環太平洋一周環境調査登山隊95年6月16日〜96年2月15日編
期待と苦渋の半年だった。じっと耐える必要もあった。それでも僕は前に進む。
強い決意で先を見つめた日々です。
カムチャッカ半島
Klyuchevskaya(4831m)
Tolbatik(3682m)
堀内 一秀
<険悪ムードのおで迎え>
ハバロフスクを離陸したイリューシン機が高度を下げはじめた。雲の下に出ると、眼下には雪をいただいた山脈がいくつも連なっている。山好きの者とってはよだれが出そうな光景である。ハバロフスクは夏のように暑かったというのに、北緯50度以上のカムチャツカではまだ雪が多い。
やがて富士山のような山がいくつが見えアバチャ湾が視界に入ってくると、飛行機はペトロパブロフスク・カムチャッキーの空港に着陸した。滑走路には、ミグ戦闘機が10機ほど並んでいる。飛行機が移動する途中でも、軍用機や土を盛った壕が目に入ってきた。ここからアラスカはもう目と鼻の先。改めてここが旧ソビエトの重要な軍事拠点だったことを思い出す。
機体が停止しても、何も起こらない。乗客が降りはじめる気配も、機内アナウンスもない。やがてナチスの将校を思わせる険しい顔をした係員が機内に乗り込んできて、前部座席に詰め込まれた外国人乗客全員のパスポートを集めた。ハバロフスク〜ペトロパブロフスク間は国内線のはずなのにパスポートをまず集めるなんて、どうも嫌な雰囲気である。飛行機に乗る前、機内持ち込み手荷物の重量まで計られ、超過料金を取られたこともあり、どうしても悪い印象が先行してしまう。
飛行機を降りると、外国人旅行者は小さな事務所につれて行かれ、一人ひとり入国の目的、今日の宿泊ホテルなどの質問を受け、やっと解放された。カムチャツカが外国人旅行者に開放されて4年弱になるが、入域者に対するロシア側の対応は、おせじにも友好的なものとはいえないようである。
<そこは火の国カムチャツカ>
さて、カムチャツカといえばロシアである。我々の隊の小瀬村と山本はモスクワ滞在の経験がある。出発前ふたりに「ロシアの印象は?」と聞くと、口をそろえて「暗い」と一言いった。しかししょっぱなの乗り継ぎ地ハバロフスクの印象はまったく違っていた。太陽の光があふれ返り、アムール河沿いでは釣りやジョギング、テニスを楽しむ人たちの姿がある。看板のロシア文字と建物の素気なさを除けば、南欧の明るい街といってもいいくらいである。
そして何より、とびっきりの美人が多い。極東ロシアの女性はすらっと背が高く肌が白い。日照時間が短いせいだろうが、透けるほど白い肌をしている。そして髪はブロンドで目鼻立ちがくっきりしている。
「ナポリを見てから死ね」という言葉があるが、私としては世の独身男性諸君に「ロシアを見てから結婚しろ」と言いたい位である。
それはともかく、カムチャツカ半島は文字どおり火の国であり、手つかずの自然の宝庫である。人工衛星から撮った半島の写真を見ると、まるでニキビのように、あるいは焼きかけのホットケーキのように火山がいくつも口を開けているのが見える。日本の3分の2の広さに活動中の火山が29もあり、トルバチク、クリュチェフスカヤもれっきとした活火山である。この広大な半島に住んでいる人口はわずか47万人(カムチャツカ州全体)、そのうち28万人近くが州都のペトロパブロフスク・カムチャッキー在住だから、それ以外の地域の人口密度がどれほど低いかは容易に想像できる。車で街を少し離れれば周り一体手つかずの自然で、広大な平原、森林が広がり、山が延々と連なっている。釣りにスキーにハンティング、そしてカヌーとアウトドアスポーツなら何でも来い、という環境である。
カムチャツカに着いてまず感じたのは、夜がとても短いこと。緯度が50度以上なので、夏至を挟んだ6月後半の時期は真っ暗になる時間が4時間くらいしかない。
そして名物の蚊の大群。ロシアは人も犬も大きいが、蚊もまた大きく、数が多い。手でつかもうとすると感触がある、腕を刺している蚊をつぶしたら針が抜けずにぶら下がった、といえばその大きさが想像できるだろうか。日本の蚊の2倍くらいはゆうにある。ただし日本の蚊のようにすばしっこくはなく簡単につかまえられるし、かゆさもそれほど続かないのが助けだった。みんながすぐに覚えたロシア語は、「オーチン・ノーゴ・カマロ(蚊がたくさんいます)」であった。今回の登山活動に関しては、行動のすべてを現地のカムチャットインツール社に依頼した。移動手段(車)の手配、ガイド、コック、通訳、ドライバー、食料の準備すべて向こうまかせだったので、こちらは個人装備だけをもってただ山を登ればいいという、一種大名旅行的遠征でもあった。
6月18日、朝起きると外は霧で何も見えない。気温は日本の初冬のように低く寒い。朝食を済ませ荷物をまとめて迎えの車が来るのを待つ。カムチャットインツール社から渡された計画書では、2日間かけてオフロード車でトルバチクのベースキャンプまで移動、ということになっている。しかし迎えに来たのはごついロシア製の軍用トラック2台だった。1台は荷物専用で荷台にぎっしり荷物を積み込む。もう一台は後部が箱形に改良されていて、前方と左右の3面に簡単なベンチ状のイスがしつらえてある。後部に小さなだるまストーブが置いてあるのが、カムチャツカの冬の厳しさを偲ばせる。以前も日本の観光客輸送に使われたのだろう。窓に張ってある「スペシャルツアー」の文字が笑いを誘う。ガス66というこの車は、完全なオフロード仕様で、走りながらタイヤの空気圧を変えることができ、深い水でも進めるように排気口は高い位置に取り付けられている。
こんな大げさな車でよくもまあ、とその時には思ったが、このようにヘビーデューティーな車でなければ、到底カムチャツカには通用しないことを思い知らされるのは数日後のことだった。
日本側6人のために用意されたロシア人は9名。隊長兼ドライバーのアレックをはじめ、ガイド4名、コックの女性2名、通訳、ドライバー各1名と、早くも大名旅行の様相を呈してきた。この中でアレックと通訳のアレクセイは特に印象に残る人物であった。
<トルバチク・ベースキャンプへ>
さて、そんなこんなで我々を乗せた2台のトラックは、一路580キロ北にあるコジュレフスクを目指して走った。街をはずれると霧も晴れ、遠くの景色が見えてくる。道の両側に広がるのは、絵はがきのように美しい光景だった。
左右に広がる平原にはタンポポが咲き乱れ、まるで黄色の絨毯を敷き詰めたように見える。そしてその彼方には、白く輝く峰が続いている。2000〜3000mの雪山が、何百キロと続く光景は圧巻だ。山スキーをしたくなるようななだらかな山、険しい岩峰が立ち並ぶ山などが日本アルプスの何倍もの長さで続くのだから、いくら見ていても飽きることはない。
美しい北の大地を2台の軍用トラックはひた走り、21時コジュレフスクの街外れのキャンプ場に着く。この夜もカムチャッカの蚊の大群から手荒な歓迎を受けた。翌朝、トルバチクのベースに向かう前に、町で食料や酒を大量に買い込むことになった。コジュレフスクは人口3000人ほどの小さな街で、質素な木造の家が並ぶ。大きな街では愛想のないロシアの子供も、ここではみんな人なつっこい。
午後になりトルバチクのベースに向けて出発する。ここから現地の警察官アンドレイがガイドとして加わった。彼は31歳だが、13の時から年に2、3回はトルバチクに登っているという。この山は、いわば自分の庭のようなものだろう。
街を出ると、しばらく森林の中の林道を進むが、道がよくないのでスピードは上がらない。トルバチクは過去に何度も噴火しているので、所々焼け焦げた森の跡が見られる。トルバチクを源流にするステジョンブ河(現地の言葉で寒い河)を渡る手前で、道が小川で切れていた。幅は2、3mで水の深さもふくらはぎくらいだが、道の反対側が大きな段差になっている。川に沿って渡りやすそうなところを探しているようだが、見つからない。まだベースまではかなり距離があるのに大丈夫なのだろうか。思わず不安な気持ちがわき起こってくる。
けれども、問題は何もなかった。タイヤの空気圧を下げてそのまま一気に小川を渡る。段差では大きく車が揺れ、乗っている方は大変だったが、車は何ともなかった。その後100m以上川幅のある本流も、やはり人を乗せたまま何事もなかったように通過した。やがて森林限界を越えた。そして、高度1200mのベースに到着する。そこは一面に火山性の細かい砂利が広がる、まるで月世界のようなところだった。小さな花がポツリポツリと咲いている他は一面黒色で、遠くには噴火の跡らしく鈍い赤銅色の山肌が見えている。私たちはそれを「浮世絵の赤」と呼んだが、まさしく葛飾北斎描くところの『富嶽三六景・山下白雨』の色であった。
しばらくするとガスも晴れ、トルバチクがそのがっしりとした勇姿を現した。ベースキャンプから見るトルバチクは、オーストリー・トルバチク(高い方)の右側にプロスキー・トルバチクの大きな火口を従え、妙に安定感があり美しい。岳人が山を見てすることは日本もロシアも同じで、アレックとガイド達は山を指さしながら「あの稜線を登って上に出て、それから左に曲がって」といった調子でルートの確認に余念がない。
<「飲む・打つ・登る」登山隊>
トルバチク登山の初日、ドライバー以外15人で小雨の降る中ベースを出発した。
天気はずっと小雨が降ったりやんだりだが、ガスが濃い。Tシャツの上にフリースを着ただけでも、歩いていると暑い。雪渓が溶けて水が流れているところもある。
本来なら、オーストリー・トルバチクと、プロスキー・トルバチクとの間のコルまで登り、明日両方のピークへ行って降りることになっていたのだが、天候が悪いせいで予定を変更し、2200m地点でテントを張ることになった。本当なら、今日のうちにプロスキー・トルバチクには登れるのではないかと思っていたのだが、この天気ではどうしようもない。
予定の行動を短縮したため、テント地に着いたのは午後2時で、夕食の8時までは何もすることがない。いつもならすかさず宴会、となるところだが、アレックに注意され酒は持ってきていない。「飲む」がダメなら「打つ」である。手紙魔で絵はがきを書くという金田さんを除いた5人は、さっそくテントの中でトランプを始めた。誰かが、これではまるで「飲む・打つ・登る」登山隊だ、といった。まったく、出発してから移動を除くと、ほとんどこの3つしかしていない。
<オートリー・トルバチク登頂>
翌日も朝から小雪が舞っている。しばらく様子を見たがやみそうにもないのでそのまま出発する。雪は積もっているがそれほど歩きにくくはない。しかし暑い。歩いていると自然に汗が出てくる。
ガスで見通しがきかない上、右に左にと曲がって進むので、そのうち自分がどちらの方向に進んでいるのかわからなくなってきた。ベースからずっと緩い登りだったが、少し急な斜面を登ると緩やかな尾根に出た。そこから左に曲がって尾根に沿って登ったところがプロスキー・トルバチクの大きな火口の縁だった。あいにく天気が悪く、火口全体はぼんやりとしか見えないが、かなりの大きさである。富士山の火口より大きく深いのではないだろうか。
天候が思わしくないため、プロスキー・トルバチクの頂上へ行くこともあきらめる。
そこから火口の縁を回り込んでいくと、急にルートが難しくなった。それまでの広い尾根から一変して狭い岩綾帯になり、登れない岩峰は急な雪面をトラバースして巻かなければならない。トルバチクなんて富士山みたいなもので、ただ歩けば頂上に着くと思っていたのに話が違う。だいたい、今回は登攀要素はほとんどないだろうと踏んで、出発時に登攀具類は新潟に置いてきているのだ。
こうなると遠征ベテランのふたりは強い。さっさと先に行ってしまう後から、4人はおっかなびっくりついていく。急な雪面の下りと氷まじりの岩の登りの2カ所でロープを出し、岩綾帯は何とか通過して小さなコルに出た。この間2時間もかかった割に、高度はほとんど上がっていなかった。
