカ登頂

<現地案内>ロブソンの頁参照。
戻る