環太平洋一周環境調査登山96年11月15日〜97年5月25日編

環太平洋登山の終盤戦。いよいよ自分一人の戦いが始まった。
覚悟を決めて運命の登山行に出た。




  SAJAMA(6542m)
   コルディエラ オキシデンタル、ボリビア、サハマ山 
   篠崎 純一

<みたび南米へ>
 96年11月15日、午前1時半に家を出る。次の帰国は4ヶ月後だ。妻は「4ヶ月は長いよ」と泣く。
 2歳の長男と6ヶ月の次男は何も知らずに眠っていた。僕ら家族はこの1年半の間、何回の出会いと別れを繰り返してきたのだろうか。
 もういい加減にしたいという気持ちが湧いてくる。
 僕には見知らぬ世界が待っているからまだ良い。
 年端もいかない子供と共に残された妻はどんなにつらいだろうかと思う。
 一方、環太登山計画はいよいよ大詰めを迎えていた。
 今まで予想外のアクシデント続きで、僕はいささか不甲斐ない気持ちを持っていた。もう失敗は許されない。
 一方、家族の為には決して無理できないという思いもあった。
 いささか悲愴な雰囲気の中で僕は、日本を離れ3度目の南米に向かい旅立っていった。


<ラパスで高所順応>
 一旦ロスアンゼルスで飛行機を降りる。
 そこで南米向け専門の安チケット屋を見つけ、ラパス経由プンタアレナスまでのチケットを購入した。
 飛行機代を安くあげる為のちょっとした工夫だが、僕みたいに片道チケットの旅を繰り返してる人間にとっては、これで随分の節約になるのだ。
 日本を出て3日目にラパスに着いた。
ここは標高3800m。ただ滞在しているだけで高所順応ができるという有り難い所だ。
 町の中心部にある日本人会館にはちょっとした図書室があり、様々な蔵書に混ざって日本の漫画もずらりと揃っている。
 この時とばかりに、たくさんの漫画を借り、時間の許す限り読んで過ごした。
 20日には、ラパス近郊のチャカルタヤスキー場ツアーに参加した。標高5300mの世界最高所スキー場として有名な所だ。
 他のツアー客は欧米人ばかり。見るとスキーを持参しているのは僕だけだ。
 今は雨期だ。スキー場のコンディションは余程ひどいのかもしれないと覚悟を決める。
ところがふたを開けてみると、雪質は最高だった。
 シーズンオフでリフトが動いて無いのが残念だったが、欧米人観光客の羨望の眼差しを一点に受けながらの滑降は愉快だった。


<美しいサハマ部落>
 今回、私は南極登山前の高所順応の為、ボリビア最高峰サハマ山に単独登山を試みる事にした。今は雨期の真っ最中であるため登頂の見込みは薄いかもしれないが、夏のボリビア登山(イリマニ山)の経験から必ずしも登頂不可能という訳ではないだろうと思っていた。
 22日朝、タンボケマド経由で隣国チリに向かう国際バスに乗り込む。
 国際バスと言っても走っているのが不思議な位のおんぼろバスだ。
 もっとも僕らは国境手前のサハマ部落分岐で降りる予定である。
 相棒はラパスで雇ったポーターのマリオ・チョケ氏である。
 バスは大きな砂ぼこりをあげて、荒れた大地をひたすら国境に向かって走る。
 砂漠のど真ん中に国立公園の看板が立っているだけの地点でおろされた。
太陽が照りつけ暑い。どうやら殺風景なこの地点がサハマ部落への分岐点の様だ。
 ここから先はまともな交通手段は無い。いきなり途方に暮れてしまった。
マリオの話によるとここからサハマ部落までは2日に1度不定期乗り合いバスが出ているだけだと言う。
 まさかこの暑い砂漠の真ん中で、2日もバスを待つ羽目になるのではないかと心配になってきた。
 遠くにちょっとした部落の影が見える。
 マリオに情報を集めに行って貰う。夕方になれば乗り合いトラックが通るという有り難い話を携えて彼は戻ってきた。
 その話を信じて、ひたすらトラックを待った。日が傾き涼しくなった頃やっとトラックが来た。
 狭い荷台は、インディヘナの人たちと羊で足の踏み場も無い。それでも何とか自分たちとザックのスペースをあけて貰った。
 精一杯の会話で皆と仲良くなった頃サハマ部落に着いた。
 近くに大きくボリビア最高峰サハマが聳えている。氷河からの雪解け水のおかげでこの付近には緑が多く、羊やリャマがあちこちで放牧されていた。
 川の脇にテントを張っていると、釣りを楽しんでいた子供達が珍しそうに寄ってきた。
 時間があれば何日間かゆっくり滞在したくなる素朴な部落だった。


<アタックキャンプへ>
 サハマ部落で更に2人の若者をポーターとして雇う。
 11月24日、標高4200mのサハマ部落を出て、アイチェタ川沿いの踏み跡を辿り、標高4800mのベースキャンプに移動した。
 風が強い、頂上付近には大きな雪煙があがっている。
 天気の安定していない雨期のシーズンに、たった一人でサハマに挑むのは少し無謀だったかなと不安になってきた。
 正面には大きくサハマ西壁が迫っている。僕はその北側の稜線をつたうアメリカルートを狙うつもりだ。
 翌朝早くサハマ部落からあがってきた2人のポーターを先導させ、その後ろをマリオと共に追っかけた。
 大きな台地を横断し、わずかな踏み後を辿りガレた稜線を登っていく。
 途中から徐々に雪が深くなり、日陰に入ると膝までのラッセルになってしまった。
 サハマで雇った2人のポーターは行動食を持っていない。代わりに彼らはコカの葉を口に含み、常にくちゃくちゃと噛んでいた。
どうやらコカのおかげで空腹感が麻痺するらしい。コカの葉はコカインの原料として有名だが、ボリビアでは完全にコカ茶として生活の一部となっている。
 僕も高度障害による頭痛に効くため、ずいぶんとお世話になった。
 4人で交代してラッセルし、午後3時頃標高5800mのアタックキャンプ地点に着いた。
 2人のポーターはここまでで引き返す。
 マリオは嫌そうではあったが、とにかく明日のアタックに行けるところまでつきあってくれる事になった。
 小さな2人用テントに入り込み、息苦しい夜を過ごす。


<頂上には届かず>




VINSON MASSIF(4897m)
      Mt.SHINN(4801m)
            南極 センティネル山群
   篠崎 純一
<プンタアレナスで待たされる>
 96年12月1日、大型ザック2つとスキーを手に、私はプンタアレナスの小さな飛行場に降りたった。
すぐそばにマゼラン海峡が波の音を立てている。かすかに潮の匂いがした。
 サハマという6000m峰で登山をしてきたばかりだったので、標高0mの空気は体にまとわりつくように濃く感じられる。
 順調に行けば、この小さな港町からアドベンチャーネットワーク社(ANI社)の南極行き飛行機が明後日飛び立つはずだ。
 明るいサンチャゴから着いたからだろうか、パタゴニアの空は妙に暗く感じた。
 翌朝、早速プンタアレナス郊外の高台にあるANI社オフィスに出かける。どうやら一般の民家を一軒、ANI社で借り切っている様である。
 奥の部屋に案内されると、ANI社の女ボス、アン・カーショウ女史が胸の大きく開いた黒いワンピースで仕事をしていた。
 なかなかのグラマー美人だ。彼女の英語は早口で分かりづらかったが、相当なやり手ビジネスウーマンである事は間違いない。
 彼女の説明によると、今年の南極の天候は不安定だと言う。いつ次の飛行機が飛ぶかはっきりしていないらしい。
 すぐにでも南極に飛べるつもりでここに着いた私としては、いきなり肩すかしを食わされた感じだ。
 プンタアレナスは穏やかでも、南極側着陸地点の風はなかなか止まないらしい。
 ANI社からは、電話で毎日飛行機便の見込みを知らせてくれるのだが、今一つぱっとしない情報ばかりだ。
 結局、自分はこの小さな港町で南極へのフライトを1週間以上待たされた。
一泊5$の安ホテルにいても何もする事は無い。日本から持ってきた本はあっと言う間に全て読み終えてしまった。
 仕方なく近くのペンギンコロニーにマゼランペンギンを見に行ったり、雪の無いスキー場でハイキングしたりして、時間をつぶす。
 何もする事が無く、手持ちぶさたな時には、海岸に出かけマゼラン海峡をただ見つめていた。
 想えば南米の北端カルタヘナの海を出てから1年が経っていた。その間木村さんの死や雪崩に埋められた事などいろいろな事があった。
 精巣腫瘍の手術を受けてからは、2年半経っている。あの時から考えれば、今南極最高峰の登山ができるなんて夢の様な話だ。
 海を見ていると普段ドライな私でも、感傷的な気分になるのであった。


<いよいよ南極へ>
 12月9日、ANI社からいよいよ飛行機が飛ぶという連絡を受けた。
 飛行場で一応出国手続きを受けて、ぞろぞろと飛行機に乗り込む。
 飛行機は南アフリカ所有の双発プロペラ、ハーキュリーズである。定員は50人ほどだろうか。
 SAFAIRという南アフリカの飛行機会社が南極までの輸送を受け持っているらしい。
 いかにも軍人上がりっぽい精悍そうなパイロット達が小気味良く働いている。
 機内には内装が全くなされていない。円柱状の空飛ぶ鉄箱の様なもので、窓もほとんどない。ただし外が見たい時にはいくらでも自由に操縦席に入れた。操縦席の窓から見る南極海は黒くて冷たそうだった。
 飛行機からの音は猛烈だった。耳栓を貰っても、うるさくてとても寝れない。
 6時間のスムーズなフライトの後、飛行機は南極大陸に着陸した。
 飛行機後部の巨大な扉が開くと、まばゆい光と共に、強烈な寒気が津波の様に流れ込んで来る。 
学生の頃から世界のあちこちを旅してきたが、南極に来ることができるとは考えた事もなかった。自分にとって夢でしかなかった南極が今現実のものになったのだ。
 いよいよ南極第1歩をしるす。とたんに滑って転びそうになった。付近の地面がかちかちに凍っていたのである。
 後から分かったことだが、ハーキュリーの様な大型飛行機が着陸するにはこういう固い地面が必要なのだそうだ。従って雪が飛ぶ風の強い地点に着陸ポイントを作らざるをえないらしい。
 いきなり飛び込んできたあまりにも非現実的な景色に、とんでもない所まで来たものだと呆然と立ちつくした。


