岳人原稿
<睾丸摘出術を受ける> 94年6月29日、総合病院の手術室で僕は帝王切開の手術をしていた。 当時の自分は産婦人科医になって5年目である。 手術はいつもの様に滞り無く終了した。 手術室から出て、その足で泌尿器科の門を叩く。 以前から気になっていた右精巣のしこりを診察して貰う為だった。 結果は悪性腫瘍だった。 「すぐに手術が必要です。精巣の悪性腫瘍は2〜3日の遅れが2〜3カ月の治療につながる。」 診察して貰った泌尿器科医の声が響く。妙に遠くの方から聞こえたように感じた。 その日の午後、僕は右精巣高位摘出の手術を受ける事になった。 高圧浣腸を受け、陰毛をそられる。 すっぱだかで見慣れた手術台の上に横たわった。陰茎が情けなく縮こまっている。 「何で先生ここにいるの?」手術室の看護婦さんが声をかけてくれるが、こっちは返事する余裕もない。 手術は下半身麻酔で行われた。麻酔科医が気を効かせて睡眠薬を使ってくれる。 目がさめた時、まず最初に僕が見た物は、手術台の横で自分の睾丸がまっぷたつに切開されている所であった。 その瞬間、パソコンが再起動された時の様に、自分の中で何かのスイッチが入る音が聞こえた。 今から思えば、この時から、環太平洋の山行は始まったのだ。 <病院のベッドの中で> しかし術後すぐに山に登ろうなどと考え出せる訳は無い。 転移は無いか?病理検査の結果は?これから先、子供はできるのか?性交渉はできるのか?仕事はできるのか? 自分は後どれくらい生きれるのか? 僕は突然自分を襲った不幸を嘆き悲しみ、病気が大した物でない事を真剣に祈った。 手術と検査の結果は次々と明らかになった。 結果はステージ1という最も初期のセミノーマで、転移は見つからず手術の侵襲も最小限の物であった。 密かに病棟を抜け出し、院内の図書室で自分の病気について調べる。 セミノーマは悪性腫瘍と言っても、現在の進んだ化学療法により100%近く治癒する。 僕は心底ほっとした。どうやらまだ自分の寿命は尽きていなかった様だ。 体が回復すると共に少しずつ気持ちも落ち着いてきた。 日蓮大聖人の有名な言葉に「法華経の行者は冬の如し、冬は必ず春になる」という物がある。創価学会に入信してい る妻は僕に最悪の時こそ飛躍のチャンスと教えてくれた。 苦しい時こそ飛躍のチャンスなのだという考え方は、僕に発想の転換を与えた。 落ち込んでいた気持ちが吹き飛び、今こそ長年求めてきた最高の感激を得られる機会なのではないかと考える様に なった。 それならば、今自分が最も感激できる事をやってやろう。 エベレスト登山に挑戦するのはどうだろうか? 以前よりの願望が突然具体的に自分の前に現れてきた。 その為にどんな苦労でも甘受しよう。後悔はしない。 病床の中から新しい夢が始まった。 しばらくすると僕にとって病気は全く辛い物では無くなっていた。 <放射線治療を拒否> しかし目の前には大きな問題があった。 セミノーマの治療法では、手術後に再発予防の放射線照射を受ける事が標準となっている。 放射線を受けると、骨髄抑制により慢性貧血気味になり、更にリンパ液の環流障害から足にむくみができやすくな る。 僕は産婦人科医なので、過去に子宮ガンの放射線治療による副作用例を何回も見ていた。 これでは健康人でも辛い高所登山はとてもできない。 もう一つ放射線照射には忘れてはならない大きな副作用がある。 生殖細胞は放射線に特に敏感だ。放射線治療後、健常な睾丸も影響を受けて、2度と子供のできない体になってし まうケースも多いのだ。 悩んだ末、僕は病理の医者に頼んで自分の精巣標本を見せて貰った。 見た瞬間に立ち眩みがした。予想していた事とはいえ、顕微鏡の視野一杯に悪性細胞がつまっている。 この時始めて僕は、自分の目の前に病気の現実を突きつけられた気がした。 家族の事を考えると、やはり放射線治療はうけるべきなのだろうか? しかし、残った左睾丸を見つめていると、どうしても放射線治療は受けたく無いという気持ちが強まる。もちろん高所 登山にだって未練があった。 早期セミノーマの場合、一般的では無いが、放射線を受けず経過観察のみで術後フォローするという方法もあった。 