後は広い雪稜をただただ登るだけで、何ということはない。しかし最後の登りは思っていたよりずっと長く、ガスで先が見えないので、もう少し、もう少しと思いながら、いつまでたってもピークに着かず、精神的に疲れた。
やっと頂上に着いたのは17時過ぎ。緩い雪稜が終わり、広い台地状になっているところがピークだった。ここまで上がるとガスが切れ、遠くにカーメンの姿がかすかに見える。クリュチェフスカヤはカーメンの陰に隠れて見えない。ロシア側ガイドに感謝の言葉を述べ、ひと休みする。
記念の写真を撮り、環境調査用に雪を採取してすぐ下り始める。下りでは、登りで通った岩綾を避けるため、その手前から右に折れ、雪の詰まった急な沢を一気に下る。ただし、難所を避けたのはよいが、それから先のルートは現地ガイドアンドレイにもわからないようだ。左側に登りで歩いた踏み跡があるのはわかっているが、どのくらい左に回り込めばよいのかはわからない。
程なく踏み跡にぶつかり、20時過ぎにはキャンプに無事戻ることができた。緯度のおかげで0時までは暗くならないので、もちろん周りはまだ明るい。それをいいことに、少し休んでからキャンプをたたみ、一気にベースまで下った。ベースに着いたのは23時15分。実に14時間以上動いたことになるが、無事に6人とも頂上に立て、小屋でゆっくり過ごすことができるのでそれほど苦にはならなかった。もちろん体は疲れていたが、どちらかといえば心地よい疲れだった。時間は遅かったが、こうなればウォッカで宴会しかない。みんなでウォッカを開け、次々に乾杯をくり返す。アレックの言葉をアレクセイが訳した、
「皆さん、あなた方は登ることがとても上手です」
<カムチャツカ富士>
トルバチクのピークに立った3日後の6月24日、今度は本命のクリュチェフスカヤ目指して、アパホンチッチの火山観測所を後にした。
クリュチェフスカヤは、貴婦人のようなその名前の響き通りの美しい山である。独立峰の火山なので、その姿は富士山によく似ている。富士山の上の欠けた部分を補って、もう少し大きく高くした、といえばその姿が想像できるだろう。
標高800mのアパホンチッチから1600m地点までは、車が入ることができる。「車で入れる」とはいっても、ガラガラの河原や雪渓の上を走らなくてはならないので、ガス66なら入れる、といった方が正確かもしれない。宴会用のウォッカ20本は小屋の近くに埋め、車について空身で歩き出す。1600m地点から先は、荷物を担いでの歩きになる。
天気は小雨気味で、周りの景色はほとんど見えない。本当はここから、クリュチェフスカヤとカーメンの姿が見えるはずなのだが、雪解けのこの時期は天気が悪い。裾野が広いので、ただただ広い斜面を歩いているといった感じで、先が長いことを思い知らされる。
高度が2000mを過ぎたあたりで急にガスが晴れ、前方にクリュチェフスカヤが姿を現した。初対面のその姿は、思っていたよりもずっと大きく、遠くにあった。まるで御殿場から富士山を眺めているような気がしたが、まだ標高差にして3000m近くあるのだから無理もない。クリュチェフスカヤの左には、雲のかかったカーメンが見える。白い雲から、角のように尖ったピークが突き出して見え、異様な姿がさらに際だって見える。
斜面の傾斜がきつくなって登りにくくなった頃、2900mのC1に着いた。この高さなら周りは雪がふんだんにあってしかるべきなのだが、雪渓が溶けて水が流れているところもある。そう、クリュチェフスカヤは活火山なので、地熱で雪が溶けているのである。夜には雪ではなく雨まで降った。トルバチクでは2200mで雪が降っていたというのに。この高さで雨が降るのも、地熱のせいなのだろうか?
<暖かかったC2>
翌日の予定は4200mのC2まで。
C1を出ると、ルートは大きく右に回り込み、4200mの小火口に直接突き上げる岩尾根まで移動する。途中の雪渓は落石がひどく、とてもルートには使えない。かといって岩尾根が登りやすいかといえばそうでもない。崩壊の激しい火山は、落石すれすれのところで岩が安定しその形を保っている。ということは逆にいえば、ちょっと力を加えれば落ちていく岩だらけ、ということになる。気温が高くて雪も締まっていないので、浮き石だらけの急斜面を登らなくてはならない。足元が崩れないように、一歩一歩慎重に体重をかける。右足が滑り出したらその前に左足を上げる、という、まるで水の上を歩くような調子で歩くため、思ったように高度は上がらない。休憩をするときは、落石を避けるため必ず岩陰に身を隠せる場所で休む。尾根の脇では、頻繁に落石があり緊張感が抜けない。篠崎が落石を避けるためのコツをみんなに伝授した。
「落石っていうのは、最後の最後までどっちに来るかわからないから、初めっからよけても何にもならないんだ。自分のところを通過する直前のバウンドでどっちに行くか判断してよけるのが一番賢いんだよ」
なるほど、確かに理屈はそうかもしれない。しかし、誰かが「落石」という度に緊張感が体を走ることはどうしようもない。
高度が4000m近くなってくるとさすがに気温も下がり、岩に着いたエビのしっぽが見られるようになってきた。体感温度も確実に下がってくる。しかし、4200m地点が近づいてくると様子は変わってきた。小火口の周りは雪が極端に少ないし、心なしか暖かく感じる。小火口直下で休んだとき下の岩を触ると、明らかに熱を発していた。この小火口も確実に活動を続けているのである。
C2を張った小火口は、そこだけ平らになっていて落石の心配もない。おまけに暖かいときているのだからテントを張るには打ってつけの場所だ。もしかしたら眠るときに暑すぎるのでは? と余計な心配もしたくなる。金田は、
「そんなことだろうと思って防寒具を減らしてよかったわ」と上機嫌だ。
高度が高いので多少の息苦しさは感じるものの全員元気で、この分なら明日は行けそうだ、という気がしてくる。
相変わらずのガスであいにく頂上は見えなかったが、夕方になるとガスも晴れ、クリュチェフスカヤのピークが姿を現した。その姿は8合目あたりから見る富士山によく似ている。こうしてみると頂上はもうすぐのところに見えるがまだ600mの高度差がある。テントの外は風が冷たいが、中は地面からの熱のおかげでホカホカしていた。私はシュラフから上半身を出して眠った。
<噴煙たなびく頂上へ>
翌朝、3000mから下はガスがかかっているが、その上は快晴の天気。クリュチェフスカヤのピークが朝日を受けて輝いている。そしてピークの上にはわずかながら黒い噴煙が上がっているのが見える。クリュチェフスカヤは小規模ながら活動を続けているということだ。
ここから上は、アイゼン、ピッケルの世界である。富士山同様、高度が上がるにつれて傾斜も急になり、一歩一歩進める足が重たい。それでも、ゆっくりながら高度は確実に上がっていく。後ろを振り返ると、眼下にクリュチェフスカヤの広大は斜面が広がっていて、雲はすべて自分より下に見える。その景色を見ていて、私はえもいわれない幸福な気持ちに包まれた。この辺り一帯で自分が一番高いところにいるからではないし、もうすぐピークに立てるからでもない。こんなすばらしい景色を見られるところにいることがうれしくてたまらなかったのだと思う。
結局600m登るのに4時間かかり、正午ちょうどに6人全員クリュチェフスカヤのピークに立つことができた。
頂上(正確には火口の縁)には雪はなく、近くの岩の割れ目から噴煙がもうもうと立ち登っている。噴煙が暖かいので眼鏡が曇る。当然ながら遠くの景色は何も見えない。頂上には7分間いただけで、すぐに下降を開始した。下りは岩の出ている斜面ではなく雪渓にルートをとったため、C2までは1時間で下ることができた。
C2で食事をして今度はC1へ下る。実は、このC1への下りが今回の登山では一番大変だった。登りでも岩が崩れるくらいの斜面だから、下りとなれば当然落石を引き起こす。スリップしたところで滑落するわけではないが、体力をそれだけロスする。先頭のユーラは、落石の激しいところではなるべく上下一列にならないようにうまくルートを取っている。そして落石の多い雪渓を横断するときには、なるべく全員固まって短時間で通過した。神経を常に足元に集中して歩いても、高度は思ったほど下がっていかず精神的にかなり参った。そのうちガスの中に入り、視界がきかなくなると間もなく大きく右にトラバースし、あっけないほど簡単にC1に着いた。アレックやアレクセイが迎えてくれ、みんなで握手をした。
時間は17時。今日はここまでの予定だったが、一気にアパホンチッチまで下ってしまいたい、というのが日本側の正直な気持ちだった。ロシア側のメンバーも二つ返事で同意してくれた。
それからみんな、ロボットにでもなったかのようにひたすら歩いた。体力的には疲れているのだが、ランナーズハイと同じで脳内麻薬が出まくりの状態になっているのでまったく苦にならない。頭はぼーっとしていても、足がおもしろいように動いてくれる。ピークから合計4000mを一気に下り、22時にはアパホンチッチに到着した。
今回の登山はこれですべて終わった。
0時に食事をして後はウォッカを掘り返しての大宴会に突入する。翌日は朝からウォッカを飲み、飲んでは眠り、飯を食っては眠り、それでも夜には宴会になったのだった。
<「今度はいつ来る?」>
カムチャツカを去る日の朝、朝食前にアレクセイがホテルにやってきて、全員に古いロシアのコインをプレゼントしてくれた。
さらに夕方、飛行場にはアレックも見送りに来てくれた。
自由な旅行が制限されている関係からロシアとの合同登山のような形になったが、それはそれで楽しい体験だった。登山を通して交流ができたなどというカッコイイことはいわないが、日本人だけで登るよりは、「おもしろおかしい」登山ができたように思う。
みんな口々に、「今度はいつ来る?」と聞いてくる。「6月は天気が悪いけど、8月になれば毎日天気がいい」、「10月になれば川で鮭がいくらでも釣れる」。そんなことをいわれると、来年にも戻って来たい気になるけれど、実際にはまたここに来れるかどうかさえわからない。いよいよお別れの時になってアレクセイがいった。
「皆さん。今度はカーメンに登りましょう」
来たときと同じイリューシン機は離陸するとすぐに高度を上げ、カムチャツカの山々は間もなく雲の下に消えていった。
海外旅行にカルチャーショックはつきものだが、私の場合、それはしばしば日本に帰ったときにやってくる。新潟で今回の登山隊は解散し、私は小椋の運転する車で横浜に向かった。関越自動車道、外環自動車道を抜けて首都高に入って池袋を過ぎると、そこには目のつぶれそうな景色が広がっていた。
狭い首都高にはろくに車間距離も開けずに車が走り、まるでレーシングゲームのように車線を変えていく。その両側にはまぶしいほどのネオンサインが輝き、立ち並ぶビルには明かりがこうこうとついて中でたくさんの人たちが働いている。数日前までろくにすれ違う車もなく、平原の一直線の道を走っていた身からすれば、これはまさに未来都市である。僕と小椋は、一気に何十年もの時間をタイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。
以前、『惑星ソラリス』というロシアのSF映画を見たとき、未来都市という想定で日本の首都高が映し出されたときには笑ったものだが、今は到底笑えない。東京はカムチャツカから見れば未来都市そのものに見えることだろう。首都圏に住んでいたはずの私たちでさえ、まるで『ブレードランナー』の世界に紛れ込んでしまったような居心地の悪さを感じるのだから。