<ANI社とパトリオットヒル>
 ANI社の南極側基地となっているパトリオットヒルは南緯80度より更に南で、完全に南極大陸内陸部に位置している。日本の昭和基地が南極沿岸部に位置し、南緯70度付近にある事を考えると、南極でもかなり奥に位置していることになる。
 ちなみに今日、南極大陸に上陸するだけなら決して難しくはない。
 南米南端の各港から南極半島の各国基地に向けて、数多くの南極観光クルーズが営業しているからである。
 アルゼンチン南端のウシュアイアで探せば50万円以下でいくらでも南極クルーズの船が見つかるし、現に日本でも多くの旅行代理店が扱っている。
 しかし、南極内陸部まで行こうと思えば事は容易くはない。そのための手間と費用は段違いな物となり、一般の観光旅行とは全く異質なものになってしまうのである。
 南極の沿岸部にはペンギンを始めとして、数多くの生き物が存在している。夏になれば雪が解けて地面が現れる所もある。しかし、内陸部は雪と氷の世界だ。ここに基地が無かったら、何の生き物も存在しない無生物地帯だろう。
 アフリカでも、ナイロビ観光と、ザイール旅行では全く異質なものであるのと同じく、南極でも、沿岸部と内陸部では異なる世界であると認識すべきである。
パトリオットヒルのANI社基地は、ぽつんぽつんと散らばっているテント群と黄色いドラム缶そして赤いセスナで形成されていた。
 巨大なキッチンテントを中心として、氷の地下倉庫、トイレ、図書室テントもある。
 エベレストを標高0mから歩いて登った事で知られるティム・マッカートニー・スネイブの先妻が医師として常駐していた。
 ここには世界各国から総計30人程がそれぞれの思いを抱き、パトリオットヒルに集まってきていた。もちろん日本人は私一人である。
 食事は専従のイギリス人コックが3食共に腕を振るってくれる。酷寒の氷の世界において、見ず知らずの多国籍集団と過ごすキッチンテントのひとときは、楽しい団欒時間だ。
 ちなみにコーヒー、紅茶、ジュースは飲み放題。アルコール類は置いていないが、寒いことを除けば快適そのものである。


<ビンソンマシフに向かって>
 今回ビンソンマシフ登山の為に組まれた自分のパートナーはフィンランド人とブラジル人。それにアメリカ人ガイドのデーブが付く。
 4人パーティーで4カ国語が話されていた。
 驚いた事に自分を除いた全員がエベレストに登って間もない。その上8000m峰も覚えきれない位あちこち登っていた。
 世界の一線級の登山家と言っても差し支えない連中である。彼らの様な強い登山家とパーティーを組めた事は私にとって幸運なことであった。
ちなみに今回ビンソン登頂ツアーに参加した隊員の個人負担は25000$。個人の金ではなかなか踏ん切りが付かない金額である。
 フィンランド人のヴェイカにはJack Wolfskinというアウトドアメーカー、ブラジル人のカタオにはPetroBrasというガソリン会社がスポンサーとして付いている。
 私にしても今回の様な企画物でない限り、とても参加できなかった山行だ。
 この一つの登山で7年前にアジアやアフリカで1年間登山しまくった時より多額の費用が費やされると思うと、やはり複雑な気分になった。
 言葉の壁はほとんど感じなかった。我々は一緒になってスキーを楽しみ、すぐに昔からの友人の様になった。
 ビンソンマシフのベースキャンプまで、パトリオットヒルから約2時間のセスナ飛行がある。このセスナから見える景色は世界のどんな山岳展望フライトより素晴らしいのではなかろうか。センチネル山群の誰一人触れたことすらない針峰群が、見渡す限りの氷の大地に突き刺ささったかの如く聳え立っている。
 アラスカやユーコンで幾つもの雄大な景色を見たばかりの私でも、この景色には感動を通り越して恐怖に近い感情を覚えた。
 ビンソンマシフのベースキャンプにも小さなテント村が出来上がっており、イギリス人のスティーブが一人で忙しそうに働いていた。


<ビンソンマシフ登頂>
12月13日から登山が始まった。ここでは1日中明るいので、早立ちする必要は無い。何と午後4時過ぎから、もこもこと出発である。
 そりを引きつつ、デーブの後を追いかけた。あっと言う間にキャンプ1予定地も過ぎ、キャンプ1,5と呼ばれている地点にテントを張る。
 翌日も午後5時過ぎに出発。キャンプ2予定地を越してようやく傾斜が出てきた。そりを外して、アイゼンを付ける。
 我々のパーテイーは強かった。山行最難所と言われているキャンプ3下のアイスフォール帯も難無く通過し、一気にビンソンとシンのコルであるキャンプ3地点に着いてしまった。
 温度計はマイナス30度以下を指している。微風でも骨に染み入る寒さだ。ぶるぶる震えながらテントを立てた。
 驚くことにガイドのデーブは素手で平気でポールをいじっている。食事も外で作って平気な様だ。いくら南極に住んでいるとはいえこの順応ぶりは大した物である。
 私はさっさとテントの中に入り込み、震えながらデーブの作るシリアル料理を待った。
 翌日は大事なアタック日だ。それでも1日中光を放っている太陽の下、昼過ぎまで寝て過ごす。午後2時になって、ようやく重たい腰を上げ、出発となった。
幸いにして今日も晴れている。南極に着いてから、毎日晴ればかりだ。悪天ばかりに祟られてきた環太登山もここまで来てやっと幸運の女神が微笑んだという所か。
 広大な斜面を順調に進む。頂上稜線への突き上げ付近はやや傾斜が強い。稜線に出てクレバスの心配が無くなった為、ザイルを外した。快適な稜線漫歩から頂上直下の急斜面を通過、南極最高点に到着した。
 環太登山の一つのクライマックスの筈だったが、あっさりしすぎてかえって拍子抜けした感じである。
ヴェイカとカタオはスポンサー向けの写真取りに忙しい。私もサンプリングや記念撮影に励んだ。デーブだけは広い頂上に寝そべってくつろいでいる。
 気温も氷点下20度位で暖かい。ビデオも回りカメラのシャッターも降りるので助かった。
 下山はヴェイカを先頭にして、走るように下った。欧米人トップクライマーの力を見せられた感じだ。おかげで私は足の裏に巨大な豆をこしらえてしまった。


<マウントシン登頂>
 わずか3日で南極最高峰に登頂した我々は、翌日続いて南極第3の高峰マウントシンを目指した。
 やはり昼過ぎになってからテントを出る。頂上を回り込む様にして斜面を突き進み、シンの裏側に回り込んだ。
 モコモコの羽毛服に羽毛ズボンでは、とたんに汗だくになつてしまう。
 後方には南極第2の高峰タイリーが聳えている。その岩壁群は周囲をひときわ圧倒していた。
 過去にまだ2回しか登られていないタイリーは、いずれ南極を代表するアルピニズムの対象になるだろう。
 シンの頂上直下は簡単な岩場になる。念のため慎重にスタカットで登った。3ピッチほどの簡単なクライミングであった。
 岩場を登り切ると、広い頂上稜線に出た。特に緊張する事もなく全員登頂を果たす。
 多分日本人としては初の登頂だろう。
 これまた見た目より簡単に登ってしまった為、かえって拍子抜けした感じだ。
 豆の為、痛む足を引きずりながら下山する。所々にかちかちの蒼氷が現れるので、いささか緊張しつつも、何事も無くキャンプ3に引き返す事が出来た。 
 
 
<さらば南極大陸>
 登山開始から5日目、我々は予定の登山を終えベースキャンプに引き返した。
 がちがちの蒼氷でアイゼンが曲がってしまい、クレバス帯通過時に外れないかと冷や冷やする。
 学生の頃から愛用していたカジタックスアイゼンを日本に忘れてしまった事を後悔した。
 我々が上部キャンプで排泄した便は、ビニール袋に入れてきちんと持ち帰る。
 下部に降りると氷河の照り返しで排泄物がわずかに溶け、風に乗って昔懐かしい肥やしのにおいがした。さすが環境保護は徹底していると感心するが、ご苦労な事だ。
 ベースキャンプから再びセスナに乗り、パトリオットヒルに戻る。
 パトリオットヒルでは珍しく風が止んだので、皆で外に出てバーベキュー料理を楽しんだ。
 油が手に付き指先が白くなる。凍傷を心配しながらのバーベキューも南極の思い出の一つになった。
 12月19日短かった南極滞在も終わりを告げた。
 大型の双発プロペラ機ハーキュリーで南極を離れる。乗客は我々3人のみ。
 その他の積み荷は、おしっこの詰まったドラム缶だけである。世界一高価なおしっこだとつまらない冗談で大笑いする。
 飛行機は轟音をあげて旋回し、大きな成果と一生の思い出を乗せて、進行方向を北に向けた。

<記録概要>
(隊の構成)  篠崎純一
Dave Hahn,Veikka Gustafsson,Mozart Hastenreiter Catao
(活動期間)1996年12月1日〜19日
(行動概要)12月 1日:プンタアレナス着
          9日:→パトリオットヒル
   10日:→ビンソンマシフベースキャンプ
  15日:→ビンソンマシフ登頂
         16日:→マウントシン登頂
         19日:→プンタアレナス

<現地案内>
(アクセス)プンタアレナスからANI社手配の飛行機でパトリオットヒルへ。そこからビンソンンマシフのベースキャンプまではやはりANI社のセスナかツインオッターに乗る。現在南極内陸部への冒険の手配は、ほとんどANI社の独占状態にある。
(ビザ)南極大陸にビザは無い。
(言語)パトリオットヒルでは世界中の言葉が話されているが、ANI社がイギリスの会社である事から英語が共通語となる。
(気候)登山適期は12月から1月。それでも氷点下30度以下は常識だろう。
(通貨)南極に通貨は無い。チリではもちろんチリペソとなる。
(現地連絡先)Adventure Network International
チリ:935 Arauco Punta Arenas,TEL 56-61-247735,FAX 56-61-226167
イギリス:Cannon House 27,London End,Beaconsfield,Bucks,HP9 2HN,U.K.
TEL:44-1494-671808 FAX:44-1494-671725
(登山手続き)ANI社が一手に引き受けている。