運悪く再発してきたら、それから抗ガン剤で治療しても遅くはないという考えによる物で、サーベイランス・ポリシーとい う名前がついていた。 結局、僕はそれを希望した。主治医は「自分の診た(精巣腫瘍の)患者さんの中で、放射線治療を受けないのは貴方 が始めてですよ。」と言った。 <太平洋一周登山のアイデア産まれる> 主治医先生の理解ある決断によって、放射線治療は受けずにすむ事になった。 もちろん再発の危険はあるが、とにかく登山は続けられる。 しかし当時の僕にとって、登山を再開する事は、まだまだ遠い絵空言でしか無かった。 ばりばりに登山ばかりしていた頃ならいざ知らず、今は単なる中年一歩手前のお父さんである。 なんと言っても就職して以来、忙しくてほとんど山に行けない日々が続いていた。体力もすっかり落ちて、おなかの辺 りの肉はかなりだぶつきが目立ってきている。 その上、手術後しばらくは傷がすれて歩くのも痛い。 こんな状態でいきなりエベレストに登頂できる訳は無い。それこそベースキャンプに行くだけでも精一杯だ。 僕は考えた。それなら昔から自分の行きたかった南米の山にまず行って、体調を整えてからヒマラヤに向かったらど うだろう。 南米の山に行くとなれば仕事は辞めなければならない。どうせ仕事を辞めるのなら北米やオセアニアにも行きたい。 いっその事、自分の知らない所ばかり続けて、太平洋を一周登山したら、おもしろいのではないか? 僕は学生の時、幾つもの高峰に登頂しながら、アジアとアフリカを横断した経験がある。 ジャイアンツと呼ばれるような巨大な山に挑戦した事は無いが、ヒマラヤやカラコルムでも未踏峰を含めたいくつかの 山に登頂していた。 今回太平洋一周登山ができたら、自分は世界中のかなりの山域に出かけ登山した事になる。 そうして南極やアリューシャン列島も含めた環太平洋一周登山の思いつきが産まれた。 当初から困難は問題で無かった。困難を克服する過程を楽しみたいと思うほど不思議に気持ちには余裕があった。 <計画は作ってみても> 早速パソコンの前で計画を練り始める。 当初僕は自分の貯金だけで太平洋一周登山ができるのではないかと考えていた。 学生の頃、アジアやアフリカを貧乏旅行していた経験から、今回もそんなにお金はかからないだろうと、たかをくくって いたのだ。 しかしそれはとんでもない甘い計算だった。まず妻子の生活費はどうすれば良い? 続いて住民税や年金、健康保険、生命保険の費用はどうするつもりだ? とても自分の貯金だけで、仕事を辞めて登山に出かけるなんてできっこない。 妻だっていくら理解してくれていても、 食う金が無くてはどうにもならないだろう。 計画は船出も前に、いきなり暗礁に乗り上げてしまった感じだった。 今までの僕ならば、きっと金が無いから仕方が無いと、すぐに計画を断念もしくは縮小したに違いない。 しかし今回は違った。僕はどうしても妥協したくなかった。 最初から多くの障害は覚悟の上なのだ。困難を克服してこそ感動が生まれるのに、適当に妥協していたら自分の失 った睾丸の意味も無くなってしまう。 僕は日本山岳会東海支部にこの計画を持ちかける事にした。 そうする事で、金銭的な問題も打開出来るのではないかと期待しての事であった。 <環太平洋一周環境調査登山隊誕生> 東海支部の尾上支部長は僕の思いをすばやく理解すると、瞬く間にいろいろな事を考えだした。 まず、太平洋一周登山の主催を東海支部とし、僕の個人山行の色彩は努めて消される事になった。 次いで同時に環境調査を行う事で各方面からの理解を得られる態勢作りが始められた。 そのため環境調査登山実行委員会が組織され尾上支部長がじきじきにその委員長を努めてくれる事になった。 東海支部の人脈を通じてスタッフが集まり、計画はたちまち具体的な様相を呈してきた。 特に、名古屋大学地球科学科名誉教授の中井先生が環境調査の点を全面的に指導して下さる事になり、計画はぐ んと意義のあるおもしろい物に生まれ変わっていった。 尾上支部長のコネクションが物を言い企業からの資金援助も集まった。 計画が動き出してから、準備期間は半年程しか無い。 