首都高から横羽線に入っても、ネオンの森は終わらない。カムチャツカの夜は明るかったが、東京の夜はもっと明るくまぶしい。羽田空港が左に見える頃、私は何だかとても悲しい気持ちになってきた。そして「私たちは一体、何が欲しくてこんなものをつくったのか?」という疑問だけが頭に浮かんだ。コジュレフスクの子供達をここに連れてきたら何ていうだろう? とも考えたが、それはどうでもいいことのような気がした。それよりも、日本の子供達をカムチャツカの蚊だらけの森に連れていった方がどれだけ楽しいかわからない。今度カムチャツカに行くときは、カーメンに登るのもいいけれど、自分の息子も含めて日本の子供達を連れていきたい。そんなことを考えながら、段々近づいてくるランドマークタワーを見ていた。
<記録概要>
(隊の構成) 篠崎純一、金田博秋、堀内一秀、小椋譲、山本武、小瀬村知也
(活動期間)1995年6月16日〜7月3日
(行動概要)6月16日:新潟空港→ハバロフスク
17日:→ペトロバブロフスク・カムチャッキー
18日:→コジュレフスク
21日:オーストリートルバチク登頂
23日:→アバホンチッチ
26日:クリュチェフスカヤ登頂
7月 1日:→ペトロバブロフスク・カムチャッキー
3日:→新潟空港
<現地案内>
(アクセス)カムチャッカ半島のペトロパブロフスクまでは、函館もしくは新潟空港からハバロフスク経由でアエロフロートが飛んでいる。時々不定期直行便も飛ぶようだ。ペトロパブロフスクから山麓まではトラックかヘリコプター利用になるだろう。
(ビザ)ロシアのビザを取得するには、あらかじめ交通機関やホテルの手配をしてから大使館に申請しなければならない。今回我々は下記カムチャトインツール社からのインビテーションを貰ってビザを取得した。
(言語)ロシア語。英語を話せる通訳も手配できる。
(気候)登山適期は6月から9月。山スキーをするならば5月以前が良いだろう。
(通貨及び物価)ルーブル、為替レートは不安定
(現地連絡先) George Shkhiyan KAMCHATINTOUR
Ul.Leningradskaya,124/B,Petropavlovsk Kamchatsky,683003,RUSSIA
TEL:7-41522-71034,34208 FAX:7-50901-94086,94002
TELEX:244124 INTUR RU
(登山手続き)今回我々は、現地エージェントのカムチャトインツール社と直接交渉した。 彼らは現地で数名の登山ガイド、通訳、現地へのアクセス等を手配してくれる。
ロシアの国情を考えると、現地エージェントを通さない登山は難しいだろう。
ロシア側との交渉、ビザ取得、飛行機の手配など考えると、多少高くなっても一括してアトラストレックなどの日本の登山旅行代理店に頼んだ方が、手間もかからず賢いと思う。
Mt.ROBSON(3954m)
カナディアンロッキー1 ロブソン
<1回目登山> 篠崎 純一
<ロブソンまでの道>
7月27日成田空港発。父が胃ガンの手術を受けてから1週間しか経っていなかった。
成田空港で乗り継ぎ便を待つ短い時間を使い、茨城の病院に入院している父親を見舞う。 父親はすっかり弱気になっていた。
私もつい1年前には精巣悪性腫瘍で同じ境遇にいたので、父の気持ちは痛いほどよく分かった。
「死ぬなよ」という父親の言葉を背にバンクーバー行きのJALに乗り込む。
まだ幾つもの巨大な登山を控えている自分にとって、この言葉はずっしりと重く心に染み込んだ。
飛行機は2時間遅れでバンクーバーに着いた。飛び込むように国内線に乗り変える。
1時間もしない内に加藤幸彦が待つケローナの町に着いた。今回現地参加の加藤はカナダ在住の62歳。日本国内の数多くの冬季初登攀を始めビックホワイトピーク、ギッチェンカンの初登頂で知られた現役?のスーパーアルピニストである。
彼の豪邸に泊めて貰う。自分のマンションの敷地面積など彼の家の地下室にも満たないだろう。加藤のよもやま話を聞きながら、庭のジャグジーに浸かって夜空を見上げるていると、自分もいつの日かカナダに移住したい気持ちになってくる。
入念な打ち合わせと買い出しをすませ、加藤のRV車でいよいよ目指すロブソンに向かう。
途中油断してガス欠のため車がえんこ。民家からガソリンを分けて貰うといういかにもカナダらしいハプニングを経て、ロブソンパークの事務所に着いた。ここのレンジャーは加藤と既に顔見知りである。
簡単な手続きを済ませ、小雨の中ケニーレイクのキャンプ場まで移動する。
翌日は、ずっしりと肩に食い込む重荷にあえぎつつ、ベルグレイクまで良く整備された道を進んだ。ここはロブソンパークを代表するトレッキングトレイルになっていて、いかにも夏休みをエンジョイしているという感じのハイカーが多数来ている。
その中に混ざって時々巨大なザックを持った登山者の集団が登り降りしていた。
山から降りてくる登山者が来たら、すかさず上部の情報を聞き集めた。どうやら上部のコンディションはかなり悪いらしい。我々が予定しているケーンフェイスルートから登頂した者はいないと言う。
「これは思ったより手強そうだ」バーグレイクのキャンプ場で今後の作戦を再検討する。 そこで当初の短期決戦の作戦を変更。長期戦に備える為、私が一旦食料荷上げのために国立公園事務所まで降りる事になった。
翌日、車の置いてあるトレイルヘッドまで下山。車を転がして近くの食料品店で買い出しを済ませる。下山が遅れる事をパークレンジャーに届け出てその日は車の中で寝た。その間徳島と加藤はロブソン氷河を溯りエクスティングィッシャータワー下部まで荷上げをすませていた。
<スノードームへ>
8月1日昼過ぎ、3人は再びバーグレイクの湖畔に合流。夜間には晴れだして、初めて我々の眼前にロブソン頂上が顔を出した。
巨大な満月がロブソン頂上に登っている。ロブソン北壁が圧倒的な迫力で、氷河の舌端を湖面に延ばしていた。夢の中にいるような美しいカナディアンロッキーの姿に、我々はしばし時間の経つのも忘れて見とれた。
2日から本格的に登山が始まった。ロブソン氷河をクレバスを避けつつ溯って行く。 初めての快晴下の行動で順調に距離を稼ぎ、昼過ぎにはアイスフォール帯下にキャンプを設けた。更に徳島と私はアイスフォール帯のルート工作に出た。
微妙なクレバスをいくつも慎重に通過するが、標高2900m地点で巨大なクレバスにぶつかった。本日はここまでとし、キャンプ地に戻る。
翌日も徳島と私はアイスフォール帯のルート工作である。昨日引き返した地点から急な雪壁を登り最大の技術的難所を突破。更に上部には数多くのクレバスが迷路の様に錯綜していたが、慎重に一つ一つさばいていく事ができた。
クラウンや雪蓮峰の初登頂で鳴らした徳島の氷雪技術及びルートファインディングは的確で寸分の狂いも無く高度を稼いでいく。
最後のスノーブリッジを越え、ルンゼ状になった雪面を登るとスノードームの台地に出た。先の見通しは立ったが、全くのホワイトアウトになった為、これ以上の上部への行動は避けて引き返す事にする。
<1回目の撤退>
8月4日は3人でスノードーム上部まで移動する。重い荷物を背負ってのアイスフォール帯通過は心臓に良くない。
それでも昨日作って置いたトレースに助けられて午後の早い時間にドーム上部に着いた。 昨日の最高到達点から更に上部に向かう。今日もホワイトアウトになってしまった。それでも何とか良い場所を見つけてテントを張る。
正面には登高ルートとなるケーンフェイスが聳えているはずだが、厚いガスに遮られて何も見えない。
とにかく本日頂上アタックの拠点が出来た。明日よりの好天を祈って寝袋に入る。
しかし祈りむなしく翌日は雪だった。ケーンフェイスを落ちる雪崩の音が次々と聞こえる。頂上アタックなどとんでも無かった。このまま降り積もるとこのホワイトアウトの中でルートを見失い退路を断たれる可能性もある。
夕方ガスが少し薄らいだ隙をみて、すかさず徳島と私はケーンフェイスの偵察に出た。
テントから30分程歩くとフェースルートの取り付きに着く。大きなシュルンドが斜面に顔を出していて容易に渡れそうもない。
少し右往左往して何とか突破できそうな所を見つけた。
徳島がトップで慎重に傾斜70度を越える不安定な斜面に挑む。足の下は底が見えない程深い割れ目になっていた。
ケーンフェイスは予想を超えて危険な壁だった。我々が登っている間も左右からチリ雪崩が頻繁に落ちてくる。
シュルンドを越えた所で引き返す事を決め、逃げる様にテントに戻った。
夜の間も雪は降り続いた。雪崩の事を考えると無理は出来ない。翌日も降り続く雪を見て我々は登頂を断念、一旦下山する事に決めた。
トレースが降雪によりかき消されてしまっていたため。帰りのアイスフォール帯通過も
決して楽な物ではなかった。
所々で空身になりルートを作りながら、尺取り虫の様に下っていく。懸垂下降の支点の為に、もったいないなと思いながらも、何本かのアイスハーケンとデッドマンを残置した。
<つかの間の休養>
氷雨のふるバーグレイクを離れ、ぬかるみの登山道を重たい高所靴でとぼとぼと降りる。 ベルモントのモーテルへ四駆で直行する。
久しぶりのシャワーを浴び、分厚いニューヨークステーキを食べると、チベットやパキスタンの山麓では味わえない文明社会の有り難さを実感する。
翌日、加藤は仕事のためケローナへ戻って行った。
残った徳島と篠崎はコインランドリーで洗濯したり、スーパーで買い出ししたりしてつかの間の休養を楽しむ。
8月10日、モーテルの主人の車に便乗させてもらい再度ロブソンパークに向かう。
皮肉な事に我々が休養している間、山は晴れ上がったらしい。9日には地元ガイドが北壁を登攣した事を聞く。
我々もぐずぐずしてはいられない。その日の内に一気にバーグレイクまで上がり11日の昼過ぎにはアイスフォール下のテントサイトに至った。
<頂上を目前にして>
残念ながら数日前に我々が作ったアイスフォール帯突破ルートは雪の下になってしまっていた。
先行パーティーのトレースも期待していたがどうやら甘かった様だ。
一方別のガイドパーティーが大きくアイスフォールを高巻くリッジルートに新しいラインを引いていた。
我々も後を追う事にする。しかしそのルートは上部で鋭い岩稜に変わり、トレースもそこで途絶えていた。稜線を離れると今度は雪崩にやられそうだ。
仕方なく一旦アイスフォール下の平地に戻りテントを張る。
翌日は前回と同様アイスフォール帯の中央部から上部に向かう事にした。
視界不良の中アイスフォール帯を突破、夕方近くになりスノードーム上部の3220m地点にアタックキャンプを設営した。
どうやらここまで登って来れたパーティーは我々以外に今季まだ誰もいないようだ。
明日のアタックに備え、睡眠剤を飲み早く寝る。
8月13日は午前3時起床。おぼろ月が見える。今日一日の晴天を期待してテントを飛び出た。
ケーンフェイス取り付きのシュルンドは徳島がトップで抜けた。一部垂直に近い難所を過ぎるとフェースの傾斜は45度程に落ち着く。
ここまでは8日前に2人で達していたが、これから先は未知の世界だ。
ガスに包まれてなかなか視界が効かない。スタカットで少しづつケーンフェイスをよじ登っていった。
9時45分、ケーンフェイスを抜け上部の稜線に出た。高度計は3530mを指している。風が強く視界が悪い。
稜線には巨大な雪尻が出来ていた。所々ナイフリッジになっていて雪崩の危険もある。
慎重にコンテニュアスで進むがラッセルが深くなかなかペースが上がらない。
そのうち私が雪尻を踏み外し腰上まで雪に埋まった。続いて徳島も雪尻を踏み外す。
こいつは危険すぎる。仕方なくスタカットで先に進むがますますペースは落ちてしまった。
11時45分完全なホワイトアウトになった。「どこまで行く?」と徳島が聞く。目前に頂上ピラミッドが控えているのは感じたが、これ以上の深入りは危険だ。「ここまでにしましょうか。」と私は答えた。最高到達点は富士山よりも低い3600m地点だった。