      SAN VARENTIN (4060m)
         パタゴニア サンバレンティン
滝沢 守生
 南米大陸の南端にあり、フィヨルドに浸食された複雑な地形と、ふたつの大きな氷床をもつ高山帯をパタゴニアと呼ぶ。パタゴニアは、アルピニスト(ここではアンディニスモと呼んだほうが相応しいかもしれない)ならだれしもが憧れる魅惑の山域であると同時に、そこは“風の大地”とも呼ばれ、気象条件の厳しさは想像を絶するものがある。
 パタゴニアには北部氷床と南部氷床と呼ばれる大きな氷河の集積台地が広がり、北部氷床は東西約45km、南北100kmの規模を持つ。南部氷床はさらに大きく東西約80km、南北330kmと、その面積は1万3500kuにも及ぶ。この氷床を中心にパタゴニアは大きくふたつの山域に分かれ、フィッツロイ、セロトーレを擁するパイネ山群は南部パタゴニアに、そして、このたび私たちが目標にしたサンバレンティン(4060m)は北部氷床にあって、南北両パタゴニアの最高峰を誇っている。
 花崗岩の岩塔が乱立するパイネ山群とは対照的に、サンバレンティン周辺はアイスキャップに覆われた、氷山の体を成す山が多い。しかし、氷床の際奥部に鎮座するそれらの高嶺を見た者はいまだ少なく、地球上から地図の空白部がなくなったといわれる現代においても、この地域に足を踏み入れた者は数えるほどしかいないだろう。
 とまれ、日本人が最初にパタゴニアを登山の対象として、足を踏み入れたのは今から40年ほど前のこと。しかもその第一歩は、北部氷床にあるアレーナスという耳慣れない山であった。
 1958年、日本不世出の登山家として名高い、高木正孝氏率いる神戸大隊は、日本人として初めてパタゴニアへと向かった。日本・チリの合同隊は困難な状況を自らの手で打開し、パイオニアワークと呼ばれるに値するアレーナス山への初登頂を果たす。この記録は『パタゴニア探検記』高木正孝著 岩波文庫の中に詳しい。そして、この記録が私たちを駆り立て、北部氷床をイメージする重要な1冊となったのである。


<まだ見ぬサンバレンティンへ>
 あれから40年、パタゴニアに向かう登山家は増えていったが、そのほとんどは南部パタゴニアをめざすもので、北部氷床へと踏み込んでいった記録はほとんど見ることができない。仕事柄、夜な夜な資料探しに、会社の書庫をあさってみたが日本人隊の記録は皆無に等しかった。
 今回の遠征隊は、日本人4名に加え、ガイド的な役割としてチリのエージェントである「マウンテンサービス」から2人の登山家が参加することになっている。その内の1人が92年にチリ人として初めてサンバレンティンに登っているということで、ファックスを通して送られてくる彼からの情報をたよりに準備を進める。どんな山なのか見当が付かなければ装備ひとつとっても決められない。情報が少ないということは探検的な魅力がある反面、準備の効率を悪くする。
 南米で合流する隊長の篠崎純一を除き、この登山が終わったらK2遠征が控えているという豊橋の金田博秋、同じ豊橋山岳会から久保田敏康、そして東京から山と溪谷社勤務の私、滝沢の3人は、日本での試行錯誤の準備をすませ、12月22日に日本を出発した。
 20時間以上ものフライトを経て、チリの首都サンチャゴに着いた私たちは、マウンテンサービスの出迎えを受け、サンチャゴ市内に入る。サンチャゴは新旧混然とした南米屈指の都会で、ヨーロッパ的な洒落たエッセンスが感じられる街である。私たちはそこで2日間滞在し、多少の食糧を買い足し、マウンテンサービスとの入念な打ち合わせを行なった。
 ガイドの1人、ルーベン・ラミージャ氏は老練なベテランガイドで大の日本びいき。ときどき俳句をそらんじたりして私たちを驚かせる。もう1人のガイド、クラウディオ・ガルベス氏は、大学の体育講師でエベレストやガッシャブルム1峰など、ヒマラヤへの遠征経験をもち、前述したようにサンバレンティンの頂から北部氷床を睥睨した今回の水先案内人でもある。
 サンバレンティンは北部氷床の東側に位置し、初登頂は1952年、アルゼンチン隊によって成されている。その後何度か試みられてはいるが、頂上に至った隊は現在まで数えるほどしかいない(詳細は不明であるが、5〜7隊ほどだという)。
 地図上で見ると、山の東側からアプローチできそうにも見える。事実、初登頂時には東側から極地法によって登頂が成されてはいるが、氷床の東側の山域は深いブッシュに覆われ、到達するには容易ならざる時間と労力がかかりそうである。
 そこで私たちは、92年のチリ隊同様に、海にそそぎ込むサンラファエル氷河を海抜0メートルの舌端から遡っていくプランを選択した。しかし、標高差4000b、距離にして45km以上ものアプローチは、今にして思うと、途方もない計画であったかもしれない。
 12月25日、サンチャゴからパタゴニアのベースタウンとなるコジャイケに移動し、隊長の篠崎と合流する。コジャイケの空港に降り立つと、思わず息が詰まるほどの強風が私たちを手荒く歓迎してくれた。この風を身に受けながら、とうとうパタゴニアへ足を踏み入れたという実感と、この先、この程度じゃ済まされない風が、私たちを待っているのかと思うと空恐ろしさが募ってくる。
 コジャイケの街のほぼ中心にあるホテル、エル・レロイに投宿し、初めて6人が顔を揃え、最終的なミーティングを行なう。レロイの主人でもあるアンヘル氏は、北部パタゴニアを中心に登山やカヤックツーリングなどのアドベンチャーツアーの手配を行なう旅行代理店のマネージャーでもあり、軍や行政に対しても顔の利く人物だ。ここ数日間の天気の状況や、今年の天候の傾向など細かい点を私たちにアドバイスしてくれる。地元の新聞では、日本人がサンバレンティンに挑戦するとあって、ちょっとしたニュースになっていた。
 翌日、最終的な梱包を終えた私たち6人は、いよいよプエルト・チャカブコに向かう日を明日に控える。
 12月27日、こじんまりとしたホテルは居心地もよく、できればこのベッドのぬくもりをいつまでも味わっていたいところだがそうもいかない。焼きたてのパンと、熱いスープに後ろ髪を引かれながら、アンヘル氏のあたたかい家族に見送られた私たちはコジャイケを後にした。
 柱状節理を大きく岩肌にかけた岩山を背に、台地状の平地にぽっかりと浮かぶよう造られたコジャイケの街を車窓に見ながら、車で一路プエルト・チャカブコをめざす。
 予定ではプエルト・チャカブコから大型観光船に乗り、一晩かけてサンラファエル湖をめざす。サンラファエル湖は、北部パタゴニア屈指の観光ポイントであり、サンラファエル氷河が、大音響とともに湖に崩れ落ちる様を船上から眺められるツアーが頻繁に出ている。サンラファエル湖に着いたら、マザーシップを離れてランチボートに乗り換え、湖畔のベースキャンプ地に上陸するという計画だ。
 車が街を離れると辺りは、すぐに牧草地の様相を呈し、道路脇、牧場内を問わず、色とりどりの花が咲き乱れている。空はここに着いてから、相いも変わらず曇天で、鉛色の空に薄墨を落としたような雲の塊が絶えず西から東へと流れている。
 12月といえば、パタゴニアは夏の盛りといってもいい。しかし、気温はさして上がらず、新聞で読んだところによると13℃程ということだった。しかし、辺りに咲くルーピンやヤマブキ、そして野菊に似た花々が夏であることを知らせてくれる。
 車は川に沿うようにしてチャカブコへとひた走る。道路の対岸には30〜40b程の岩場がまるで壁のように続き、その河原は緑の草原になっている。花におおわれた草原では牛や馬が草を食み、のどかな時間が流れている。まさに桃源郷と呼ぶに相応しい光景であるが、空は相変わらず曇天で風も強い。のどかな光景から一転、ふと空を見上げると、ここはパタゴニアなんだとあらためて現実へ引き戻される。
 プエルト・チャカブコの港に着くとすでに船は係留されていて、見送りの人たちが岩壁にたむろしている。乗船までの少しの時間、辺りを散歩していると日本人と出会った。彼はここチャカブコでサケ・マスの孵化事業に携わっている技術者だという。こんなうらぶれた港町で日本人に出会うとは予想もしていなかった。
 船は重たそうに碇を上げ、ゆっくりと岩壁を離れていく。空の色が海の色に溶け込み、水平線がわからなくなると、船は潮風と漆黒の闇に包まれる。かたや船内は、さすが観光船だけあって、さまざまな国のツーリストたちでにぎわっている。なかには日本人も何人かいて、互いの旅の目的などを話しながら、登山前の最後の夜を船上で過ごす。
 翌朝、目を覚ますと船は狭い水道に向かって航行していた。両岸は緑のブッシュに囲まれた陸地で、その幅は100bにも満たない。船が水路を行くにつれ、小さな氷塊も流れてきた。
 眠い目をこすりながら下船の準備をする。幸い風もなく、上陸ができそうだと船長から連絡が入る。船の左手前方にはサンラファエル氷河の蒼々とした舌端が間近に見えてきた。そして時折、腹にずっしりと響く不気味な音とともに押し出された氷河が海に崩れ落ちていく。
 満潮を待って、ランチボートに乗り換えた私たちは船上から手を振る観光客に見送られながら船を離れる。だんだんと母船が小さくなっていく。次にあの船が私たちを迎えに来るのは3週間後だ。