目指す山域はカムチャッカ、アリューシャン、アラスカ、ユーコン、カナディアンロッキー、ペルー、ボリビア、アタカマ、 パタゴニア、南極、サザンアルプス、イリアンジャヤ・・・etc。一昔前ならそれぞれで一つの立派な遠征隊を組んでいた 物も多い。もちろん僕は全山行に参加するつもりだ。 各山域の必要に応じて決められた隊員と山域リーダーが、今プロジェクトの縦糸になった。 そして全山域共通の環境調査計画がプロジェクトの横糸だ。 環境調査も加わり、これほど組織的になった以上、自分の責任は重い。 尾上支部長に言われるまでもなく、気楽な個人山行の気持ちではいられなくなった。 情報の収集。メンバー間の調整。登山許可の取得やら、各山域での態勢作りに忙しい日々が続いた。 身から出た錆とは言え、なまりきった体を鍛え直す必要もある。 環境調査サンプリングの練習も兼ね、週末には仲間達といろいろな山に出かけた。 もちろん同時に産婦人科医としての仕事もしている。連日睡眠時間を削っての厳しい日々が続いた。 悪性腫瘍再発の恐怖などはっきり言って感じてる暇は無かった。 今から思えば、自分の人生でこれほど充実していた時間は他に無かった気がする。 実際の山行が始まる前から、僕の心の中では、もう一つの大きな登山行が動き出していたのだ。 篠崎記 岳人原稿2 篠崎 純一 <退職の話> 環太平洋の山行を実行するには、どうしても仕事を辞める必要があった。 その点、僕は医者の中でもまた特殊な産婦人科医なので、一身上の都合による退職でも、比較的再就職しやすい環 境にあった。 とはいえ、妻子を抱える身で将来のはっきりした展望も無いまま、無職となるのはかなりのプレッシャーがある。 そのため、将来予想される再就職時に備え、つまらぬ汚点を残さない様、患者さんにも病院にも円満退職の為にず いぶん気を使ったと思う。 その点、自分の病気の事は、周囲に対して、退職を正当化する材料として極めて役立った。 退職も決まって、準備も大分煮詰まってくると、僕はいろいろな人から、「この企画は癌再発を防ぐための生きがい療 法ですか?」と聞かれた。 しかしながら実際には自分の気持ちの中で、生きがい療法という意識はほとんど無かった。 また、いくら環境調査という立派な目的があっても、このためだけにこれだけの犠牲を周囲と自分に強いる事はでき なかったろう。 僕がこのプロジェクトを実施しようと考えた最大の理由は、ただ自分が感激したかったからだった。 約10年前シルクロードを旅しながら登山して日本に帰ってきた時、自分の人生でこれだけ感激する事はもう2度と無 いだろうと思った。 しかし今回、悪性腫瘍の手術を受けた事がきっかけとなり、再びそのチャンスが巡ってきた事を何となく感じとってい た。 <楽じゃない環境調査> ここで私たちの環境調査サンプリングについて簡単に説明したい。 環太平洋における代表的山岳30峰で、頂上からベースキャンプまで1000m毎に水(雪もしくは雨)と空気を採取す るという仕事がまず第1にある。 水と空気からは、その汚染物質を出来うる限り定量しまとめる予定だ。 続いて一山につき3人をめどにして、周辺住民から爪を採取した。 爪からは硫黄の同位体分析を施し、当地の大気汚染度を調べる予定になっている。 一言で言えば、これだけなのだが、これが想像以上に大変なのだ。 高所でのサンプリングは辛い。まして天候が良くない時など、全てをほっぽりだして逃げ出したくなる程だ。 また、言葉もろくに通じない外国の山村で、いきなり「爪を下さい」と言うものだから、気味悪がられて逃げられた事も 何回かあった。 環境調査はそのサンプリングが大変だけでなく、採取したサンプルの分析にバカにならない費用がかかる。この点は 当初から頭を痛めていた大問題だった。 こういった苦労が報われて欲しいという事は全隊員の願いだ。 環太平洋計画の活動が実際に動き出して半年程した時、うれしい朗報がジュネーブより届いた。 我々の活動に対し、スイスの時計メーカーロレックスからアソシエイトローリエイツという賞が贈られる事になったの だ。 