早速ビデオ撮影に雪と空気のサンプリングをすませて下山に取りかかる。
13時よりケーンフェイスを下り出した。確実な支点が取れないため25m以上ザイルを延ばさない事にする。下が見えないため、なかなか正しいルートが分からない。ちり雪崩が頻繁に落ちてきた。
フェース最下部のシュルンドは不安定な支点での懸垂下降になってしまった。ロブソン登山で一番辛い時間であった。
延々4時間半の緊張した下降の末、17時半スノードームの平らな台地に着いた。
ドームではホワイトアウトの為テントが見つからない。すぐそばにあるはずのテントが全く見えないのだ。何とテント発見に3時間が費やされ、日没寸前の午後9時半テントに潜り込んだ。
熱いココアをたっぷりと飲み、やっと人心地がした。
山を知らず、己を知らず、自分の非力さを思い知らされた一日だった。
<無念の下山>
13日夜は吹雪となった。ビバークにならないで本当に良かったと思う。14日は地吹雪で停滞。それでも我々は15日のアタックラストチャンスに賭けていた。
しかしロブソンが我々に微笑んでくれる事は無かった。
15日は2時起床。しかし空一面に黒い雲が垂れ込めている。我々は撤退を決意した。
冷たい南西の風に追われて一気にバーグレイクまで降りる。
翌日トレイルヘッドまで降りて、モーテルから迎えに来てくれた軽トラックでベルモントに戻った。何でも今年はこの40年間で最も雨が多い夏だと言う。
環太平洋の主な山を全て登るつもりで意気込んでいた私だが、いきなりカナダでその計画はとん挫してしまった。
ロブソンは自分が思っていたより遥かに手強い山だった。
美しいカナディアンロッキーの山々に私はまだ何かを忘れてきてしまった様な気がしてならない。
<2回目登山> 京極 忠人
<再度ロブソンへ>
ジャスパーからレンタカーのシボレーに乗り、イエローヘッドハイウェーを走ること2時間、カナディアンロッキー最高峰ロブソンの入口、ロブソン州立公園ビジターセンターに着いた。
いきなりロブソンの南壁が見える。いびつなピラミッドの様な山で、手前から延びている山稜はどれもものすごい角度で頂上に向かっている。頂上部だけはいつも雲の中だ。
レンジャーオフィスで山の状況を聞くと南壁ルートは上部のセラックの状態が悪くまた途中ボルトが抜けておりジャンピング等の道具が必要という事で、我々は南壁から昨年と同じケーンフェイスにルートを変えることにした。
センターの奥にある駐車場に車を停める。駐車は無料だが、車は1週間約500$で借りているので、乗車しない期間は何だか損をした気がする。
登攀具や10日分の食料で40kg近くなったザックを背負い、少々よろめきつつ歩き出す。
前進基地となるバーグレイクのキャンプ場まではトレッキングコースでもあり、ロブソンリバー沿いの道を歩くことになる。
汗と雨でジトジトになって歩く内、バーグレイクのキャンプ場に着いた。立派な山小屋があり、中はストーブの火で暖かく、ハイカー達が夕食の支度をしていた。テントを張り小屋で濡れた装備を乾かしていると、外の霧も流れてロブソンの北壁とエンペラーフェースが現れた。上部は相変わらず雲の中だが、雪で全面真っ白になったエンペラーフェースの姿は圧倒的な迫力だ。湖の対岸には北壁からの氷河がアイスフォールになってダイレクトに湖に落ち込んでいた。
<悪天のロブソン氷河>
3日目も前日と同様の曇り空で、程なくみぞれが降ってきたので小屋でしばらく様子見となった。昼頃になってようやく雨も上がり出発となる。湖岸沿いに歩き2時間弱でロブソン氷河の末端まで来た。
ロブソン氷河は北面のケーンフェースから始まり長さ10数キロで、途中2カ所アイスフォールになっている。互いにロープをつなぎ氷河上にルートを取る。小石や塵で薄汚れた氷河上を暫く進む内にガスが出てきた。視界10mの中、クレバスだらけの氷河をルートを探して右に左にうろつき回り、下部アイスフォールの基部まで来た所で氷河の左岸に降りる。 アイスフォール傍のガレ場を登り切ると、その日の目的地である巨大な岩峰エクスティンギッシャータワーに到着。雨の中テントを張り前日同様天候の回復を願って寝る。
次の日は完全に雪になり、目の前に聳える岩峰すら見えない。停滞か前進か相談し、結局行ける所まで行ってみる事にした。小降りになるのを待って出発。とたんに本降りになり、氷河にできた空洞に逃げ込みまたも様子見。暫くして止んだので氷河に上がる。
足下は10cm程の積雪だ。篠崎が先に立ち、ヒドンクレバスを探りながら進む。1時間ほど歩くとまた雪になりあっと言う間に吹雪になった。視界もなく目標物も見えないので勘で進んでいる様なものだ。積雪も多くなり膝くらいになった。おぼつかない足取りに閉口しつつ歩いていると、いきなり右足がクレバス上の雪を踏み抜いてしまった。幸いにもクレバスの幅が狭かったらしく背中のザックがひっかかり転落は免れた。
正確な位置は判らなかったがアイスフォールに近づいたらしく、傾斜が増してきた。積雪も増えて股下位まで潜る。
まれに先頭を交代するが、私が先になるとペースが極端に遅くなり時間的に厳しくなってしまうので、申し訳なかったが結局ほとんど篠崎がラッセルする事になった。
そうやって登っていくと上部アイスフォール基部の平らな場所に出た。
目的地まではあと一登りで、30分ほどで着きそうである。
<アイスフォールの雪崩>
一休みした後、篠崎が先頭で出発。アイスフォール下部を横切る様に15m程ロープが出て、私も歩きだそうとしたら突然「雪崩だ、うわあ」と言う声がして篠崎が倒されるのが見えた。私は咄嗟に後ろへ逃げようとしたが、深い雪に足を取られてその場に転んでしまった。立ち上がろうにもザックの重さで身動きが取れずサーッという音を立てて雪崩が迫っているのが見えて訳が分からなくなってしまった。上半身は雪を被らないですんだ。 暫く動けずそのままの体勢でじっとしていたが、どうやら納まった様なので、ザックを外して上体を起こす。辺り一面デブリになっていた。
篠崎の姿は無く2,3度大声で叫んでも返事は無い。立ち上がりロープを辿ると5m程の所で雪に埋まっていた。急いでその周辺を掘りまくるが新雪は掘っている傍から崩れてきて思うようにはかどらない。
おそらく30分位か、時間的にもかなりやばいと思いつつ2mほど掘り進んだ時、ようやくザックが出てきた。そして幸運にもヘルメットも見え、次いで篠崎の横顔が現れた。が、既に紫色になっており、あわてて口の中に指をつっこみ雪を掻き出すと意識は無いが何とか呼吸はしていた。
顔をひっぱたき大声で名前を呼んでも、うつろな目をしてゼーゼーと唸っているだけで反応が無い。何度やってもダメで、とりあえず体の方を掘り出すことにした。
首から肩へと掘って行くと、どうやら右側を上にして横倒しの姿勢になっている様であった。足の方に向かって掘り進み上半身があらかた出た所で不意に大きな溜め息がした。 見るとどうやら意識が戻ってきている様で、呼吸も普通になってきた。
襟元を掴んで再び呼び掛けると、ぼんやりした調子で返事が返ってきた。
暫くは「僕、生きてるの?」とか「死んじゃったのかな?」とか、イマイチ意識のはっきりしない様子であったが、名古屋の奥さんと子供の事を話しかけたら、さすがに効果があった様で急速に意識が回復してきた。
その後パニック状態になるのを恐れてあれやこれやと話し掛けながら掘り続け、仕舞いにはこっちがぶっ倒れそうになった。
2時間かかってやっと雪から引き上げた時には思わずその場で抱き合ってしまった。
時刻は6時を過ぎており、天気はいつの間にか回復した様で、東の空には青空も見えていた。その日はそれ以上行動する事ができず、デブリの上にテントを張る事になった。
篠崎の体は冷え切っており、コンロを炊き続けてもなかなか震えが止まらない。右手も痺れて動かなくなっていた。暖かいものを飲んで体の緊張を解しつつ相談した結果、やはり下山する事にした。夜半過ぎ、シェラフに入るが外が気になってなかなか寝付けない。フライシートのはためく音にもギクリとして体が硬くなってしまう。
表に出るとアイスフォール下部の雪面が30m×50m程できれいに崩れていた。想ったほど大きい雪崩では無かったことが判る。
<ロブソンは遠く>
翌朝、ゆっくり支度して下降し始める。下りも緊張し通しだった。やはりアイスフォール上部でも雪崩が起こっているらしく轟音が聞こえる度に反射的に振り向いてしまう。
その日はバーグレイクまでひたすら下りたが、皮肉なもので天気はみるみる回復し、キャンプ場に着いた時には快晴になっていた。
夜、大量に余った食料を食いまくり、胃もたれ気味で外に出てみると、空には雲一つ無く、満点の星空の下、青白く浮かんだロブソン北壁が印象的だった。
次の日も気持ちよく晴れ上がり、ロブソンも頂上まではっきりと見える。なんと頂上を見たのはこの日が始めてであった。
下山中、これから登るという何組かのパーティー会った。日本人のパーティーもいた。何だかいたたまれなくなったが、下ることにためらいは無かった。
ジャスパーに戻り、夜はリッチに日本食レストランに入るが、篠崎は右手が使えない為箸が持てず、スプーンで食べる事になってしまった。しかし何にしても、日本食の美味しさが分かるのも生きていてこそだと思い知る我々なのであった。
<記録概要>
(隊の構成) (1回目)徳島和男、篠崎純一、加藤幸彦
(2回目)篠崎純一、京極忠人
(活動期間)(1回目)1995年7月27日〜8月16日
(2回目)1996年9月5日〜9月10日
(行動概要)(1回目)7月27日:名古屋→成田→バンクーバー→ケローナ
29日:→ロブソンパーク
8月 5日:第一次アタック(3350mまで)
13日:第二次アタック(3600mまで)
(2回目)9月 5日:ジャスパー→ホワイトホーンキャンプ場
8日:アイスフォール下雪崩
10日:バーグレイク→ジャスパー
<現地案内>
(アクセス)夏には多くの観光客で賑わう観光地ジャスパーが表玄関になる。ジャスパーまではバンクーバーやカルガリーから定期バスが出ている。食料買い出しもジャスパーが良いだろう。登山用品店や立派な観光案内所もある。登山口までのアクセスにはバスもあるがタクシーかレンタカーを使うのが何かと便利。
(ビザ)不要
(言語)英語
(気候)登山適期は7月下旬から8月。夏とはいえ山は寒いので要注意。
(通貨及び物価)カナダ$
(現地連絡先)Mount Robson Ranger Office:TEL 1-604-566-4325
(登山手続き)特には不要。入山時、公園事務所で登山目的である事を登録しておく。またキャンプ場の使用料も忘れずに公園事務所で払っておく事。レンジャーオフィスは公園事務所の地下にある。
Mt.WHITNEY (4418m)
アメリカ本土2 ホイットニー山
篠崎 純一
<アメリカ国立公園巡りの旅>
レーニア山登山が終わった後、私たち家族はレンタカーでアメリカ西海岸沿いを南下して行った。
幾つもの国立公園を巡りながらの楽しい観光旅行である。
イエローストーンの間欠泉に驚き、グランドティートンの美しさにため息をもらした。 アーチーズやザイオンの国立公園では家族で砂漠のトレッキングを楽しんだ。
1歳になる息子は何が何だかわからないまま、いろいろな所に引っ張り回されている。
この旅を通じて私はアメリカという国の見方を変えた。
ラスベガスに想像を絶した砂漠の摩天楼を現出させ、巨大ダムが建設されてる一方、そのすぐそばにはグランドキャニオンやブライスキャニオンといった大自然も存在する。
アメリカの底の深さをみる旅であった。
ラスベガスで真夜中の激しい闘いを経験した後、いい加減にしないと山を登る気が無くなってしまうと考え直し、一路ホイットニー山の登山基地となるローンパインに車を走らせた。
<アメリカでの奇妙な出会い>
モハヴェ砂漠のど真ん中を、冷房の効いた快適な車で一気に通過し、ローンパインに着いた。