<地球温暖化の影響とは>
 ボートが氷河に近づくにつれ、氷塊の巨大さに圧倒される。崩れ落ち、海に浮かぶ氷塊は一戸建ての家ほどもある大きさだ。浅瀬にボートを着け、装備を降ろし、いよいよ上陸する。ここから先はこの大量の物資を自分達の手で担ぎ上げなければならない。
 3週間6人分の食糧、装備あわせておよそ350キロ以上が湖畔のBCに集積された。湖畔には一軒の家が建っている。この家の前庭のような所をベースにし、離れの作業小屋をキッチンとして使う。ルーベン氏に聞くとこの家は貸別荘で、ごく希にこの別荘を借りて避暑に来る人がいるということだ。しかも、この家の前から、続く小道をしばらく行くと、森林管理官、いわゆるパークレンジャーの詰所があり、夏の間だけ、ここで生活をしながら付近一帯を管理しているという。そしてその先には、草が伸び放題の飛行場らしきものもあり、セスナをチャーターすれば、一足飛びにここに来ることもできるというではないか。なんだかずいぶん遠回りをしてきたような気もするが、そこには無線もあり、緊急時には心強い。
 レンジャーは1カ月ごとの交代勤務で、森林伐採や密漁などの監視をしている。その間、家族ともどもこちらに移り住んでいるのだ。私たちは挨拶と散歩がてら、その詰所を訪問すると、なんとも美しい女性が迎えてくれた。聞くとレンジャーの奥さんだという。「地獄に仏」というのが当たっているかどうか定かではないが、なんだかとてもいいところに思えてきた。
 12月29日、朝から小雨まじりの天気のなか、雨具を着込みC1への荷上げに出発する。初めは足慣らし程度の気持ちで、1人15キロほどの荷物を背負っていく。
 BCから大きく山裾をまくようにして、樹林帯の中を登っていく。樹林の中は鬱蒼としていて、やたらと大きなツワブキや、まるで幽霊の干物のようなサルオガセが森を支配し、原始の森の雰囲気がそこここに感じられる。また、途中の草むらではカラファテの実も見つけることができた。カラファテの実を食べるとまたパタゴニアに帰ってくることができるという言い伝えのある、ブルーベリーのような甘酸っぱい実だ。また、北海道などで見るガンコウランの仲間もあり、歩いてはつまみ、歩いてはつまみして散歩気分で展望台までたどり着く。途中までは、レンジャーの整備した遊歩道が敷設されているが、それも氷河が見渡せる展望台まで。展望台からはサンラファエル氷河を上方から見わたすことができ、その大きさと美しさにしばし時を忘れる。
 雨は依然としてそぼ降るが、今日は荷上げだけだと思うとあまり気にならない。展望台を過ぎ、氷河のサイドモレーンに沿って高度を上げる。しかし、ルートはとても歩きにくく、側壁からの崩壊も気にかかる。クラウディオ氏も歩きながら、5年前を思い出すかのように一歩一歩慎重に歩を進めている。
 サイドモレーンを辿り、岩壁に行き詰まったところから側壁に右上するバンドを登っていく。しかし、ルートは悪く、ノーザイルで登って行くには少々勇気がいる。「おいおいマジかよ」などと口々に言いながら、150bほど岩壁を登ると、緑の多い側壁の中腹に出る。しかし、雨は依然としてやまず、時間も予想外にかかったことからC1予定地には到達できず、ここで荷を降ろしてBCに戻ることにした。
 12月30日、本日も朝から強い雨が降っている。昨日の雨中の荷上げで、雨具と服を濡らしたため、依然として不快きわまりない。またもや朝から雨だとなんだかげんなりしてくる。様子を見るが、やみそうもないので、意を決して2回目の荷上げへと向かう。自分達で運ばなければ、誰も運んでくれないのだ。昨日到達したところまでは、意外とスムーズに行き、そのころになると天気も回復し、ときおり青空が見える。
 山腹のトラバースはぬかるんでいるところが多く、泥壁の中、ブッシュをつかんで登るという趣味の悪い荷上げルートだ。昼過ぎにようやく予定地に着き、C1を建設する。C1は氷河の展望がいい山腹の台地で、前の隊が残したと思われる装備の残骸が残っていた。
 12月31日、昨日からの晴天が今日も続き、快適にC1入りをする。濡れた服も、テントも乾き、早めにC1に着いたあとは、のんびりとひなたぼっこにいそしむ。予定通り荷上げは進み、全員体調もよい。
 C1以上に上がると、日本から持参した食事が食べれるとあって、とくに隊長などは、久しぶりのみそ汁と漬け物に感激すらしていた。今回は、上部食糧はすべて日本から持参し、軽量化を念頭に置いた食糧計画を立てている。10時近くなってもまだ日が残り、今年もあとわずかで終わろうとしていた。
 新年をパタゴニアで迎えた私たちは、新年の挨拶も早々に、出発の準備をすすめる。しかし、またもや今日も朝から雨がしとしと降っている。しかも、いっこうに雨はやまないばかりか、しだいに強くなってきている。本日はお正月休みということで5日ぶりの休養日とする。しかし、この雨が私たちの最大の敵になろうとはまだこの時点では予想もつかなかった。
 1月2日、今日も耳障りな音で目が覚める。テントをたたく雨音は依然として収まらない。しかし、このままではいっこうにらちが明かない。予定通り、C1からC2への荷上げとルート工作に出発する。
 C1からいったん氷河上に下りて、しばらく氷河に沿って再び高度を上げていく。巨大な門のような氷塊が現れたところで、左手のルンゼを詰めていく。300bほど登り詰めて庭園状になった山腹を左手にさらに回り込むと氷河への降り口がある。そこからはスキーを使ってソリを引き、ただ黙々とC2へ向かえばよい、ということだった。
 ところが、その降り口に着いたとたん、クラウディオが呆然として遠くを見つめている。あわてて私たちもその降り口に立ってみると、その光景に我が目を疑った。
 92年にはここから一歩足を踏み出せば、氷河上をスキーで快適にフンフンフン、だったというが、その図式はもろくも崩れ去る。クラウディオ氏に言わせると氷河の様相は5年前に比べて一変し、氷床は足下100bにまでレベルダウンしてしまっている。しかも、氷河末端部分と変わらないズタズタのセラック状を成し、とてもスキーなどを使える様子ではない。それどころか、大きく口を開けるクレバスが迷路のように入り組み、氷塔が行く手を阻んでいる。もちろん氷河上に雪などはなく、青光りする乱雑な氷が、その先どこまでも続いていた。
 ルーベン、クラウディオの二人は半ば、C2へ到達するのも不可能に近いとまで言い出し始める。しかし、これでおめおめと帰れるはずもない。ここであきらめてしまったら何をしに来たのかもわからない。以前来たときと状況が違うからといって、ダメだとあきらめるのはいささか時期尚早のような気がする。
 隊長とクラウディオが左のガリーを下降し、偵察へと出かける。氷河に取り付く様子を展望台状になった降り口から見つめていると、そのスケール感はさらによくわかる。豆粒ほどになった二人はザイルを出して、氷河を登り始める。出だしは氷壁状になっていて、ダブルアックスで氷河上へと出た。上からトランシーバーで迷路のようなルートを俯瞰しながら指示し、彼らは氷河をさらに進んでいった。
 朝から降っていた雨は皮肉にも上がり、その間私たちはここで彼らの帰りを待つことにした。ルーベンの話によると、ここ数年間、とくに昨年の冬は異常な暖冬で雨が多く、さらに春から夏にかけても降雨量が衰えなかったと言う。地球温暖化の影響はここまで及んでいるのかと、その凄まじさをまじまじと見せつけられた。
 2時間ほどして彼らが戻ってきた。状況を聞くと、なんとか行けるかも知れない、ということだった。ここまでの天気のように私たちの心にも一瞬だけだが青空が広がったような気がした。


<サンバレンティンの姿、はるか遠く>
 1月3日、朝目が覚めると、またもや雨がテントをたたく音が聞こえる。その瞬間、また頂上が遠のいていく虚無感に襲われ、早起きのはずが再びシュラフに潜り込む。相変わらず雨音はなりやまず8時を過ぎてもなお降り続く。気圧計を見ると若干だが気圧も上がり始めている。いつでも出られる準備をして朝食を済ます。
 12時になると雨は上がった。C2にたどり着けなくても行けるところまで行かないと日程的にも苦しくなってくる。担げるだけの荷を担いで出発した私たちは、1時間20分で下降点に到達。しかし、また雨が降り始め、どしゃぶりのなか、氷河へ降り立ち、2kmほど前進するが、C2ははるか彼方だ。途中に荷物をデポし、雨のなか惨めにC1へと引き返す。
 明日は晴れそうな気配がする。しかし、この天気の悪さはどうしたものだろうか。シュラフから何から何まですべてグショグショになっている。
 明日デポを回収し、C2を建設できれば登頂のチャンスは充分にある。あと10日頑張れば、頂上に到達してここに帰ってくることができるのだ。
 1月4日早朝、ガイドの二人がこのまま登頂をめざすのであれば、日程の延長を検討しなければならないと提案してきた。その上、ルートを知っているクラウディオは、帰らなくてはならないというので彼をメールランナーにして、予定の変更を日本に伝えようという。1週間延長して、登山を続行するのは構わない。しかし、問題は食糧である。ここで登頂をあきらめて帰るというのでは、一生後悔するに違いない。しっぽを巻いて逃げ帰るのが情けない。とにかく最後まで必死の抵抗をして、食い下がって食い下がって頂上をめざさなければ人生の中でまたひとつ汚点を残すことになってしまう。そんな思いは私だけでなく、隊長以下全員が思っていたことである。
 意を決し全員C1を撤収してC2入りを狙って出発する。雨だろうと雪だろうと私たちはひたすら前に進まなくては、この暗雲を払いのけることはできないのだ。
 複雑に交錯した氷河は延々とC2まで続く。10キロほどの距離だが、クレバスを右往左往しながら回避し、重荷にあえぎ、相当時間をかけてC2予定地に到達する。登山を開始して、8日目であった。
 この夜はものすごい嵐がC2入りした私たちを歓迎した。ほんの一瞬だがパタゴニアの烈悪さを垣間見た思いがした。シュラフは濡れ、衣服はどれも湿っぽい。乾く日のない不快きわまりない状況が続いている。夜遅く、枕元を流れる雨水が小川となってチョロチョロと聞こえてくる。目を閉じると、いつしかこの流れが濁流となって、テントごと流しはしないかと気が気でなかなか寝つけない。雨音や風の音は夜が更けるにつれ、一段と恐ろしく聞こえてくる。今までずいぶんとこんな音を聞かされてきた。そのうち慣れるさ、と思っていたが、この夜は特別であった。自然の猛威の前に、我が身の存在感のはかなさを思い知らされた。
 しかし、まんじりともしていないようだが、夢なんかも見るぐらい寝たようだ。今日は、デポ地からすべての荷物をC2に集積する予定だが、朝から雨は吹雪に変わり、辺りは白一色の世界に包まれてしまった。テントの外から一歩も出られずに手痛い停滞となってしまう。
 1月6日、本日も依然として嵐は収まらず、デポを回収しに行きたくも行動ができない。残念ながら、この時点で登頂はあきらめざるを得ない。すぐさま撤収を考えなければ脱出も困難な状況になってしまう。
 しかし、自分が登る山さえ確認できずに登山を終了することになろうとは想いもよらなかった。登頂に至らなかった原因はひとつに氷河の状態の悪さが挙げられる。C2までスキーが使えないばかりか、フラットであるはずのルートがズタズタになっており、予想外の時間がかかってしまったことである。またひとつには天候の悪さだろう。とにかくこう毎日毎日雨に降られていては行動する意欲さえ、しだいに薄れていってしまう。濡れはシュラフを通し、衣服に侵入し、そしてじわじわと体にしみ込み、ボディブローのようにひたひたと利いてくるのである。
 刻一刻と変わる自然条件を考慮し、最善の準備と時間を持ってのぞめば、登れない山ではない。決して強がりを言っているのではなく、今回はその準備と時間の読み、そして自然条件に対する認識の甘さが不足していただけだ。パーティとしての力は充分にあり、最後までモチベーションを失わせることなく、行動をまとめてきた隊長、そして二人のガイドには敬意を表したい。
 その後私たちは、この目でひと目山の姿だけでも見ようと、ちょっとした晴れ間をついて、できるだけ高いところまで登っていった。もちろん環境調査のための空気のサンプリングも行なわなければならない。しかし、無情にも白く広がる氷河の先には、まるで山のような雲がサンバレンティンを覆い隠していた。
 またいつの日かパタゴニアに戻ってくることがあるだろう。いや、絶対にもう一度登りに来よう。そう思いながらカラファテの実を下山の道すがらできるだけ多く口にほおばった。