その賞金と賞品もうれしかったが、自分たちの一銭にもならない行為が海外から評価されたという点が最もうれしか った。 その他多方面から、我々は常に物心両面の援助や励ましを受けた。そのおかげでこの辛いサンプリングツアーもや り通せたのだと思っている。 <環太平洋登山始まる> 様々な問題点を克服し、また克服できなかった物はそのまま引きずりながら、環太平洋環境調査登山隊は95年6月 16日カムチャッカ半島登山から始まった。 カムチャッカ半島最高峰クリュチェフスカヤ(4750m)は、ユーラシア大陸最高峰活火山であると同時に、太平洋岸 の北半球で最も高い山だ。 世界でも有数の危険な火山で、いつ大噴火を起こすか分からない状態が続いている。 我々の登山中にも、頂上から常に真っ白い噴煙を吹き上げ、小規模の噴火を断続的に起こしていた。 もし頂上に立っている時、噴火したらどうしよう。あわれ全隊員木っ端微塵になって跡形も無くなってしまうのではない か? しかし、それらの危惧は幸いにも杞憂に終わった。 我々は、もくもくと吹き上げる噴煙の中、全員登頂し、落石の嵐をかいくぐって無事下山した。 このカムチャッカ山行では、今から33年前の歴史的大噴火で知られるトルバチク(3682m)日本人初登というおま けも付いた。 次のカナディアンロッキー最高峰ロブソン(3954m)では、悪天候のため頂上直下で涙を飲んだが、とにもかくにも環 太平洋計画は順調な滑り出しを見せたと思う。 <妻の妊娠> 続いて僕は妻子を連れ、アメリカ本土での活動に移った。一応表面的には環境調査登山が目的だが、実際にはこれ から長いばらばら生活をする事になる妻子に、少しでも良い思いをさせてあげる為の家族サービスだった。 レーニア(4392m)、ホイットニー(4418m)という山を登るついでに各地の国立公園を巡り、忘れられない思い出を 作った。 この時、我々家族に予想外のすばらしい事件が起きた。 ヨセミテ国立公園からの帰り道、生理が来ないという妻の言葉に、もしやと思い調べた妊娠反応が陽性に出たのだ。 実を言うと僕は、精巣摘出術の手術を受けて以来精子が減少し、当時正常人の100分の1以下しか精子の濃度が 無かった。 従って、手術後に放射線治療をもし受けていたら、決してこの子供は授からなかったと思う。 またストレスの大きい仕事から離れて、登山三昧の暮らしをしていた事も良かったのかもしれない。 思い切って放射線治療を断り、山への旅に出て本当に良かったと思った。 せっかくできた子供だ。無理をする訳には行かない。今までさんざん楽しんでいた沢登りやトレッキングを中止し、急 遽予定を変更、日本に一時帰国する事にした。 妊娠によって、妻にとっては留守中の心配事がよりいっそう増えた形になった。 何とか助けてあげたい気持ちはあったが、既に環境調査登山の計画は軌道に乗っている。 僕ら家族の都合で今後の調査登山の予定を変更する訳には行かなかった。 身重の妻と2歳にも満たない長男を残して、僕はいつ何が起こるか分からない登山活動を続けた。 そして、メキシコでオリサバ(5699m)とイスタシワトル(5286m)、中米でタフムルコ(4210m)、コロンビアでトリマ (5620m)、エクアドルでチンボラソ(6310m)といった山々を次々と登頂していった。 <アコンカグアの悲劇> 平成8年の正月はチリのバルパライソで迎えた。 ここでたまたま出会った26歳の旅行者の申し出を受け、僕ら2人は一緒にアコンカグア(6959m)に入山する事にし た。 しかし、僕が頂上を往復している間に、彼は悪コンディションのグランカナレーターという場所で滑落、不帰の人になっ てしまったのだ。 遺族の方々には、なんと申し訳したらよいのか分からない最悪の事態になってしまった。 その後始末にすっかり打ちひしがれ、疲れ切った姿で僕は4ヶ月半ぶりの日本に戻ってきた。 2歳の長男は見違える様にしっかりして、妻のお腹はすっかり大きくなっていた。 暫くは何もやる気がしない。予定していた南太平洋、ニュージーランド登山も中止した。 この時が環太平洋環境調査登山の最大の危機だったと思う。