いかにもアメリカの田舎という感じがする町である。家族連れの東洋人は珍しいのか随分とじろじろ見られる。
早速ビジターセンターに行き、ホイットニー登山の為の情報を集めた。
心配していた登山許可の点だが、日帰り登山なら何の申請も要らないと言う。
それなら明日一気に頂上を往復してやろうと考えた。
縁起をかついで、マウントホイットニーという名前のモーテルにチェックインする。
トレールの起点となるホイットニーポータルという所まで、偵察を兼ねて車で登った。
町を一歩出ると周囲は荒れた砂漠ばかりである。聞いた話では、この辺りはよく西部劇の撮影に使われるらしい。
そういう砂漠の中で独りの老人がヒッチハイクをしていた。
乗せてあげると山麓のキャンプ場まで運んでくれと言う。
さすがアメリカ。こんな老人でもキャンプを楽しみに行くのかと感心していると、聞いて驚いた。彼はこの無料キャンプ場に住んでいると言う。
仕事を定年退職して以来ずっとキャンプ場暮らしだそうだ。
熱い太陽がぎらぎらと照りつける無料キャンプ場には、他にも同じ境遇らしい老人が数人住んでいた。何とも奇妙な感じがする。
彼らはとても陽気でフレンドリーだった。ここで私は彼とそのガールフレンドという初老の女性から爪をもらった。
妙に印象に残ったアメリカでの人との出会いだった。
ホイットニーポータルでの偵察を終え、ローンパインに戻り簡単な買い出しを済ませる。
<素晴らしいアメリカの環境保護>
9月19日、朝3時前に妻に起こされた。
簡単な朝食を済ませレンタカーに飛び乗る。
モーテルから猛スピードで砂漠を走り、3時半には標高2550mのホイットニーポータルに着いた。
今日は単独で日帰り登山の計画である。
月も出ていない為、辺りは真っ暗だ。
それでも昨日の偵察に助けられて、ホイットニートレイルの登り口をすぐに見つける事ができた。
暗くて何にも見えない為、かえってペースが上がる。
道を間違えなかったのは、トレイルが実に良く整備されていたからだ。
上部に行くにつれて徐々に空も明るくなってきた。
7時45分トレイルキャンプというキャンプ場に着いた。既に1000m以上の高度差を稼いでいる。ほとんどの場合、登山者はここで一泊してから頂上に向かっているらしい。
水場では数多くのキャンパーがポータブルの浄水器を使って水を汲んでいた。
国立公園の注意書きによると、シエラネバダ山脈の河川の多くにはジアルディアという鞭毛虫の一種がはびこっていると言う。その為、皆用心して浄水器を使って採水しているのだ。
見た目では全くきれいな水である。アジアでは見られない光景だけに妙に印象的だった。
このキャンプ場にはきれいで大きなソーラートイレが設置されていた。
国立公園内の管理態勢には目を見張る思いだ。
有り難く使わせて貰う。
我が国のキャンプ場のトイレとあまりにも違う清潔さに、欧米人の潔癖さとモラルの高さを感ぜざるを得なかった。
<ゴミひとつ落ちていない山>
更に斜面を登り続ける。徐々に傾斜も出て、残雪もちらちらと見かける。
ホイットニー山の東面は岩壁がすっぱりと切れ落ちており、素晴らしいロッククライミングルートを提供している。キーラーニードルの針峰がひときわ尖って美しい。
しかし見ている限りクライマーは誰も取り付いていない様だ。
標高が上がるにつれて高度の影響から、ペースが落ちた。低い山だと思っていても4000mを越えるとやはりきつい。
レーニア登山後の不摂生がたたっているようだ。不夜城ラスベガスで夜更かししすぎたせいであろうか?
一般の登山道は東面岩壁帯を南側から巻くように作られていた。技術的な難度は全く無い。
約3キロに渡り97回の折り返しがあるという斜面を突き上げると、シエラネバダ山脈の主稜線に達した。
峠からは遥かヨセミテ国立公園に向かってジョンミューアトレイルが延びている。
ホイットニー山はジョンミューアトレイルの終着点にもなっている。
ジョンミューアというのは19世紀のアメリカが産んだ伝説的なナチュラリストである。 シエラクラブの創始者としても有名な彼はホイットニー登山草創期に既にその東壁の初登攀を行っていたと言われている。時の大統領セオドア・ルーズベルトを案内してヨセミテハーフドームを登ったのは有名な話だ。
このセコイア国立公園周辺は彼の活躍が最も目立った場所の一つである。
今この美しいアメリカの自然が保たれているのも彼の影響が大きい。
12時、標高4418mのホイットニー頂上に着いた。
ここはアラスカを除くアメリカ合衆国の最高点である。
既に頂上は多くの登山者でごった返していた。今日1日でも50人以上が登頂しているだろう。
セコイア国立公園側の東面トレイルから登頂する者も多くいるようである。
サミットシェルターに置いてある登頂者名簿に名前を連ねてから下山を開始する。
頂上付近の残雪を始めとして、各所でサンプリングしながら下山した。
登りの時には暗くて気づかなかったが、トレイル沿いには素晴らしい湖沼が幾つも点在していた。
こんな美しい所が世界にあったのかと感じさせる程の景色に私は何度と無く急ぐ足を立ち止まらされた。
とにかく美しい。そしてゴミが一切落ちていない。
ゴミのあまりの無さに、少々いやらしい感はあるが、どこかで空き缶でも落ちていないか、探しながら下山してみた。
ところが結局紙屑一つ発見できないまま、午後6時ホイットニーポータルまで着いてしまった。
さすがシエラクラブの本場と大いに感心、東洋の小国の山の惨状が悲しく思い出された。 妻子の待つモーテルに車を飛ばす。
戻ってからもpHチェック、サンプル整理と忙しい。
<意外なグットニュース>
レンジャーオフィスで、昨日日帰り登頂した事を報告してから、車を走らせヨセミテ国立公園に向かった。
しかしどうもヨセミテを観光している間、妻の調子が良くない。
車に酔い、しょっちゅう吐いている。どうやらただの便秘では無さそうだ。生理も遅れてると言う。
もしやと思いセルマという田舎町でフリーウェーを降り、ドラッグストアーに寄った。 妊娠判定キットを購入し、モーテルの一室で確かめてみる。
何とプラスの結果が出た。
15ヶ月前精巣腫瘍の手術を受けて以来、私の精子は正常人の100分の1以下に減っていた。
そのため私は、ほとんど第2子の誕生をあきらめていたのである。
どうやらカナディアンロッキーからの帰国直後にできたらしい。
そうすると今現在妊娠6週ちょっととなり、妻の嘔気はつわりだった訳だ。
産婦人科医であるにも関わらず抜けた話だが、この妊娠は自分にとって全く予想外の出来事だった。
私は予定を急遽変更し、妻子と共に一時帰国することにした。
日本では妻の妊娠に対応する今後の態勢作りに、猫の手も借りたいほどの忙しい日々が待っていた。
篠崎 記
<記録概要>
(隊の構成) 篠崎純一、(篠崎美八子、純八)
(活動期間)1995年9月18日〜19日
(行動概要)9月18日:ラスベガス→ローンパイン、ホイットニーポータル偵察
19日:ホイットニー山登頂
<現地案内>
(アクセス)登山基地となるローンパインまではレンタカーが便利。登山口までのアクセ スを考えると車は必須に近いアイテムだ.
(ビザ)往復航空券を持っていれば90日まで不要
(言語)英語
(気候)登山適期は一般的に6月から10月
(通貨)US$
(現地連絡先)Mt.Whitney Ranger District Office: PO Box8,Lone Pine,CA,93545
TEL 1-619-876-5542
(登山手続き)ホイットニー登山の為には原則としてWilderness PermitをMt.Whitney
Ranger District Office から取得する必要がある。
そこでは1日ごとの登山者数を一定の数に制限して許可を出していた。
希望の日の許可を取得するには早い内から現地と連絡をとる必要がある。
夏の登山許可の受付は毎年3月1日から始まるとの事である。
一方、本文中に触れた通り日帰り登山であれば申請の必要は無かった。
なお登山予約のキャンセルが多いので、現地にいきなり入っても許可取得 のチャンスはある。
IXTACIHUATL (5286m)
PICO DE ORIZABA(5966m)
メキシコ イスタシワトル
オリサバ
篠崎 純一
<アメリカからのドライブ>
ロスアンゼルスで思い切って車を購入した。
環境調査の怪しい道具や資料整理用のノートパソコン等、得体の知れない荷物を背負って治安の良くない中米を行くのは、賢くないと思ったからだ。
中古の韓国車エクセルで諸費用込みの2500$は結構思い切った買い物だった。
必要な書類をそろえるのに思ったより時間を費やして、ロスを出たのは10月10日になっていた。
メキシコシティーに着くまでは6日間のドライブだった。
それまで家族で合衆国を旅行していたので、独りのドライブは寂しかった。
度重なるオーバーヒートや警察官の嫌がらせなども大きなストレスだった。しかし最も困ったのは言葉の問題である。スペイン語がさっぱりわからないのだ。
交通標識もよく分からず、辞書を引きながらの移動はこれもまた一つの冒険だったと思う。
<ポポカテペトル断念>
10月15日メキシコシティーで、これからの旅の相棒となる山本と合流した。
早速メキシコ第2の高峰ポポカテペトルに向かう事にする。
ポポカテペトルの登山口にはトラマカス小屋という営業小屋が立っている。
そこまではメキシコシティーから快適な舗装道路を3時間で着くはずであった。
ところがポポカテペトルとイスタシワトルとの峠から先が立ち入り禁止になっている。
どうしたわけだろうと思っていると、若い警察官が2名現れ、ポポカテペトルは登山禁止なので帰ってくれと言われてしまった。
言葉もうまく通じないので登山禁止の理由もわからない。
仕方なくアメカメマという山麓の町まで戻って市庁舎にある登山局を訪問、新たな情報を集める事にした。すると火山活動の活発化のためポポカテペトルは現在登山禁止になっていると張り紙が出ている。なんとお粗末な話だ。我々はその事を現地に到着するまで知らなかったのだ。交渉による入山の余地もなく、我々は一旦メキシコシティーまで戻り、計画を見直す事にした。
<イスタシワトル登頂>
10月18日再挙を期してメキシコ第3の高峰イスタシワトルに向かう事にした。
先日通行止めがあったパソデコルテスから舗装道路を離れて、北方に延びるがたがた道に入る。
いつ車がえんこするか気が気でない。標高3850mのラホヤという駐車場で車を降りた。
ここからいよいよ登山が始まる。牛の放牧場を横切る。あちこちに牧童の踏み跡が付いており道を間違えやすい。その日の内に標高4500mのイグルー小屋に着き、テントを張った。期待していた水場がない。多めに持参してきた水で炊事を済ませる。
翌日は6時にテントを出た。うっすらと雪が積もっている。昨晩の内に少し降雪があったらしい。
落石の多いがれきの斜面を登ると頂上稜線に出た。一気に視界が広がる。ポポカテペトルがすぐとなりで美しい姿を見せていた。
真っ白な稜線がイスタシワトルの頂上まで延びているのが見える。しかしこの稜線が長い。
一番奥の頂上まで、えんえんと登り降りを繰り返さなければならない。高度の影響も加わり結構応えた。
11時10分、5286mの頂上台地の一角に着いた。意外な事に頂上は野球が出来るほど広い。その台地を横断し、一番高い所と思われる地点を頂上とした。
環境調査のサンプリングは結構時間がかかる。少し息苦しく頭も痛い。
徐々にガスも出てきた。ルートファインディングの事を考えると余りゆっくり出来ない。
案の上、頂上稜線からの降り口で少し道に迷う。火山であるため、がらがらの落石が結構危険だ。落石危険帯を過ぎ、ほっとしたのか放牧場への下降はきつかった。高所による疲労も大きいのだろう。ラホヤに着いてポカリスエットをがぶ飲みした。