*その後、下山する途中にガイドのルーベン氏がクレバスに転落し、足首を骨折した。そのため荷下げ、下山ともに時間がかかってしまった。また、BCで迎えのランチボートを待っていたが、悪天候のため船が出せずに私たちはBCに取り残されてしまった。しかし、船長からの連絡で翌日、セスナが迎えに来てくれて全員コジャイケに無事帰還したことを付記しておく。


<記録概要>
隊の構成:篠崎純一、金田博秋、久保田敏康、滝沢守生、
Luwenn Ramilla Gonzarez、Craudio Garbez
活動期間:1996年12月22日〜1月18日
行動概要 12月22日:成田→サンチャゴ
25日:→コジャイケ
26日:→プエルト・チャカブコ
28日:BC建設
31日:C1入り
1月 4日:C2入り
5日:登頂断念
10日:BC帰着
14日:航空機にてコジャイケ
16日:→サンチャゴ
18日:→成田


<現地案内>
アクセス:日本からアメリカ国内で乗り換え、サンチャゴへ。サンチャゴから国内線飛行機、もしくはバスと船でコジャイケに至る。
     コジャイケからはナビマグもしくはトランスマルチャリーという船会社がサンラファエル氷河へのツアーを出している。
     この船会社に渡りを付けて氷河舌端脇に上陸させて貰う事になる。
ビザ:入国目的が観光であるならば90日以内の滞在は不要。
言語:公用語はスペイン語。
気候:北部パタゴニアは11月下旬から本格的な夏を迎える。登山適期はそれ以降   から2月下旬まで。西海岸線側は年間を通して、雨が多く、西からの季節   風が強い。
通貨:チリペソ。
現地連絡先:Mountain Service Ivan Vigouroux
Cassilla 233,Correo35,Santiago,CHILL
TEL:56-2-2429723,2343439 FAX:56-2-2343438
(サンチャゴの登山旅行代理店)
Hosteria El Reloj Angel Lara Macias
Baquedano 444 Coihaique CHILL
TEL&FAX:56-67-231108
(コジャイケの民宿経営者。様々な手続きを取りはからってくれる)登山手続き:サンラファエル氷河から北部氷床で登山を行うには、CONAFと      いう国立公園管理局、現地警察、船会社に連絡しておく必要がある。 これらの手続きは上記マウンテンサービスに代行して貰うのが賢い。
だろう。
      我々は、一括して日本の大阪アトラストレックの市橋隆二氏に連絡      して貰った。
      アトラストレックの住所は
      (東京)新宿区三栄町23番地
      (大阪)大阪市北区堂島2ー3ー33ー4F





Ojos del Salado(6960m)
チリ 南部アンデス オホスデルサラード
    <1回目登山>      篠崎 純一

<コピアポ到着>
 96年12月27日、やっと砂漠のオアシス、コピアポに着いた。アタカマ砂漠から掘り出される豊富な鉱物資源の集積所として栄えている人口7万人弱の美しい町だ。
 12月18日にコロンビアの首都ボコダを出て以来、ひたすら移動を続けてここまで来たのだ。そのうち半分以上の5泊が夜行バスの中だった。
 重たい荷物を背負い、乗り換えと国境越えを繰り返しての移動は、旅行とは言えない。苦痛そのものであった。
 ホテルにチェックインしてベットで一休み、午後になってからオホスデルサラード登山の情報集めを開始した。
 オホスデルサラードは南米第2の高峰かつチリ最高峰であり、アタカマ砂漠最高峰としても有名な山なのだが、不思議なことに日本からの登山者はほとんどいない。従って、環太平洋の山の中で、情報集めに最も苦労した山の一つであった。
 町の中心部にある国営観光案内所を尋ねる。予想以上にオホスデルサラード山麓までのアプローチは大変そうだ。
 そこで紹介された旅行代理店に向かった。1日250$という破格のレンタル料を払って、4輪駆動車サムライを運転手付きでレンタルする。


<山にも近づけず>
12月29日早朝、大量の水とガソリンを積んでコピアポの町を出た。町を一歩出ると辺りは荒れ果てた砂漠ばかりである。
 豊富なミネラルを含んでいるからであろうか、砂漠の色は金色だったり、青色だったりしてグロテスクに光っている。
 道はサンフランシスコ峠を経てアルゼンチンまで続いている国際ダート道路である。
 巨大な塩湖を通り過ぎると、高度計は標高4000m付近を指した。すごく眠くなってくる。運転手もだるさと眠気相手に戦っている様だ。
 途中、運転手が大きく道を間違えた。なかなか山奥に入れないでいる。どうやら道のコンディションが良くないらしい。
 彼は急遽引き返すとマリクンガ塩湖脇にある税関に道路情報を聞きに行った。役人の話だと昨日上部で時ならぬ大雪が降ったらしい。その雪が溶け、砂漠の道を流してしまっていると言う。そういえば国際道路だというのに、行き交う車は一台もない。
 運転手も何とか通れる道を探してがんばっていたが、トレスクルーセス山の麓で砂漠がどろどろになっており、ついに車がストップした。
 ここで無理して車が走れなくなったら、砂漠の真ん中に取り残されて、生命の危険もある。我々は引き返す決心をした。
 何をした訳でも無いのに、妙に疲れて、コピアポに帰り着いた。ガソリンの臭いのみが記憶に残った。
  

 <2回目登山>        篠崎 純一
 
<バスの中で盗難に遭う>
 アコンカグア登山後の休養もそこそこに、オホスデルサラードの準備を開始した。
 前回登山時に分かったことであるが、本来なら国境線上にあるオホスデルサラードで外国人が登山する場合、特別許可をサンチャゴの国境庁から貰う必要がある。
 前回の失敗を教訓にして、今回は国境庁から正式許可を取得し、精密な地図も軍地図局より購入する事にした。
 そのため、僕はサンチャゴに4日間滞在した。最初のうち担当の役人は単独行という点に難渋を示していたが、アコンカグアを登頂してきたばかりだと話すと、許可を発行してくれた。
 97年2月5日、夜行バスでコピアポに向かう。サロンカマという特級バスを利用した為、快適でぐっすりと眠れた。
 ところが翌朝起きてみると、ポケットに入れて置いた筈のサイフが見つからない。
 バスの車掌やドライバーまで巻き込んでバスの中を探し回るが出てこない。どうやら、寝ている間に盗難に遭ったらしい。
 被害は200$強相当のペソ紙幣とクレジットカード1枚だ。
 今までに無い高額な被害でがっくりする。別に携帯していたドル紙幣とパスポートが無事だったのが不幸中の幸いだ。
 しかしこれでは、登山ができない。クレジットカードがなければレンタカーが借りれないのだ。
 僕はコピアポからまたサンチャゴまで急遽引き返さなければならなくなってしまった。
 片道12時間のバス旅にうんざりする。サンチャゴでホテルにデポして置いた予備のクレジットカードを取り出し、ペソ紙幣の再両替を済ませると、再度コピアポまでのバスに乗り込んだ。

<再びアタカマ砂漠へ>
今回は旅行代理店を通さず、直接レンタカー事務所を尋ねた。運転手付きの4輪駆動車ビタラを1日180$で借りる。
 前回の経験を生かして、飲料水30リットルと予備のガソリンを30リットル用意した。水の全く無いアタカマ砂漠での行動には、これでも少ない位だ。
 97年2月9日、背が高くてたくましそうな運転手と共にアタカマ砂漠奥地に向けて車を走らせた。
 ビタラは猛烈な砂煙を上げて、ぐんぐん高度を上げていく。昨年見覚えがあるマリクンガ塩湖脇にテントを張った。高度計は3750mを指した。
 湖面はきらきらと夕日を反射して輝いていた。ピンクフラミンゴがその美しい羽を休ませている。付近には痩せたカモシカの様なビクーニャが走り回っていた。
 残念ながら湖水はしょっぱくて飲用には全く適さない。それどころか湖の周りには塩が浮き出て、湖の面積よりはるかに大きい塩田を形作っていた。塩田はかちかちにひからび、自由にその上を歩き回る事ができる。
 高度の影響で少し息苦しい。砂漠の真ん中にぽつんと浮き出た塩湖脇のキャンプは、どこか異次元の世界に迷い込んだみたいで、忘れられない不思議な経験だった。
 翌日、車で更に高度を上げる。昨年引き返した地点も、いつの間にか通過した。
 いよいよ6000m級の山が見えだした。ここはアタカマ高地砂漠の中心部だ。まるで月面を走っているかの様な錯覚にとらわれる。
 本日の目的地標高4200mのラグナベルデに着いた。ラグナベルデとはスペイン語で緑の湖という意味だ。確かに荒涼とした砂漠の真ん中であるにもかかわらず、奇跡の如く大きな湖が満々と水をたたえている。ミネラルをたくさん含んでいるせいか、どこか金属的な青い色をしていた。
 もちろんとても飲める代物ではないが、過去始めてチリを征服に来たスペイン人達は、この水で命を救われたという。
 周囲の砂漠もどこか妙にギラギラとした色をしている。湖畔とはいえ、何となく落ち着かない。
 テント脇の塩の穴からは温泉が湧いていた。近くに小さな小屋が建っており、中で湯に浸かる事もできる。
 しかしここは標高4200mである。とてもじゃないが、ゆっくりと温泉気分を味わう気はしないのであった。
 

 <アタック体勢を作る>
翌日も更に車で移動する。途中国境警備の警察駐屯所があり、パスポートと登山許可証のチェックを受けた。サンチャゴで正式な許可を取得しておいて良かった。
しかしながらパスポートは下山の時まで警察預かりになってしまう。少し不安な気がしたが仕方が無い。運転手も免許証を警察官に預けていた。
 駐屯所を過ぎると、道は極端に悪くなった。運転手はすごい形相で必死にハンドルを操っている。私もいつ転倒するんじゃないかと気が気でない。
 それでも何とか午前中にアタカマ大学小屋に着いた。高度計は5100mを指している。よくぞここまで車が上がってきたものだと感心した。
 正面に大きくオホスデルサラードが見える。さすがに南米第2の高峰だけあって、周囲の山より頭一つ頂上が抜きんでている。 
 頂上付近には古いカルデラ状の岩盤が隆起しており、どこかでその岩盤を登らないと絶頂には立てないようだ。高所での単独登攀を強いられるのではないかと不安になった。
 小屋の付近には自分たちの他に、チリ人パーティーが数組入山していた。
 彼らはここをベースキャンプとして、高所順応を図っているようだ。
 私はアコンカグアで高所順応ができている。順応行動を省いて、一気に明日から頂上に向かう事にした。
 以後の行動に備えて、周到な準備に時間をさく。
 翌朝、3日分の食料、7リットルの水、及びテントを含めた一切の露営具を持ち歩き出す。ここまでつきあってくれた運転手は今日から一人でお留守番だ。
 ザックはずっしりと肩に食い込んだ。自分で水を持ち上げなければならないのが砂漠の登山の辛い所だ。
 それでも4時間弱で標高5650mのテホス小屋に着いた。
 高度の割に実に立派な小屋だ。自分一人しか宿泊者はいないのだが小屋には泊まらず、その脇にテントを張った。
 今一つ調子の出ないガソリンコンロに火を付けた。どうやら体の順応はできている様だ。明日一気に頂上アタックする決心をした。
 