僕がしっかりしなければ、この企画が成功する事はあ り得ない。 何とか態勢を立て直した再起第1戦はゴールデンウィークのマッキンレー(6194m)から始まった。 入山10日目のアタックの朝、高所登山初体験のザイルパートナーのペースは今一つ上がらない。 彼を残して自分だけ登頂しようと思えばできたかもしれない。しかしアコンカグアの悲劇を繰り返す事は、絶対に避け たかった。 僕は登頂を断念してパートナーと共に引き返す事にした。 代わりに頂上には自分の海外登山の師匠、徳島岳兄が登り、無事に山頂でのサンプリングをしてきてくれた。 <次男誕生> 第2子の出産予定日は5月11日だった。 しかしマッキンレーから下山し、メンバーを一部入れ替え、ローガン(5959m)に入山する5月16日になっても妻の 陣痛は始まっていなかった。 国際電話を通じて聞こえる妻の声はさすがに不安そうだ。 カナダ最高峰ローガンは、周囲に世界最大の山岳氷河地帯を抱えており、環太平洋計画でも1、2を争う山深い地域 にあった。 セスナでローガンの山懐に一度入ってしまうと、次に下界に降りてこれるのは早くとも2週間先だ。 心を日本に残しながらの入山となった。 ローガンは、マッキンレーアタック時に調子の悪かった隊員が活躍し、無事にその大迫力の山頂に3人が立つ事が出 来た。 雪の上の生活から解放されて、セスナで久しぶりに土の地面に降り立つ。妻から一通のFAXが届いていた。 内容は5月17日に3520gの男の子が産まれたという物だった。 相当な難産だったらしく、分娩は緊急の帝王切開によるものだった。 他隊員の好意に甘えて、6月7日一足早く日本に帰らせて貰う。 希太と名付けられた我が子は初対面の父親の髭面を見て、びっくりして泣きだした。 <打ち続く悲劇と困難> 日本にいる間も、心休まる日はほとんど無かった。疲れた体を休ませる暇も無く、関係者への連絡、お礼、及び打ち 合わせの日々が続く。 ロレックス賞受賞を境にして、マスコミからの取材も増えた。 ロレックス賞授賞式にて、隣は高円宮殿下。その節は皆様大変お世話になりました。心より感謝しております。 もちろん、ちょっと時間があれば病院に行き、精巣腫瘍再発の検診を受けた。 CT撮影と血液検査による再発チェックを受け、結果を聞く時には、いつも祈る様な気分になった。 今ここで再発が見つかっても、多分抗ガン剤か放射線の追加治療を受けたら病気は治るだろう。しかし環太平洋の 計画は途中で挫折してしまう。 この計画が成功するには、悪性腫瘍の再発が無い事が絶対条件なのだ。 これはやはり自分の命を張った一つの賭だったと思う。 次男との初対面から2週間も経たない6月19日、我々はボリビアに飛んだ。 ボリビアではイリマニ(6462m)に登頂。ペルーではワスカラン(6768m)に登頂した。 続いて場所を遥か北に変えてアリューシャン列島に渡り、列島最高峰シシャルディン(2861m)に登頂した。 この間自分にとって衝撃的なニュースがあった。学生時代からの岳友、山崎彰人氏が難峰ウルタル2(7388m)に 初登頂した後、原因不明の腹痛から突然死亡してしまったのだ。 彼とは学生時代に中国天山山脈の未踏峰(雪蓮南峰6527m)を2人で初登頂した事がある。 後にはまだ若い御令室と1歳の女の子が残された。 やっている登山のレベルは彼の方が遥かに上であるが、僕にはどうしても他人事の様に思えなかった。 いつ自分にも同様な不幸が襲うかもしれない。 そしてその日は意外に早くやってきた。 その夏、カナデイアンロッキーロブソンに再挑戦していた時、アイスフォール帯で雪崩がおき、僕は完全に雪の下に埋 められ意識を失ってしまったのだ。 ロブソン南面(自分が埋められたのは北面です)ノーマルルートは南側にある。 自分が埋められていた雪崩の穴。ここが自分の墓場になるところだった。