車でメキシコシティーに帰る。シティー内でのドライブは大変だ。夕立と帰宅ラッシュに巻き込まれ、ラテンのドライビングテクニックに手を焼いた。
何だかペンションに帰り着くまでの運転が、今日一日の核心であった様な気がする。
<ポポカテペトル噴火>
イスタシワトルから下山後、風邪を引いて体調を壊した。
しばらく休養を取る事にして、その間ついでにメキシコシティー観光を楽しむ。
新聞でも立ち読みしようとキオスクの前で足を止めて驚いた。
一面に大きくポポカテペトル噴火と出ている。おそらくヘリコプターから撮影したと思われる写真では、頂上部が完全に噴煙の中だ。
こんな時に無理してポポカテペトルを試みようとしないで本当に良かったと思った。
<ピエドラグランデ小屋へ>
10月24日、次の山オリサバを登るため荷物を詰め込み車を飛ばす。
高速に乗り込みプエブラを越え、オリサバ線を走る。いきなり降りるところを間違えてしまった。
リカバリーの道を探す時に更に走りすぎた為、100km近く余分に走る。高速代も結構高くついた。
トラチチカという町を目指しているのだが標識が全く無い。
さんざん道を間違えてから何とかトラチチカに着いた。
トラチチカの町は山裾の田舎にある割には、思ったより大きかった。立派な教会とガソリンスタンドまである。
今回の登山に緊張しているのか山本の表情が堅い。
メキシコシティーで集めてきた情報によると、ここにオリサバ登山の手配を一手に引き受けている女地主がいるという。
まず彼女を探すことからオリサバ登山は始まるのだ。
泥縄のスペイン語勉強が効いたのか、すぐに彼女の家を見つけだした。
いかにも育ちの良さそうな感じのする人だ。
山に行きたいと言うといつでも手配OKだと言う。
どうやら彼女はピエドラグランデ小屋へのジープ手配をサイドビジネスにしているらしい。
いかにもメキシコの庄屋という感のある家で、中庭には軽トラックが2台野ざらしにされている。
これまたいかにも小作人という人が現れて、400ペソでジープを運転してくれる事になった。
事務的に事が進んでかえって有り難い。
スムーズに話がまとまり、本日中に小屋に向かう事にする。
荷物を積み変えて出発。
とんでもないがたがた道を2時間程走り、標高4260mののピエドラグランデ小屋に着いた。自分のエクセルではとてもこんな道は走れない。
小屋に着く頃にはジープのクラッチが壊れてしまい、小作人風運転手も困っている。
幸い先に小屋に着いていたアメリカ人のトムが車に詳しくて事無きを得た。
トムはシアトルの登山ガイドで今回一人でオリサバを偵察に来たと言っている。本日は高所順応のため小屋での停滞日だそうだ。
暗くなると共に雪が降りだした。
早速雪を採取する。
<オリサバ登頂>
午後になると天気が悪くなるという事で早立ちをする事にした。1時起床。
寝袋から顔を出すと、山本が既にラーメンを作ってくれていた。
急いで出発の準備をする。
ヘッドランプを点けて、トムも一緒に小屋を出る。
月は出ていないが星の数が多く、うっすらと山の形がわかった。
小屋の上からすぐに雪が積もっておりアイゼンが良く効く。よく見ると雪の上に踏み後が着いていた。
黙々と登る内に氷河に出た。
だんだんと空が明るくなってきた。
冷え込みが激しい。どうやら晴れてくれそうだ。
氷河を登るに連れて、高度の影響からペースが落ちだした。
登っても登っても先に見える岩稜状の火口が近づかない。
傾斜も思ったよりある。滑り落ちたらひとたまりも無いが何とかストックをついて登って行ける程度だ。
午前9時半、ピッケルをいつ出そうかと迷っている内に火口に着いた。
トムは20分程前に登頂して既に下降に入っている。
そこから10分程で頂上に着いた。
早速山本に写真とビデオを撮ってもらいながら環境調査用のサンプリングをする。
頂上はたいへん見晴らしの良い所であった。しかし高度のせいか景色を楽しむ余裕はあまり無い。
サンプリングが終わるとすぐに下降に移る。
山本は逃げるようにとっとこ下っていく。
私は写真を撮ったりサンプリングをしながら遅れて下った。
それでも雪が良くしまっており、昼前には小屋に戻っていた。
昨日の運転手は小屋に泊まって、1日中我々の事を心配しながら待っていた。
おかげで荷物をまとめると、すぐにトラチチカへの車上の人になることができた。
途中で道路工事のため車が通れなくなっていたが、皆で工事の石をどけて事無きを得た。
高所から一気に降りてきたせいか目に写る物がなんでも美しく感動的に見える。
久しぶりの5500Mを越える高所登山であったがうまくいってよかったなあと心から思った。
トラチチカで例の女主人に挨拶をし、本日中にメキシコシティーに帰る事にする。
運転手とトムから爪をもらう。
さすがに女主人に爪をくれとは言えなかった。
慣れてきたおかげかシティーの運転もスムーズに行き、暗くなる寸前に宿に帰り着いた。
帰ってからも環境調査のサンプル整理や記録で忙しい。
<楽しきメキシコの日々>
中米に向かって南下する前に、我々はしばしのメキシコ観光を楽しんだ。
遺跡巡りやプロレス鑑賞など、この時とばかりに遊び回る。
治安の悪いコロンビアでの山行に備えるために現地エージェントと直接コンタクトを取る必要もあった。
車の整備も特に念入りに行う。
採取サンプルと記録用フロッピーディスクを日本に国際宅急便で発送するだけでも、様々な手続きを必要とした。
そうこうする内に1週間があっという間に過ぎいよいよ、南米に向かって南下する日が来た。
<記録概要>
(隊の構成) 篠崎純一、山本武
(活動期間)1995年10月17日〜25日
(行動概要)10月17日:メキシコシティー→パソデコルテス→メキシコシティー
18日:→ラホヤ→イグルー小屋
19日:→イスタシワトル頂上→ラホヤ→メキシコシティー
24日:→トラチチカ→ピエドラグランデ小屋
25日:→オリサバ頂上→ピエドラグランデ小屋→トラチチカ
<現地案内>
(アクセス)
イスタシワトル:アメカメカまではメキシコシティーから毎日何本もバスが出ている。そ こから登山口まではタクシーかヒッチハイクに頼るしかないだろう。ポ ポカテペトルも同様。
オリサバ:メキシコシテイーからトラチチカまではバス。アカジンコという場所で乗り換 える必要がある。トラチチカからピエドラグランデ小屋までは4WD車を手配 しなければならない。
4WD車は上記記録に出てくるセニョーラ アマドールに手配をお願いすると 良いだろう。
(ビザ)不要。代わりにツーリストカードという物がある。
(言語)スペイン語
(気候)一年中登山可だが。12月から4月にかけてが比較的良い。
(通貨及び物価)メキシコペソ、為替は不安定、割安感あり。
(現地連絡先)
イスタシワトル、ポポカテペトル:Mexico City of Tlamacas lodge Office, Rio Elba
20,Noveno Piso,Colonia Cuauhtemoc,Mexico City,Mexico TEL:52-5-553-58-96
オリサバ:Se or Jos Amador Reyes , Tlachichuca 26 Mexico
(登山手続き)登山許可は不要。
コルディエラ オキシデンタル、エクアドル、チンボラソ山
篠崎 純一
<南米へ>
すっかりメキシコシティーにも住み慣れてしまった。友達も多勢できて離れがたい気持ちだ。
おかげで南米キト行きの飛行機に乗り込んだのは11月23日になっていた。
今から思えば、その当時我々は南米の国々に謂われの無い不安を抱いていた。
その為いろいろ悪い噂の多いコロンビアを後回しにして、まずエクアドルの首都キトに入る事にした。
ところが事はスムーズに運ばない。
メキシコシティーを飛び立ったコパエアー機は、電気系統の故障により急遽コロンビアのボゴタに着陸する事になった。
深夜未明にボコタに着く。宿泊先は飛行機会社が手配してくれたので心配なかったが、荷物がどうにかなってしまわないか、それが一番気がかりだった。
幸い荷物も無事に到着。飛行機会社があてがってくれたホテルは空港そばのキャピタルホテルという高級ホテルだ。
こんな良いホテルに無料で泊まれてかえって得した気分である。
ちなみに南米初日のこの宿は、自分が南米で泊まった宿の中で最も豪華な物であった。
翌日、代わりの飛行機でキトに到着。昨日と打って変わって1泊500円の安宿にチェックインする。
キトの町はさすがユネスコの文化遺産に指定されているだけあって、コロニアル調の建物が立ち並ぶ美しい町だった。
ただ残念な事は狭い道に車がひしめき合って、著しく美観を損ねていることである。
中南米の多くの町はソカロという中央広場の周りに無秩序に道が入り組んでいるので、交通渋滞もひどい。スペイン統治時代の町並も車社会の現代には不向きな様だ。
<ウィンパー小屋へ>
記念すべき南米初登山はエクアドル最高峰チンボラソから始まった。
チンボラソはアンデスの王様とも呼ばれ、古く1745年から1818年の間は世界の最高峰と考えられていた。
初登頂は1880年、マッターホルンの登頂で余りにも有名なE、ウィンパーによるものだ。
おもしろい事に、赤道直下の山なので地球の中心から計ると本当に世界最高峰になるのだそうだ。
25日未明、真っ暗闇の中、キトのバスターミナルに向かい宿を出る。
大荷物を背負って歩いていると、いかにもやばそうな感じがするホームレスの人達がじろじろと我々を見詰めている。
いつナイフでも突きつけられて、恐喝されるのではないかと不安になった。
思わず早歩きになる。短い距離でもタクシーを使うべきだった後悔した。
案の上、バスターミナルの中で黒人浮浪者に「1$よこせ」と絡まれた。
荷物が多いので逃げる事もできず、あっと言う間にゴアテックス製の帽子をひったくられてしまった。
腹が立ったが、怪我させられなかった分良かったのかもしれないと気を取り直す。
5時15分リオバンバ行きのバスに乗る、昼前にリオバンバのバス停に着いた。
そこでタクシーを捕まえて、チンボラソ山麓のクルー小屋に向かってもらった。
1時間半ほどがたがた道に揺られると標高4800mのクルー小屋に着く。
さすがに少し息苦しい。
チンボラソのベースキャンプとなるウィンパー小屋へは、ここから歩いて1時間である。
なかなか立派な小屋で驚いた。
きちんと営業しており、頼むと暖かいスープを作ってくれる。
外は雪が降り出していて、5センチほど積もっていた。
一気に明日勝負をかける事にして早めに寝袋に潜り込んだ。
<きわどかったチンボラソ登頂>
標高5000mの夜は、高度障害でほとんど寝れなかった。
午前0時半起床する。
日中の天気は悪いという事なので、夜間登山を試みる事にしたのである。
小屋には他にドイツ人のソロクライマーと現地ガイド付きのアメリカ人女性がいた。
彼らも出発の準備を進めている。
今日も月は出ていない。
ヘッドランプの明かりを頼りに、いの一番で小屋を出た。しかし正しいルートが良く分からない。
一般ルートの西稜に出る部分で岩が出ており、上部に抜けるラインが良く分からないのだ。
しばらくうろうろしていたら、後ろから現地ガイドがアメリカ人女性と共に登ってきた。
幸いな事に彼らから正しいルートを教えて貰う。
そこからはひたすら我慢の登りであった。
高所順応にもっと時間をかけるべきであったと悔やみながら、黙々と登り続ける。
幸い天気は持ってくれている。
所々に小さなクレバスがあいているので要注意だった。ガイドパーティーは途中から下山していったが、今度は代わりにソロのドイツ人が合流した。
西峰を越えて主峰に向かう。午前8時45分主峰に登頂した。頂上では息苦しくておもわずへたりこんでしまう。
どうやら上手く順応が出来ていなかったらしい。