<オホスデルサラード登頂>
 緊張と高度の影響によりほとんど寝れない。どうせ横になっているだけなら行動していた方がましだ。午前0時20分寝袋を出る。
たっぷりと暖かい紅茶をペットボトルに詰めた。
 他に誰も登山者はいない。月明かりも無い。真っ暗闇の中テントを出た。
 昨日ルートは見定めておいたつもりだったが、実際に登り出すと今自分がどこにいるのかさっぱり分からない。
 いきなり道に迷い、どちらの方向に進めば良いか分からなくなってしまった。
 思い切って谷に降りて、正しい方向の見当をつける。しばらく行くと砂利の上にかすかな踏み後を見つけた。それからは何も見えない事をいい事に、文字通りわき目も振らず砂の斜面を登り続ける。
 標高は6000mを軽く越えてきた。それでも時間250mという好調なペースで高度を稼げる。
 途中大きな雪渓に出た。傾斜は強い。しかもところどころ凍っている。暗闇の中、不安定な姿勢のままでアイゼンを付け、慎重に雪渓を横断した。
 オホスデルサラードの頂上部には大きな火口がある。
 チリ側からの登頂には、いったん火口の崩れた部分から火口内部に入り込み、それを横断、更に内側から頂上直下の火口壁を登りきらなければならない。
 オホスデルサラードの強風は悪名高い。過去に多くの登山者が頂上直下で風に遮られ火口壁を登れず引き返していた。
 日の出とほぼ同時に火口部に着いた。目の前に崩れた火口壁が見えだす。
 すごく寒い。どうやら早く登り過ぎた様だ。しかし早朝の一時、風はほとんど止んでいる。絶好の登頂チャンスと言えた。
 火口内部の横断に入る。思ったより長い。火口壁に近づくにつれその全容が明らかになった。頂上の左肩から大きな切れ込みが火口壁に走っている。
 正しいルートはそこしか無い。落石に注意しながら切れ込みに入り込む。
 古いフィックスロープが見えた。そのロープを辿れば登頂は間違いない。
 2〜3級の岩場から急な岩稜を抜けると頂上は目と鼻の先だった。
 時刻は午前7時40分。テントを出てから6時間で標高差1300mを登りきった事になる。これもアコンカグアで充分な高所順応ができていたおかげだ。
 南極の頂上よりも寒いのだろうか、せっかく持ち上げたビデオは寒さで動かなくなっていた。
 サンプリングもそこそこに下山に移る。慎重に火口壁をクライムダウンし、砂の斜面を滑る様に降りて行った。
 また雪渓の横断部分に出た。今度は明るいので油断したのだろう。アイゼンをつけずに横断を始めたら、凍った雪に足を取られ滑落した。近くの岩にしがみついて事無きを得たが、きわどい所だった。
 今から思えば高度の影響で、アイゼンを着けるのが面倒くさくなっていたのに違いない。
 単独登山という物は時に小さなミスが命取りになる事がある。大いに反省し、絶好の場所に顔を出していた岩に、自分の好運を感謝した。
 テホス小屋に着いたのは午前10時30分だった。
 このまま一気にアタカマ大学小屋まで降りる事にする。
 どうやら頂上付近は風が出てきたようだ。わずかなチャンスをとらえての登頂だった。
 アタカマ大学小屋では、他の登山者に囲まれて祝福を受けた。たった一人でやってきた東洋人がとっとこ登頂して、彼らもびっくりしている様だ。
 運転手は散らかったテントの中で退屈そうに待っていた。高度の影響が出ているらしくいささか苦しそうだ。
 余った食料を全て他の登山者にプレゼントし、今日中に車でコピアポに戻る事にした。
 コピアポに帰り着く時刻は大分遅くなるだろう。しかし今は一刻も早くホテルのシャワーを浴び、口の中をゆすぎたいという気持ちで一杯なのだ。
 
┌─────────────────────────────────────────────────────────────────────────────┐
│<コラム>:南米の治安 │
│ このオホスデルサラードの記録の中に、バスで盗難にであった事を書いた。 │
│ この他に、僕はチリで強盗とスリに遭っている。エクアドルでは帽子をひったくら │
│れた。総被害は金額にして30000円という所だろうか。 │
│ 常識の範囲で南米大陸の旅行をしている限りにおいては、あまり治安の悪さを感じ │
│ることは無い。 │
│ とはいえ、僕の様に油断をしてはならない。 │
│ 大荷物を持っているのにもかかわらず、ほとんど無防備に旅行していた自分が悪い │
│と言われれば全くその通りだ。 │
│ 僕のような無知な人間が、致命的な被害に遭わず南米のあちこちを回ることができ │
│たのは幸運だったのだと思う。 │
└─────────────────────────────────────────────────────────────────────────────┘

<記録概要>
(隊の構成)  (1回目)篠崎純一
      (2回目)篠崎純一
(活動期間)(1回目)1995年12月27日〜12月29日
(2回目)1997年2月6日〜2月13日
(行動概要)(1回目)12月27日:→コピアポ
              29日:アタカマ砂漠途中で引き返す
(2回目) 2月 6日:サンチャゴ→ コピアポ、バス内で盗難に遭う
              10日:→ラグナベルデ
              11日:→アタカマ大学小屋ベースキャンプ
              12日:→テホス小屋
              13日:→オホスデルサラード登頂、当日中にコピアポへ
 
<現地案内>
(アクセス)コピアポまではサンチャゴから毎日数便のバスが出ている。
 オホスデルサラードのベースキャンプまでは、コピアポで4WD車をレンタルする。
 レンタカー業者は数社あるが、ハーツが最も車の在庫が豊富な様だ。レンタカー代は高いが、数人で入山すればシェアできる。
 アタカマ大学小屋のベースキャンプまで未舗装の車道がある。ただし、高所なのでいきなりベースキャンプまでは入れないと考えるべきだ。
非常時に備え、充分なガソリンと飲用水は用意したい。
(ビザ)90日以内なら不要
(言語)スペイン語、コピアポでは英語は全く通じないと考えといた方が無難。
(気候)一年中可と思う。冬の方がより寒いが、雪から水を取れるかもしれない。
(通貨及び物価)チリペソ、物価は日本よりは安い。
(現地連絡先)Hertz Rentacar en Copiapo:COPAYAPU 173 TEL:52-213522
       SERNATUR:LOS CARRERA 691 COPIAPO TEL&FAX:52-217248
      (コピアポの国営観光案内所、オホスデルサラードの資料が置いてある)
Direccion de Fronteras y Limites: Bandera 52 4th Floor
      (オホスデルサラードへの入域許可を得る所、サンチャゴの中心部にある)
(登山手続き)上記サンチャゴの国境庁で登山許可を取得しといた方が良い。
       ただしコピアポのSERNATURでも簡単な証明書は発行してもらえる。
       レンタカーを借りるのにクレジットカードは必須。





南太平洋とニュージーランド
イースター島、タヒチ島、
ニュージーランド、グリーン(2850m)
エイベル(2662m)アイルマ-(2608m)
ホッホステッタードーム(2823m)
                        篠崎 純一

<絶海のイースター島>
 サンチャゴのいつものコインランドリーで洗濯を済ませてから、飛行場に向かってタクシーを飛ばす。
 幾つもの思い出を与えてくれた南米ともついに別れの時が来た。もう2度と南米に来ることは無いかもしれないと思うと寂しい気がする。
サンチャゴ飛行場で、早くもイースター島の宿の客引きにパンフレットを渡される。
 4時間のフライトの後、モアイの石像であまりにも有名なイースター島に着いた。
 予想していたとおり民宿の客引きがすごい。公営の観光案内所も有名無実となっていて、役人さんも一緒に客引きをしていた。さすが世界的な観光地と妙に感心する。
 イースター島の直径は約15km。島内に舗装道路は無いが、それでも車で数時間あれば一周してしまう。周囲は何100キロに渡って海ばかりで、まさしく南太平洋に浮かぶ絶海の孤島だ。
 その孤島に立ち並ぶ巨大なモアイ像の群は、やはり天下一不思議な島と思わせるのに充分な説得力を持っている。
 翌日、早速チャータージープで島内観光に出る。イースター島の主な観光スポットを巡りつつ、その最高点に登ってしまおうという、わがままな企画だ。
 イースター島の最高点はラノアロイと呼ばれ標高は506mである。頂上になにかの遺跡でもあればおもしろいのだが、残念ながら何もないただの丘である。
ジープでほとんど丘のてっぺんまで登った。ほんの少しの散歩でイースター島最高点に着く。垂れ込めた低い雲のため視界は良くない。期待していた360度の大海原の景色は得られず少し残念だ。
 当然雪などあるわけもない。一応空気を採取して、サンプリングを済ませた事にする。
 モアイの石切場を見学したりと、しっかりと観光も楽しむ。
 夕食は宿の主人が海に潜って取ってきてくれたばかりの生ウニを食べる。その他日本人の喜びそうな刺身料理の大盛りをを久方ぶりのわさび醤油でたっぷりと味わった。
 すっかりイースター島の海の幸に満足し、楽しい時を過ごす事ができた。もっと島での滞在を長くすれば良かったと後悔しながら、タヒチ行きの飛行機に乗り込む。