以降 、次回に続く。 篠崎記 岳人原稿3 篠崎 純一 <ロブソンの雪崩> 96年夏、僕は難峰ロブソン(3954m)に再挑戦していた。 ロブソンには昨夏の挑戦で、大先輩徳島さんと頂上直下まで迫っていたが、惜しいところで天候が回復せず、登頂を 逃していた。 必勝を期して、まだ天気の回復しない内から、アイスフォール帯を登りだす。 上部にアタックキャンプを設営して、ア タック日の晴天を待つ作戦だった。 ところが、その作戦が裏目に出た。 アイスフォール中間部から突然襲ってきた雪崩に、アッという間に押し流され、生き埋めにされてしまったのだ。 雪の中を流されていく最中、埋められない様に、必死で手足を動かす。すると、たちまち筋肉が酸素を消費して酸欠 となり、僕は意識を失った。 まさしく絶対絶命。もう環境調査どころでは無い。ガンの再発よりも深刻な事態に僕は追いつめられた。 人は臨死状態になると、様々な死後の世界を見ると言う。だけど僕には何も見えなかった。 死ぬ時というのは、こうやってテレビのスイッチが突然切れた時の様に、何もかも終わりになるのかもしれない。 しかし、死んだ者には終わりが来ても、残された者達はまだ生き続ける必要がある。 僕が死んだら、残された妻と生まれたばかりの2人の子供はあまりにも不幸だ。 何と言っても、自分は癌患者ゆえ、まともな生命保険にも加入できないでいたのだ。 しかし、どうやら僕の生命はザイル1本で現世と繋がっていたらしい。 一緒に登っていたパートナーは運良く雪崩に埋められなかった。彼は結びあっていた8ミリザイルを頼りに、深さ約1 メートルの雪の穴から、僕を掘りだしてくれたのだ。 雪崩に埋められてから、顔が掘り出されるまでの時間は30分程度だったらしい。 奇跡的に助かった僕は、濡れた体で震えながら、不安な夜をその場で過ごし、逃げるようにロブソンを駆け下りていっ た。 <右手麻痺に悩む> このロブソン敗退は、僕に精神的だけでなく、肉体的にもまた後遺障害を残した。 おそらく雪崩に流されていた時に過進展した為だろう、僕の右手の小指側が全く動かなくなってしまったのだ。 僕は産婦人科医である。これでは手術ができない。生活に関わる大問題だ。 予定では、ロブソン登山の後、南米に渡り更に登山を続ける計画だった。 しかしこの麻痺が治らなければ、失業してしまう。僕は帰国を決意した。 日本で早速知り合いの病院に向かい、精密な診察を受ける。 結果は右手尺骨神経の損傷だった。 幸い、抹消神経の損傷は時間がくれば再生するという。何とか失業は免れそうだ。またも僕は、危ないところを救わ れた気がした。 それにしても九死に一生を得た事に変わりは無い。 悪性の病気にかかった事をきっかけに始めた登山中に、遭難死してたら冗談にもならない。 これからまだ先、環太平洋登山は困難な登山が目白押しだ。最大の山場はこれからである。 今回の雪崩事故を教訓にして、多くの物を学びとらなければ、今度こそ死んでしまうかも知れない。 多くの人の励ましを胸に、痺れた手を合わせて、今後の無事を真剣に祈った。 <南米、南極オデッセイ> 96年11月14日未明、僕は家を出た。次に帰れるのは、早くとも4カ月後だ。子ども達はすやすやと眠っている。 僕ら家族はこの2年間の間、何回別れと出合いを繰り返した事であろうか。 しかし、自分で始めた登山行だ。どんなに大変でも途中で放り出す訳には行かない。 まず、僕はボリビアのラパスに飛んだ。 南極大陸に入る前に、世界最高所都市ラパスで高所順応を図ろうという計画だった。 ボリビアは雨期だった。当然天気は良くない。それでも僕は、ボリビア最高峰サハマ(6520m)に入山する事にした。 乾期におけるイリマニ(6462m)登山の経験から、登頂の可能性はあると踏んでいたのだ。 しかし現地に着いてみると、案の定頂上部に垂れ込める笠雲は全く晴れない。雨期の単独登山は無謀だったかもし れないと心配になってきた。 標高6000m地点まではスムーズだったが、そこから上が深いラッセルになった。頂上直下のアイスフォール帯で時 間を取られる。雪崩の危険もあった。 もうこれ以上、雪崩に遭うのはこりごりだ。ここは無理せず頂上直下からの下山を決めた。 続いてラパスから、チリ最南端プンタアレナスに向かう。 いよいよ環太平洋計画でも特別扱いの南極山行だ。その特別な地理的位置から、かかる費用も破格の金額となる。 こんな贅沢な山行はもう2度と出来ない。