しかしどんなに疲れていても、環境調査のサンプリングと写真、ビデオ撮影を忘れる訳にはいかない。
徐々に登ってくるガスを気にしながら、よたよたしながら仕事をこなした。
やることを済ましたら急いで下山に移る。
予想通り途中からガスに巻かれて視界が悪くなった。
疲れてしまって休み休みしか降りられない。登りの時は暗くて出来なかったサンプリングと写真撮影も忘れずにこなす必要がある。
午前11時、山本とソロのドイツ人に30分遅れでウィンパー小屋に着いた。
雪が降り出し、周囲はすっかりガスに包まれてしまっている。
技術的な困難がほとんど無いから登頂できたが、高度順応に時間を取らなかった分、余裕のない登山になってしまったと反省した。
<リオバンバの学生達と>
その日の内にウィンパー小屋から戻れる所まで降りる事にした。クルー小屋では雨に降られてしまう。
交通手段が無いので、さてどうやってここから降りようかと思案していると、リオバンバの学生達が近くの山歩きから降りてきた。
彼らに頼んで、軽トラックに便乗させて貰う事にする。
荷台の上では寒いのでお互いに身を寄せあって暖をとる。
陽気な学生達で、途中野外のシュラスコ料理をごちそうになった。
脂っこい焼き肉はおいしかったが、残念な事に疲れた体には胃がもたれて仕方がなかった。
やはり高所から降りてきたせいであろうか、トラックの荷台にのっかり景色を見ていると妙にハイな気分になる。
おかげで見ず知らずの彼らとも南米流の陽気で楽しい時を過ごすことができた。
すっかり暗くなってからリオバンバのバス停に着く。
学生達にお礼のお金を渡そうとしたが、彼らは決して受け取らなかった。
夜行バスに飛び乗りキトに戻る。
キトでも爪取り、雨水採取等を忘れずにこなした。
<記録概要>
(隊の構成) 篠崎純一、山本武
(活動期間)1995年11月24日〜28日
(行動概要)11月24日:キト着
25日:→ウィンパー小屋
26日:チンボラソ登頂→リオバンバ→キト
28日:キト発
<現地案内>
(アクセス)キトからリオバンバまでバスが毎日何本も出ている。
リオバンバから車道終点のクルー小屋まではタクシーかヒッチハイクしかな いだろう。
(ビザ)不要。
(言語)スペイン語
(気候)登山は一年中可だが、6月と7月が比較的良い。
(通貨及び物価)スークレ、インフレは収束しつつある様だ。
(登山手続き)登山許可は不要。
Aconcagua(6960m)
アルゼンチン 南部アンデス アコンカグア
<1回目登山> 篠崎 純一
<木村氏との出会い>
12月31日コロンビアのカルタヘナから南米を縦断し、サンチャゴまで降りてきた。
本来ならサンチャゴ経由でアルゼンチン国境を越え、メンドーサの町で登山許可を得るべきなのだが、ピークシーズンでのアコンカグア登山はどうも気が乗らない。
そこで年末年始の時期をサンチャゴ郊外の港町バルパライソで休養がてら過ごすことにした。
そこの安宿で私は偶然木村氏と出会った。彼は日本を出てから約1年が過ぎた26歳の旅行者である。
特に親しかったという訳では無い。年が明けてから旅は道連れといったような軽い気持ちで、我々は同じバスに乗りメンドーサに向かった。
彼がどういう理由からアコンカグアに登ろうと考えたか、今となっては分からない。
しかし私との出会いを彼がアコンカグア登頂のチャンスと考えた事は確かだと思う。
メンドーサの宿で彼は、私とのアコンカグア登山を希望してきた。
私も彼もアコンカグアの事を甘く考えていた。冷静に考えれば、ほとんど山の素人だった彼を連れて山に向かうべきでは無かっただろう。
しかし、登山家とはとても言えない人達が、軽い気持ちでアコンカグアに向かう事は現地では決して珍しく無い。
メンドーサにはそういった人達の為のレンタル装備屋もある。
私は割とあっさりと彼の同行を了解した。
体力さえあれば、登山技術は無くても登頂できるという風評に、私も彼も押し流されてしまったのである。
<ベースキャンプへの道>
セントロの国立公園事務所で80$払うと、簡単に許可は発行された。
体調が今一つ優れないので、買い出し等の準備も時間をかけて行う。
1月10日の早朝、キャラバンルート入り口であるプエンテデルインカに向かい、バスに乗り込んだ。
荒涼とした砂っぽいプエンテデルインカでバスから降りたら、ちょうどラバを連れた一団が出発するところだった。早速ベースキャンプまでの荷運びを頼む。
ラバは明日中に荷物をベースキャンプまであげる手筈になった。
ラバ1頭の荷揚げの相場は100$と決められていて、いくら交渉してもこれ以上安くはならない。
1泊分の装備を除いた残りの荷物をラバ方に預けて、我々は歩き出した。
メンドーサ川から離れてオルコネス谷に入る。途中に国立公園の事務所があり登山許可のチェックを受けた。
巨大なアコンカグア南壁から流れて出てくる沢がオルコネス谷とぶつかる地点に、コンフルエンシアと呼ばれる場所がある。標高3370mのこの地点に指定されたキャンプ地があり、初日のテントを張った。
翌日は長くなる事を予測して早立ちした。
アコンカグアのベースキャンプは標高4230mのプラサデムーラスと呼ばれる所にある。そこまでコンフルエンシアからの高度差は約900m、距離は約15キロである。
高度順応が出来て無ければ辛い所だろう。
ここのところの怠惰な生活と感冒による咽頭炎でどうも調子が出ない。
プラサデムーラスに近づくにつれて寒くなり、雪も降り出した。軽装でのキャラバンを後悔する。
何とかプラサデムーラスについた頃には頭痛がし始め、風邪による喉の痛みも併発した。
こんな事で登頂できるのかと心配になりながら、重たい体でささやかなベースキャンプを建設する。
<苦しかった高所順応>
ベースキャンプ初日の夜は息苦しい上に咳が止まらずろくに眠れなかった。
その上夜遅くから激しい雪が降り出し、翌朝のベースキャンプは一面雪景色となっていた。迷う事無く停滞日とする。
1月13日、高所順応のための行動が始まった。篠崎は5200m、木村は4900m付近まで往復する。
14日には共に5300mまで往復。15日には標高5400mのニドデコンドルに上がる事にした。
ニドデコンドルまで上がると周囲は完全に氷と雪の世界となった。風も強く寒い。
アコンカグアの寒さは予想以上であった。
私の調子は相変わらず良く無い。当たり前の事だが、高所では一度風邪にかかるとなかなか治る物ではない。
ましてや、誰もが最初のひどい高度障害がでる標高5400mである。
私は喉の痛みと高度障害による呼吸困難に襲われ、その日は非常に寝苦しい夜になってしまった。
木村は気持ち良さそうにすやすやと寝息をたてており、順調に順応している様だ。
翌朝、外は風が強かった。それでも何とか行動はできそうである。
他の隊が動き出すのを見計らって、我々も行動を開始する。
最終キャンプとなる標高5750mのベルリン小屋まで往復し、多少の装備と食料をデポ、一気にプラサデムーラスまで下山した。
<悪天下の休養>
連日の高所行動でいささか疲れがたまっていた。
頂上アタックに入る前に何とか風邪を治しておく必要もある。
数日間の休養日を入れる事にした。ところが頂上に向かおうと思った日から天候が悪化、今度は行動したくても、出られない日が続いた。
ここプラサデムーラスは暑いと聞いていたが、今年は雪ばかり積もり、寒いばかりで少しも暑くない。
1日又1日と停滞日を延ばしていく。周囲には登頂をあきらめて下山するパーティーが目立ってきた。
おかげで順応は進んだが、今度は食料切れが心配だ。かといって食い延ばしする気もおきず、旺盛な食欲にまかせて、毎日ある物を食べまくった。
我々にとってこの頃の楽しみは毎晩11時からのラジオジャパン日本語放送であった。
日本ではいつの間にか総理大臣の名前が代わり、住専という聞き慣れない言葉が飛び交っていた。
連続5日間の停滞を迫られて、食料、燃料の不足がいよいよ問題になってきた。残しておいたおいしそうな食料を全てまとめ、22日朝上部に上がる決心をする。
<ベルリン小屋での辛い足止め>
22日の天気は比較的良かった。2人とも高度順応が進んできたおかげで、スムーズに高度が稼げる。
昼前にはニドデコンドルを過ぎて、篠崎は午後2時過ぎに木村は約1時間遅れでベルリン小屋に着いた。
持参のテントには傷が付いていたため、狭い小屋内の雪をかきだし、内部に居住空間を作った。
すきま風が吹き、暗くて狭い事が難点だったが、眠るだけなら充分だろう。
明日の好天を期待して寝袋に入る。翌朝は風の吹き荒れる音で起こされた。
外を見なくてもアタック不可能な事がわかる。アコンカグアはまだ悪天の周期を脱していない様だ。
幸いまだ食料の余裕はある。本日は小屋の中で停滞する。
寒いので寝袋の中に入ったまま一日中過ごした。
明日こそアタックしたいと思っている内に辛い夜が明けた。
昨日よりは少し風がおさまっている。出発の準備をして一旦外に出た。
しかし100mほど歩いただけで引き返す事にする。
余りにも風が強すぎる為、とても登頂は無理と判断したのだ。
こんな日に長時間行動すると凍傷になるのは目に見えている。大急ぎで小屋に戻った。
とにもかくにも、我々は気分的に大分追いつめられてきた。外には常に強い風が吹き荒れている。
大いに悩んだが、もう一日だけアタックを待つ事にする。高度の影響もあるのだろう。この2日間の停滞は今までになく辛い停滞となった。
<悲劇に終わった頂上アタック>
頂上へのラストチャンスとなる25日の朝がやってきた。
昨日未明から風の音はぐっと小さくなっている。最後の最後に天気は好転した様だ。
完全に服を着込んで、いよいよ待望の頂上アタックに出発である。
この日ベルリン小屋付近に泊まっていた他の登山者も揃ってテントから出てきた。
明るくなるのを待って一斉に歩きだす。
3時間後には標高6500mのインディペンデンシア小屋に着いた。
話によるとこれは世界最高所の小屋であるらしいが、残念ながら今は全く使い物にならない程壊れている。
天気は快晴である。風もほとんど無い。
しかし頂上付近には白い風雲が舞いだしていた。急がなければならない。
インディペンデンシア小屋から頂上までは標高差約450m。頂上までは、まず大トラバースと言われる場所を斜め上方へ移動した後、カナレーターと言われる開けた谷に入り込み一直線に登る事になる。
大トラバースに移ると強い風が吹いてきた。木村はこの大トラバースから大きく遅れだす。
歩きだして10分もしないうちに、我々の距離は大声を出しても届かない程に離れていた。
慣れない強風に戸惑ったのかもしれないし、6500mを越える高所にうまく順応してなかったからかもしれない。ともかく彼のペースはここでぐっと落ちた。
頂上付近ではかなり強い風が吹いている事が予想された。
急がなければ風がますます強くなって登頂できなくなってしまう。
カナレーターの下部を私が登りだした時、木村はまだ大トラバースの半ばにも達していなかった。
カナレーターの下部は僕の予想よりも傾斜が急でしかも雪が付いていた。
木村には前から少しでも危険を感じたならば、必ず引き返す様にと話していた。
そして、アタック時にお互いのペースの違いから途中で離ればなれになる事は最初から予想されており、その場合ベルリン小屋で落ち合う事も以前から打ち合わせされていた。
私は登り続ける事にした。強風の中高度を上げて、昼頃頂上直下に到着。
頂上には強風が吹き荒れていた。吹き飛ばされる危険があったため、頂上直下で環境調査のサンプリングを済ませると一目散に下山を開始した。
下山中に木村の姿は全く見ない。彼がベルリン小屋で自分を待ってくれている事を私は露にも疑っていなかった。
下山は早く、2時間弱でベルリン小屋に着いた。
当初の予定では、我々はベルリン小屋で落ち合った後、そのまま下り続け当日中にプラサデムーラスにおりる事にしていた。