<タヒチのジャングル>
 タヒチに着いて、早速、南太平洋フランに両替する。大型の札に、ここはフランス領である事を実感させられた。
 チケットのリコンファームを飛行場のインフォメーションで済ませていたら、有り難い情報を受付嬢が教えてくれた。私の持ってるチケットは、タヒチ島でトランジットに当たるらしく、タヒチ滞在中の宿泊と食事が無料で飛行機会社からサービスされると言うのだ。
 しかもタヒチで最高級のインターコンチネンタルホテルと言う。なんだかとっても得した気分になり、うきうきとシャトルバスに乗り込む。
 翌朝早く、ホテルの部屋を出た。地図を片手にのこのこと、タヒチ最高峰オロヘナを目指す。
海岸線に作られた舗装道路を30分ほど歩き、内陸部に延びている林道に入り込んだ。
 地図によると、標高2241mのオロヘナ頂上に至る道はこの林道しかない。
 辺りには、のどかな田舎の景色が広がり、幾分でもゴーギャンの頃のタヒチに近い雰囲気を味わえたと思う。
 しかし民家の周りには犬が放し飼いになっていて、いつ噛みつかれるのではないかと気が気で無い。拾った棒を振り回しながら足早に林道を通り過ぎ、山道に入る。
 とたんに道はジャングルの中に消えていった。
 急流が道を遮る。先には急峻な尾根にうっそうとした熱帯雨林が繁茂していた。
 こいつはいかん。これでは今日中に登頂できそうにない。帰り道も見失いそうだ。
 と言うわけであっさり登山はあきらめて、引き返す事にした。
 行く先には幾つもの緑の尖峰とナイフエッジが見える。正直言って、タヒチの自然の濃さにびっくりした。
 タヒチ最大の町パペーテの観光案内所で改めて情報を集めると、どうやらこの島の登山は予想を遙かに超えて困難な様だ。
 ガイドを付けて何日間もジャングルの悪路を切り開かないと登頂できないらしい。
 観光案内所の人から、「登山なんてお馬鹿な事はせず、タヒチに来た以上海で遊びなさい」と大変ごもっともな事を言われてしまった。
 高級ホテルの部屋に戻り、白い珊瑚礁の砂浜を見ながらシャワーを浴びる。
 夜には、オークランド行きの飛行機に乗り込まなければならないのが残念だ。


<中井先生との再会>
 日付変更線を越えニュージーランドに着いた。
 何を怪しまれたのか、税関で靴の中からテント、寝袋の中までチェックを受ける。大量の環境サンプルが没収されるのではないかと気になって仕方がない。
 後から分かった事だが、他の大陸から隔絶されているニュージーランドでは、有害な植物や昆虫の輸入を防ぐため、このような厳しいチェックが常に行われているらしい。
 幸い、テントの中からアタカマ砂漠の変な昆虫が出てくる事も無かったらしく、無罪放免された。
 名古屋の半分の人口であるにもかかわらず、名古屋空港の数倍はあるであろう大きくてきれいなオークランド空港を移動し国内線ロビーに向かう。
 マウントクックビレッジへのチケットを探す。チケットはユースホステル会員料金で安く購入する事ができた。
 日本では考えられないスムーズさで、乗り換えを済ませ、昼前にはマウントクックビレッジに到着していた。
 マウントクックビレッジは観光の為に作られた小さな村である。2件のホテルと1件のユースホステル、バンガロー、小さなドラッグストアーに登山用品店、及び妙に健康的な酒場。これが村の全容である。
 涼しくて乾燥した空気は嬉しいのだが、アウトドアスポーツ以外遊ぶ物が無いのがちと残念だ。
登山用品店の2階にあるガイド会社に顔を出し、そこが所有しているバンガローを間借りする事にした。
 2日後に日本からはるばる飛んできた中井先生と合流した。中井先生は今回環境調査専門として、ニュージーランド山行に客分参加と言った形だ。
 中井先生の到着を機に、バンガローを出てホテルに移った。
 今回自分のパートナーとなるマウントクックガイド会社チーフガイドのゲイリーも交えて、今後の打ち合わせを行う。


<マウントクック断念>
 翌日は大雨になった。予定では、本日マウントクック氷河に向かってセスナでフライトする筈であったが、当然の如く延期となる。
 私は、宿泊費を浮かす為に再び、ガイド会社のバンガローに移動した。
土砂降りの雨は一日中降り続く。夜になって、ゲイリーが妙に暗い顔で部屋に入ってきた。
 彼の話では、先ほどマウントクック氷河に入山していた同僚ガイドから無線連絡が入り、大きなクレバスが開いたためマウントクック登山が出来なくなったということである。
 もうこれで今年度のクック登頂可能時期は終わったとまで言う。ニュージーランドを代表するエキスパートガイドの言うことだ。信用するしかない。
 まだ2月の末だというのに見込みが外れ、がっかりした。
 というわけで、急遽代わりの山を探す事になった。
 ゲイリー推薦のタスマン氷河源頭部の山々に向かう事にする。
 何だか幾分お茶を濁されたような登山対象だったが、充分ニュージーランドの山々を楽しむ事は出来そうだ。
 天気予報を聞き、翌日からの晴天を期待して眠る。

 
<アイルマー登頂>
 翌朝、雨は止んでいた。ゲイリーから本日出発の連絡が入る。飛行場ではヘリコプターが待っていた。ヘリに乗るのは生まれて初めてなので、いささか興奮して座席に着く。
 爆音と共にふわっと浮き上がったヘリは、たちまちニュージーランド最大のタスマン氷河に滑り込みぐんぐん高度を上げていった。
 左手にマウントクックとマウントタスマンを見る。美しくて良い山だ。今回挑戦できないのが悔やまれる。
 美しくも険しい山々に囲まれた氷河源頭部で、ヘリは大きく旋回すると、ゆっくりタスマンサドルハット脇の氷原に着陸した。
 ヘリの吹き上げる雪煙はものすごい。その中で中井先生は慣れた手つきで、素早く雪と空気のサンプリングを行った。 私は、その姿を慌てて写真とビデオに収める。
 中井先生はこのまま同じヘリコプターに乗って、マウントクックビレッジに戻る。
 ヘリは私とゲイリーを残して、あっと言う間に飛び立ってしまった。
 ザイルを付けて、ハットまでのこのこと歩く。全くアプローチの無いニュージーランド流登山に得した気分だ。
 タスマンサドルハットはニュージーランドで最も歴史ある山小屋の一つだ。
 氷河上の大変見晴らしの良い岩峰に建てられている。清潔なトイレに良く整理された台所が印象的だ。ハットには他にドイツ人パーティーとポーランド人パーティーがいた。
 ポーランド人は私と同様現地ガイド連れである。
 ゆっくりとコーヒーを飲み、午後からまずは足慣らしにマウントアイルマーを目指すことにした。
 氷河の上を1時間ほど歩いて登頂。まずはお互いの息を合わせてコンテニュアスクライイミングの練習と言った所だ。
 ゲイリーからキウイーメソッドというニュージーランド流のザイルの使い方を教えて貰い、早速採用する。


<タスマン氷河源頭部の縦走>
 翌日は、ホッホステッタードームからマウントエイベルに縦走する。
 ドーム北峰に登るのに一部氷河が切れた部分があり、緊張するアイスクライミングの場面に出た。終始トップを行くゲイリーは確保もなく安定した姿勢で70度程の氷壁を登って行く。
 私にとって、こういう本格的なガイドと一緒に登山するのは始めての経験だ。
 ガイド登山というと、何だかずるいことをしている様で、幾分うしろめたい気もする。
 しかし、なにからなにまで任せられる登山は気楽でその分純粋に登山を楽しめるという面もある。勉強になる事も多く、短期間で大きな成果を上げるには好ましい方法ではなかろうか?
 ホッホステッタードーム南峰頂上から稜線づたいに主峰に登頂する。ゲイリーによるとこの山は日本人にとても有名なのだそうだ。毎年ツアー登山隊が来ると言う。
 確かに景色も良くて簡単に登れるから人気が出そうな山だ。
 続いて氷河を大きく横断、マウントエイベルの巨大な赤い壁の下に着いた。
 マウントエイベルに登るだけなら、更に奥の乗っ越しから稜線づたいに登頂できる。しかしどうやら壁を直登するルートを楽しませてくれるようだ。
 さしづめ、ゴールデンウィークの剣岳に長次郎雪渓を詰め、稜線どおしでなく北壁経由で登頂する様な物だ。
 天候も良く硬い岩での快適な岩登りとなった。3,4級程度のルートを7ピッチで頂上に着いた。
 ゲイリーもマウントクックに行けなくなった分、サービスしている位の気持ちなのではなかろうか?
 一応マウントエイベルレッドフェースルートという名前が付いているルートらしい。
 すっかり楽しんで、のんびりとタスマンサドルハットに戻った。
 氷河にはクレバスが目立つ。大きく開いたクレバス帯を見定めてから、明日登る山はマウントグリーンに決めた。


<マウントグリーン登頂>
 天気予報では本日が晴天の最終日だ。ひとつニュージーランドの思い出に残る様なクライミングがしたい。マウントグリーンはその思いに応える立派な山だった。
 まだ暗い4時に起床。5時にハットを出た。
 広大な氷河を横断してクレバス帯を越えると、40度程の傾斜が続く雪壁になった。
 連続15ピッチ程のアイスクライミングだった。雪崩の心配も無く、ゲイリーが全てトップをしてくれるので気楽な物だ。
 それにしても彼のクライミングは早い。そのスピードに世界レベルのアルパインガイドの実力を見た気がした。
頂上に着いた頃から風が吹き出す。
 素晴らしい景観を楽しむのもそこそこに下山となった。
 風は徐々に強くなってくる。ゲイリーのザイル回しに任せて気楽に下降したが、彼は少し焦っていたかもしれない。
 平らな氷河上に降り立った時にはさすがにほっとした。
 タスマンサドルハットに昼過ぎには帰り着いていた。
 明日から天候は悪化する見込みだった。セスナの都合が付きそうなので本日中にマウントクックビレッジに降りる事にする。
 全くアプローチや下山に苦労する事無く登山が楽しめるのだから、何だか申し訳ない気がする。しかしこれがニュージーランド流という物なのであろう。ここは有り難く贅沢させて貰う事にした。
シーバー交信からしばらくしてセスナが飛んできた。アクロバチックな旋回を繰り返し、氷河上のわずかな平らなスペースにセスナはぴたりと飛び降りた。
 思わず飛行機に駆け寄る。操縦席から金髪の若い女性パイロットが降りてきた。
 さすがニュージーランド。完全に一本取られてしまった。


<ついに懐かしの日本へ>
マウントクックビレッジに帰り着く。ここまで来ると久しぶりの日本がちらちらして、ニュージーランド観光を楽しむ気は全くおきない。
 ビレッジの宿でシャワーを浴びながら、少しでも早く日本に帰るのにどうすれば良いか考えていた。
 まだしばらくニュージーランドに残る中井先生との別れの挨拶もそこそこに、帰りの予約便を変更、オークランド行き飛行機に飛び乗った。
 飛行機を乗り継ぎ3月3日夜、私は日本に帰ってきた。
 日本を出てから約4ヶ月間、自分で言うのも何だがこの間最高に熱い時間を過ごせたと思う。
 南極、パタゴニア、アコンカグア、アタカマ砂漠、全てが夢の様だ。
 髭面で大荷物のまま、地下鉄駅に向かう。奇異の目で見られる事も気にせず、高畑から市バスに乗り込んだ。
 もうすぐ自宅に帰り着く。2年近くに及んだ環太平洋計画もその大きな山場を越えた。
 自分は生きて帰ってきた。自分は勝ったのだ。
 バスに揺られながら、静かな感動に包まれていくのを感じた。
 