失敗は許されない一発勝負だった。 アプローチの飛行機から見た南極大陸の大地は、今まで僕が見たどんな山岳フライトの展望より美しい。とても言葉 では言い表せない荘厳さだ。 願いが通じたのか、南極では強力なパーティーと理想的な天候に恵まれた。 エージェントの手で組まれたアメリカ、フィンランド、ブラジル、日本の4カ国語パーティーは、ベースキャンプからわず か3日で南極大陸最高峰ビンソンマシフ(4897m)に登頂。 翌日には南極で3番目に高いマウントシン(4801m)に も登頂した。 南極大陸内陸部にプロペラ輸送機で降りた。地面はカチカチで滑走路の様。 わずか2週間の南極滞在だったが、僕はすっかり白い大地に魅せられてしまった。 南極登山の興奮も冷めない内に、パタゴニア最高峰サンバレンチン(3876m)に挑む。 今度は、打って変わって天気が悪い。忍耐の登山になった。 雨、雪の降らない日は1日も無かった。太陽が照る時間もほとんど無い。 97年の正月はパタゴニアの嵐の大地で、びしょぬれのまま迎えた。 このパタゴニア山行では、極度な悪天と劣悪な氷河に悩まされ続け、北部氷床への荷上げが終了した段階で、無念 の時間切れになってしまった。 パタゴニアの隊員達と別れて、今度はアルゼンチンのメンドーサに向かう。 昨年の事故の時、何かとお世話になったメンドーサ在住の増田さん夫妻にお礼をし、ご遺族から預かってきたお土産 品を渡す。 そのままアコンカグア(6959m)に入山し、ベースキャンプから頂上を一日で往復した。その際に日本から用意してき たレリーフもグランカナレーターに設置しておく。 更にチリを縦断し、アタカマ砂漠のオホスデルサラード(6885m)に入山。 赤い砂漠の塩湖のほとりにテントを張り、徐々に高度を稼ぐ。 頂上直下の岩場も難無く通過して、南米第2の高峰オホスデルサラードにも登頂する事ができた。 ワスカラン頂上直下にて <南太平洋からの帰国> 続くニュージーランド登山に向かって、南太平洋周りの飛行機チケットを購入する。 うまくトランジットを利用して、イースター島やタヒチ島でもサンプリング兼登山を楽しむ事ができた。 ニュージーランドでは当然最高峰マウントクック(3764m)を目指すつもりだった。 しかしマウントクック山麓のリンダ氷河に大きなクレバスが開いてしまったという悪い情報が入る。 残念だがマウントクック登山は諦めなければいけない。 そのかわりタスマン氷河の源頭部にヘリコプターで入り、周辺の山を登りまくった。 緊張する登山を終えて、 マウントクックビレッジに帰り着くと、もう久しぶりの日本がちらちらして仕方がない。少しでも 早く日本に帰るには、どうすれば良いかばかり考えた。 飛行機を乗り継ぎ97年の3月3日、僕は日本に帰ってきた。 今回の5ヶ月間のツアーは環太平洋登山の中でのクライマックスだった。 南極、パタゴニア、アコンカグア、アタカマ砂漠、全てが夢の様な時間となっった。 登れなかった山も多数あるが、そんな事は問題でない。全力を尽くして生きて帰ってきた事が最重要の事だった。 南極ビンソンマシフのベースキャンプ <環太平洋環境調査登山も終わりを迎えて> 2年近くに及んだ環太平洋計画もその大きな山場を越え、終盤に入った。 韓国ハンラ山(1950m)では普段は登山禁止の所を、環境調査という名目で特別許可を貰い、最高点に立つ事がで きた。 引き続き、パプアニューギニアのウィルヘルム(4508m)、インドネシアのリンジャニ(3726m)とアグン(3142m) にも登る。 イリアンジャヤにも入り、カルストンピラミッド(4884m)登山も策したが、こちらはどうしても正式許可が貰えない。 抜け道を使えば、入山することが出来ない訳では無かったが、そこまで粘る気は起きなかった。 この頃の僕は緊張の糸が切れて、何だか気の抜けた様になってしまっていた。 様々な事情から台湾や中国沿岸部の山に向かう事が出来なくなっても、悔しさはあまり感じない。 環境調査の為のサンプリングはさておき、山の数を稼ぐだけの登山になってしまったらあもりにも悲しすぎる。 