しかし、ベルリン小屋に木村の姿はない。
これはおかしい。木村が私より遅くここに帰ってくる事は考えられない事であった。
不吉な予感が脳裏に走った。私は青ざめて周囲を見渡す。近くの丘に上がり大声で呼んでも返事は帰ってこない。
それでも彼がどこからか現れる事を信じてあちこち探し回り、周囲にいた英語の通じる登山者に日本人は見なかったかと何度も尋ねた。
そこにどこかのガイドが「日本人らしい人が落ちて行った。」と話をしているのを耳に挟んだ。
慌てて私は彼に近寄り、不自由なスペイン語と英語を駆使して彼に質問の嵐を浴びせる。
彼の話によると落ちていったのは木村に間違いない。既に生存は絶望的であるという。
借りた双眼鏡を使ってカナレーターの下の斜面を必死に探す。そしてそこに倒れている木村を発見した。何だか体中から力が抜けて行くように感じた。私はもう何も出来なかった。双眼鏡ものぞけない。
登山ガイドの持参したトランシーバーを使ってベースのレインジャーに連絡を取ってもらうと、力無く小屋の中に潜り込んだ。
気温も下がり、天気も徐々に悪くなってきた。 当然もう今日中に下る事は出来ない。
今夜は一人でこの暗い小屋の中に寝なければいけない。
無性に寒かった。手袋を取ると右手の人差し指と中指がどす黒く変色していた。凍傷である。そういえばいつの間にか指の感覚が無くなっていた事に気付いた。
わずかに残った燃料でお湯を作り指を温める。
木村は今もこの寒空の中で一人雪面に倒れているはずだ。
過去に自分のやってきた全ての事が間違った事の様に思えてきた。
もしも自分の人生の中で一晩だけ記憶の中から消してよい夜があるのならば、私は間違いなくこの夜を選ぶ。
<失意の下山>
翌日、天気は晴れた。私はのろのろと起きあがると、下降の準備を始めた。
共同装備の全てと、木村の残した全装備をまとめる。
とても一つのザックに入りきれなかったので、木村が小屋の中に残していたザックにも荷物を詰め込み、体の前後に一つずつ担いだ。
徐々にプラサデムーラスが見えだす。これからやらなければならない事がいろいろと頭によぎった。
やっとの思いで自分達のベースキャンプテントに辿り着く。しかし私の本当の仕事はこれからだ。
プラサデムーラスに夏の間常設されているレインジャーオフィスと国立公園管理事務所を訪れる。
彼らは早速トランシーバーでプエンテデルインカと連絡を取りだした。
翌日、木村の遺体を確認に出たレインジャーは目的地に到着。滑落時即死であった事をトランシーバーで伝えてきた。
夕方、カナダのテレビチームが衛生電話を持っているという情報が入った。
私は木村さんの実家の電話番号を調べると、痛い足を引きずりカナダ隊の元に向かう。
日本のご遺族に報告の電話をかけた。こんなに辛い電話は他に無い。山登りなんて趣味を持たなければ良かったと思った。正面に真っ赤に燃え上がったアコンカグアが見えた。
1月28日、2週間以上に渡る長かったプラサデムーラスの暮らしに別れを告げ、帰りのキャラバンに付いた。国立公園の管理官は僕の下山をあらかじめ下の警察署に知らせていた。
足が痛く自力で降りられる状態ではないので、ラバの背に揺られての下山であった。
<悲しき帰国>
国立公園事務所で待ち受けていた係官に挨拶すると、車に乗せられてプエンテデルインカの古びた警察署、続いてウプサジャタの警察署に連れて行かれた。
深夜に渡る取り調べを受け、メンドーサの判事と面会する。自由になってゆっくりとシャワーを浴びられたのは、大分先の事だ。
日本から駆けつけたご遺族に詳しい事故の報告をし、ブエノスアイレスから来た領事と面会する。
その間、メンドーサ在住の日系人増田夫妻には多大な迷惑をかけてしまった。増田夫妻のただならぬ尽力のおかげで遺体の回収、火葬もスムーズに運んだのだと思う。
ひと一人の死というのは、どれだけ多くの人に迷惑をかけるか思い知らされた。言葉では語り尽くせない事の続いた日々だった。
月が改まり、2月15日、私は一人でひっそりと日本に帰ってきた。前年の10月4日に名古屋を発って以来4ヶ月以上の月日が流れていた。
神奈川県二宮で葬儀が行われた夕方、高速バスで久しぶりに妻の実家に戻る。
雨の中、バス停で待つ妻子の姿が見えた。
身重の妻が微笑む。長男は少し見ない内にすっかり大きくなっていた。
バスから降りて妻子の手を握った。環太平洋の登山をしていた2年間の中で、最も自分の心に焼き付いている瞬間は、もしかしたらこの時なのかもしれない。
<2回目登山> 篠崎 純一
<アコンカグア再訪>
悪天にたたられたパタゴニア登山が終了後、コジャイケで仲間達と別れる。また一人になってしまった。
海路、陸路を乗り継いで、サンチャゴを目指す。
重荷の移動は覚悟の上だから仕方が無い。観光はあきらめて一目散に移動を続けた。
サンチャゴを過ぎ、国境を越えてメンドーサに入った時は1月20日になっていた。
早速、昨年の遭難事故の時お世話になった増田さん夫妻に連絡を取る。
増田さん夫妻は花の栽培を生業にしている。苦労の果てに成功した南米日系人と言って差し支えは無いだろう。
今はその大きな邸宅の離れを改造し、登山者の為の民宿も作っていた。内部にはペンションアコンカグアと大書された立派な表札が掲げられている。
特にすばらしいのは過去の登山者が残した何冊もの登山情報ノートが置かれている事だ。中には植村直巳の冬季登山や長谷川恒夫の南壁情報も含まれている。肉筆による緊迫した登山記録が詰まっていてなかなか読み応えあるノートだった。
増田さん夫妻にご遺族から託されたお土産と自作の遭難報告書を手渡す。
宿題を少しでも返せた様な気がしてほっとした。
しかし今回私は、もう一つ大変な宿題を自分に課していた。
木村さんのレリーフをアコンカグアの事故地点に設置してくることである。この登山の目的はそのレリーフ設置と、前回登山時に立てなかったアコンカグア山頂に立つ事である。
翌日午前中に登山許可を取得し、食料の買い出し、燃料の調達も済ませた。
1月22日の早朝バスに乗りプエンテデルインカに着いた。今回は増田さんを通して馬方からホテルまで手配されている。
翌朝からのキャラバンもスムーズに進み、24日昼過ぎにはベースキャンプとなるプラサデムーラスに着いた。
先行していた群馬岳連隊のテントの脇に小さい2人用テントを張らせて貰う。
<アタック体勢へ>
木村さんの一周忌に当たる25日にはベースキャンプから一気にベルリン小屋を往復してみた。午後から雷に脅かされたが、スムーズに往復できた。南極での高所順応はまだ十分に残っている事が分かった。
予想していた通り、26日からは悪天となった。しかし昨年と異なり長くは続かない。寒さもたいした事はないし雪も少なかった。
それでも用心して、ベースキャンプで本を読みつつ4日間の停滞、休養を取る。
おかげですっかり充電ができた。高度の影響もほとんど感じない。
私はベースキャンプから一気に頂上を往復する作戦を立てた。
標高4200mのベースキャンプから頂上までの標高差は2750m。普通では一日往復など考えられない高度差だが、昨年の経験から十分成算ありと見ていた。アタック前日、運動不足の体を持て余しながらも、長くなる明日の行動に備えて早く寝た。
<アコンカグア日帰りアタック>
1月30日の朝は午前4時半にテントを出た。まだ真っ暗で、他に行動している人は誰もいない。
ハロゲンランプの強力な明かりを頼りに、歩き慣れた登山路をぐんぐん登っていった。
午前9時頃には標高5800mのベルリン小屋に着いていた。昨年の辛い停滞の思い出がまだ記憶に新しい。
休養もそこそこに、登り続ける。もうすぐインディペンデンシア小屋という所で腹筋がつりだした。腹筋がつるととたんに呼吸が苦しくなる。
羽毛服の前ポケットから、ポケット内で暖めていたビデオカメラとバッテリーを取り出す。腹部の圧迫が取れて少し楽になった。
ポケット内にはレリーフと瞬間接着剤も暖められていたが、こちらは取り出すわけには行かない。瞬間接着剤が凍って使えなくなってしまっては、ここまで登ってきた意味が無くなってしまう。
腹筋を気にしながらもゆっくりと登り続けた。
昨年木村が滑落したと思われるカナレーター入り口部に着いた。まずはレリーフをセットしよう。レリーフは、好意で知り合いにつくって貰った特殊樹脂製だ。接着剤は2材混合タイプのエポキシ系で、寒冷地でも岩に張り付けられる様に工夫して置いた。
慎重に場所を選定して、レリーフを貼り付けた。レリーフは永遠に残る訳ではないし、厳しい吹きさらしのこの地点では、すぐにどこかに剥がれていってしまう可能性があった。
全く自己満足に過ぎない行為と思いながらも、やはり私にはどうしてもここに戻ってくる必要があったのだと思った。
更にカナレーターを登る。昨年と比べてずっと雪が少ない。クラストしている所も無い。 アイゼン、ピッケルも全く必要ないコンディションである。
落石に注意しながら、ゆっくりと登り、午後3時登頂した。昨年引き返した地点は、頂上のほんの数メートル下だった。昨年のあの暴風が嘘の様な、おだやかな山頂だった。
下山の際に高度障害でふらふらになった欧米人を助けて、ガイドの元に連れ降ろす。
ベースキャンプに戻ったのは、テントを出てから15時間後の午後7時半だった。
テントに戻っても食欲は湧かない。何とか雑炊を作って、半分だけ食べて寝る。
<群馬隊の好意に甘える>
翌日は疲れてしまって、一日中テントで寝ていた。
群馬隊が登頂祝いにワインを開けてくれた。ついでに肉じゃがまでごちそうになる。
彼らも、数日後に無事登頂したが、その際に外れていたレリーフを再度しっかりと固定してくれたと言う。群馬隊の好意に大いに感謝した。
2月1日、プエンテデルインカに下る。道路に出た所で国際バスを捕まえて、その日の内にサンチャゴまで帰り着いた。
<記録概要>
(構成) (1回目)篠崎純一
(2回目)篠崎純一
(活動期間)(1回目)1996年1月7日〜1月28日
(2回目)1997年1月20日〜2月1日
(行動概要)(1回目)1月 7日:→メンドーサ
11日:→プラサデムーラス
22日:→ベルリン小屋
25日:→頂上アタック、遭難事故
28日:→プエンテデルインカ→ウプサジャタ
(2回目)1月20日:→メンドーサ
24日:→プラサデムーラス
30日:頂上往復
2月 1日:→プエンテデルインカ→サンチャゴ
<現地案内>
(アクセス)メンドーサまではブエノスアイレス経由で飛行機で入るか、サンチャゴから国際バスに乗る。便数、値段、時間などから考えればサンチャゴ経由の方が便利なのではなかろうか。
(ビザ)90日以内なら不要
(言語)スペイン語
(気候)登山適期は12月から2月。
(通貨及び物価)アルゼンチンペソ。1$=1ペソに設定されており。US$札がそのまま使える所も多い。アコンカグア登山のみの滞在ならば、ほとんど現地紙幣はいらない程である。物価は周囲諸国と比べて格段に高い。日本とほとんど変わらない様に感じた。
(現地連絡先)Pension Aconcagua(一般民間人経営であることを配慮すべし)
Masuda Hisako: Alte Brown 3738 Ber Mendoza Argentina tel&fax:54-61-262968
Aconcagua Express(ミュールの手配)
Ricardo Elias Jatib: Cerro La Colina 145-B-Dalvian-5500 Mendoza Arzentina
tel&fax:54-61-445987
(登山手続き)メンドーサの国立公園事務所で登山許可を取る。登録のみで費用は1人につき80$。事務所の場所は97年度から郊外のParque General de San Martin サンマルチン将軍公園の一角に移動した。
尚、FAXや郵便で登山許可を取得する事も可能との事であったが詳細は不明。