97年5月25日、多くの仲間達の参加を得て、環太平洋登山隊の打ち上げが富士山(3776m)で盛大に行われた。 今回の登山行が成功した最大の要因は、ただ山仲間という理由だけで、多くの人たちが何の見返りも期待せず協力 してくれた事にある。 彼らには幾ら感謝しても感謝しすぎるという事は無い。 中でも特に有り難く思っている人の一人に徳島さんがいた。 その徳島さんはゴールデンウィークの穂高で雪崩に遭い、K2遠征直前に非業の死を遂げてしまった。 僕の海外登山は、徳島さんとのテンシャン山脈ムザルト峠踏査から始まっている。 それ以来、彼と僕は様々な困難な登山を共にし、大いに勉強させられてきた。 この環太平洋登山計画の中でも、マッキンレーとロブソンに山域リーダーとして参加してもらい、文字通り苦楽を共に してきた。 僕は死を敗北とは考えていない。人は誰でも何らかの理由でいつかは死ぬのだ。 しかしそれでも、彼の突然の死を未だに僕は納得できないでいる。 ローガン頂上からの下山 <失った物と得た物と> 精巣悪性腫瘍の手術を受けてから既に3年が立っていた。仕事を辞めて登山行に出てからは約2年だ。 帰国後久しぶりに泌尿器科の門を叩く。悪性腫瘍の再発が無いか確かめる為だ。 祈るような気分で結果を聞く。CT撮影の写真でも血液検査でも再発のサインは見あたらなかった。 セミノーマの再発は術後2〜3年に発見される事が最も多い。その最も危険な時期を僕は海外で登山ばかりして過ご し、乗り切った訳だ。 この頃、もう一つビックニュースがあった。 妻が3人目の子供を妊娠したというのだ。 前にも書いたが、僕は乏精子症である。3人目の妊娠は全く予定外の出来事だった。 この頃僕には、98年春のエベレスト遠征計画が具体的に動き出していた。 ウェールズの登山家マークルイス氏の遠征隊に隊員として参加させてもらう予定だったのだ。 元から言えば環太平洋の登山計画もエベレスト登山に挑戦してやろうという思いから始まっている。 しかし、もしここでエベレストに行くとなると、乳飲み子を抱えた妻にまた大きな負担をかける事になる。 家族を取るかエベレストを取るか僕は大いに悩んだ。 これ以上仕事を休むとなると、産婦人科医としての職能にも問題を残す可能性があった 僕はエベレスト登山断念のFAXをウェールズに打った。後悔は湧いてこない。 エベレスト登山の為に隠しておいたへそくりは車に変わった。 6月には、昨年登れていなかったマッキンレー(6194m)に個人山行で登頂し、ちょうど2年間に及んだ登山三昧の 日々終わりを迎えたる日が来た。 再就職先の決定は比較的スムーズだった。 今年7月から名古屋港そばの臨港病院という所で働いている。 妻のおなかも大分大きくなってきた。3人目の子どもは、他人に任せざるおえなかった次男と違い、自分で取り上げる つもりだ。 いろいろなドラマを産んで、環太平洋環境調査登山は終わった。 今は300近くに及んだサンプルを分析してまとめる作業に焦点は移っている。何とかうまい切り口を見つけて、有意 義な結果を残したい。 最初、この計画を言い出した時には、誰もがこんな大がかりな事が本当に上手く行くかどうか疑問に思ったと思う。 どこの馬の骨とも分からない、ガンの手術を受けたばかりの半病人が立てた計画だ。そう思うのも当然の事だろう。 僕自身、成功するか否か、はっきり言って自信が無かった。 しかし、それでも環太平洋環境調査登山は成し遂げられた。 僕がこの山行を通じて学んだ最大の事は、一人の人間が必死の思いになれば、必ず道は開けるという事だ。この登 山行は、僕の人生に後々まで大きな影響を与えるだろう。 最後になったが、尾上昇総隊長、中井信之学術隊長、小川務実行委員を始めとする多くの方々に感謝の意を表し て、この稿を終わりにしたい。 この3人の活躍は僕の家族の記録帳へ (登山記録を中心にした環太平洋環境調査登山隊の正式報告書が出版されてます。) 環太平洋2年間の登山記録です。安価お譲りしますので興味のある方は下記までメールください。 |
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