<記録概要>
(隊の構成)  篠崎純一、中井信之
(活動期間)1997年2月18日〜3月1日
(行動概要)2月19日:イースター島ラノアロイ観光兼登山
       21日:タヒチ島オロヘナ試登
        25日:マウントクックビレッジにて中井と篠崎合流
        27日:タスマン氷河入山、アイルマー登頂
  28日:ホッホステッタードーム、エイベル登頂
      3月 1日:マウントグリーン登頂、マウントクックビレッジへ
3日:篠崎帰国
        13日:中井帰国
 
<現地案内>
(アクセス)サンチャゴ、イースター島、タヒチ島、オークランドを結ぶ国際線がランチリ航空とニュージーランド航空の提携路線となっている。
オークランドからマウントクックビレッジまではシーズン中毎日多数のバスと飛行機が発着している。ハイシーズンにはすぐに予約が一杯になるそうだ。
(ビザ)イースター島はチリ領、タヒチ島はフランス領である。ニュージーランドも含め全て観光目的ならビザは不要。
(言語)イースター島はスペイン語、タヒチ島はフランス語か英語。ニュージーランドは独特のなまりの英語が話されている。
(気候)イースター島、タヒチ島の登山に特に登山適期は無い。ニュージーランドのサザンアルプスにおいては、登山可能時期は11月中旬から3月中旬という事になっている。
(通貨と物価)イースター島ではチリペソ
       タヒチ島は南太平洋フラン、物価は日本並に高い
       ニュージーランドではニュージーランド$。物価は日本よりは安い。
(現地連絡先)マウントクックガイド会社
    Alpine Guides (Mount Cook) Ltd P.O. Box 20 Mount Cook New Zealand
Phone:64-3-435-1834 Fax:64-3-435-1898
Email::mtcook@alpineguides.co.nz
    97年度のマウントクックガイド代は7日間で2795NZ$であった。
(登山手続き)イースター島、タヒチ島の登山に手続きは不要。
      マウントクックでもガイド会社を通せば自分でする事は何もない。
      個人で登るのならば、マウントクックビレッジ内の国立公園事務所で登録しておく。尚、山小屋の予約も必要なので要注意。




韓国・済州島 ハンラ山
漢拏山(1977m)
                        村中 征也
<済州市(CHEJU)で>
 済州空港の滑走路は、海岸に沿って走っている。名古屋空港を夕方の17:30に出た大韓航空の直行便は、左側に街の灯を見、右側に漆黒の海面を見ながら着陸した。名古屋から丁度2時間、時差が無いので、19:32の到着である。
 荷物の受け取りを済ませて、ゲートを出ると、劉永鳳氏の出迎えを受けた、劉氏は済州島大学助教授で、38歳の農業経済学博士である。そして大韓山岳会の外交部長でもある。今回の漢拏山登山は、劉氏の骨折り無くしては成立しなかったと言っても良い程の恩人である。
 劉氏の自家用車で市街へ向かう。済州島は佐渡島の2倍の面積を持ち、人口55万人。道庁の済州市は島の北部にあり、人口25万人程である。市街地は新旧2つのブロックから出来ており、旧市街北端にある空港から20分で新市街の中心部へと入る。ホテル近くの焼肉店で、劉さんが歓迎の夕食会を開いてくれた。有り難くご馳走になる。
 本場の焼き肉はさすがに美味しい。それに何種類ものキムチと薄切りにしたニンニクを添えて食べる味は格別である。ビールと地酒を出してくれたが、禁酒中の自分にとっては残念至極。思わず手が伸びそうになってしまった。
 劉氏とは、2月20日の日本山岳会東海支部の常務委員会の席で一度お会いしているが、こちらを心底安心させてくれる方であった。日本語が堪能なので伺ったら、7年間留学生として、東京大学で学んだとの事である。
 韓国中央部の太田市の出身で、大学山岳部の時、冬の槍ヶ岳登山を東海支部評議員の石川富康がお世話している。それ以来石川とは20年に及ぶ交友があり、この日韓の友情の太いパイプがあったからこそ、今回の漢拏山登山が成立したのである。
 というのは、後述するが、漢拏山はこの10年来頂上部分への入山が禁止されており、劉氏が我々の登頂の申請許可に向けて奔走してくれたからである。
 山好きが集まれば、山の話しに花が咲くものである。日韓それぞれの登山の話しに、楽しい一時を過ごし、22:00「ホテルハワイ」に送って頂いた。このホテルも劉さんがお世話してくれたもので、居心地が良かったので、下山後も含めて3泊することになった。


<漢拏山国立公園管理事務所にて>
 ホテルの部屋は南に面している。やけに明るくなったと思ったら、8:00である。カーテンを開けると快晴であった。目の前に長く裾野を引いた漢拏山の雄姿が飛び込んで来る。雄大で素晴らしい山容である。まったくのどかな景色であるが、海外初登山となる自分にとっては、まさに心躍る至福の時である。
 朝食を済ませ、全ての装備を持ってロビーに降りる。11:15劉氏と同僚の姜東一氏がそれぞれの自家用車で迎えに来てくれた。これで、5人の登山隊が勢揃いである。隊長であり環太平洋環境調査登山の中心的役割を担ってきた篠崎純一、調査担当の小川幸恵、食料・記録担当の私の3人に、韓国側から、劉永鳳氏と姜東一氏が加わって、総勢5名となった。
 11:30ホテルを出発し、2台の車は広大な裾野を登山口目指して疾走する。助手席に乗っていて、左折するとき思わずハッとした。反対車線に飛び出すのではないかと思ったが、ここは韓国である。右側通行だということに改めて気付く次第である。
 12:00オリモツコース登山口の漢拏山国立公園管理事務所を訪問する。5つある登山コースのそれぞれに管理事務所があるが、ここが登山者も多く、メインの事務所である。
 2階の所長室で簡単な挨拶の後、1階事務室のソファで、保護課長の梁榮吉氏からお話を伺う。最も聞きたかった事は、なぜ頂上部が登山禁止になっているのか、という事であった。
 梁課長は、おだやかな紳士で、我々の質問に丁寧に答えて下さった。もちろん韓国語で。
 済州島は、海底火山であった漢拏山の母体が噴火して出来た島で、従って漢拏山が島の広大な部分を占め、”母なる山”と言われている。
 広大な裾野を持つ漢拏山は、植生も豊富で、四季折々の変化を楽しめる恵まれた山である。
 漢拏山の人気は、こうした自然現象もさることながら、韓国最高峰ということにある。
 朝鮮最北端の中国との国境には、白頭山2744mがあるが、韓国東北部にある有名な
雪岳山1708mよりも高く、ここが最高地点であり、その標高は1977mである。それ故に年間50万人が押しかける人気の山となっている訳である。
 山容は、下部が広葉樹林帯、中央部の高原が草原帯、頂上部分が岩石帯となっている。この岩石帯を中心に、1986年から7合目より上部が入山禁止となっているが、梁課長は、「山の崩壊を食い止める為である」と明快に答えて下さった。火山岩で出来た山だけに岩質が脆く、自然崩壊の他に、大勢の登山者による崩壊を防止するには、入山禁止しか方法が無かったとの事である。徹底した規制の他に、芝生の植え付けにも力を入れているが、禁止が解除されるのは、まだ何年も無理であろうとう事であった。
 インタビューの後、事務所職員の方に、調査のための爪の採取をお願いしたところ、心よく応じて下さり、お礼に爪切りを差し上げた。
 梁課長から、禁止の頂上部分への入山許可証をペナントを受け取り、事務所を後にする。


<7合目事務所まで>
 登山口には立派なゲートがあり、入山料を支払った事を示すキップを呈示して入る。登山道は幅広くしっかり作られており、広葉樹の中を行く。いったん大きな沢に下り、ここから少しづつ傾斜が増してくる。この頃から登山路にも雪が現れ、樹林の中は一面の雪となるが、登山路からはみ出さない様、ロープがずっと張られている。
 我々は、完全な冬山装備で日本を発ったが、雪の状態や7合目の事務所横小屋へ泊まれる事もあり、アイゼン、ザイル、テントを駐車場の車の中へ置いてきた。
 しかし、それでもシュラフ、炊事用具、食料等で相当な重量である。上から下山してくる何組かのパーティーとすれ違うが、いずれも軽装で、我々の重い荷にびっくりして振り返って行く。「アンニョンハセヨ」と挨拶すると、いろいろ話しかけてくるが、後が続かない。劉さん、姜さんに引き取ってもらって、ひたすら登ることとする。
 しばらく登ると樹林帯を抜け、火山岩の間に灌木が生える高原地帯に出る。徐々に雪の量も増えるが、傾斜も緩やかで歩行も楽になった。この頃から漢拏山の頂上部分が行く手に望まれる様になる。特徴あるドーム状で、手前の雪、高原の緑と青い空に岩の山容が映え、すばらしい光景が広がる。5人の歩みが自然に止まり、しばし見とれてしまった。
 

<7合目の小屋で>
 すばらしい光景に酔いつつ歩いていると、、7合目の赤い丸木作りの管理事務所が現れ、16:00に到着する。2人の若者がキビキビと働いていた。挨拶の後、登山目的を説明し、許可証を呈示するが、すでに連絡が来ているので、快く招き入れてくれた。
 劉さんの説明によると、こうした事務所で働いているのは、ほとんど大学山岳部出身者で、レンジャーとして3年間勤務すると軍隊と同じ特典が与えられ、兵役免除になるそうである。我々山好きには誠に嬉しい話であった。
 我々は、これからが仕事である。入域禁止のロープを潜って、氷、雪、空気のサンプル採取を行う。登山者は皆降りてしまったので、後に残されたのは我々5人だけである。
 気温が下がってきたので、上衣を羽織り、静かに暮れゆく漢拏山を眺め、ゆったりした気分に浸かった。
 17:30事務所横の小屋に入る。我々のため特別に許可してくれた小屋で、夕食の準備を行うが、十分スペースがあり有り難い。メニューはご飯にビーフシチュー。それに劉
さん姜さん心尽くしの済州豚のいためと牛肉の醤油漬けにキムチという日韓持ち寄りの豪華版である。
 気温は0度を下っているが、小屋の中は温かく、時の経つのも忘れて、夕食を楽しみ、食後の歓談にふけった。


<禁断の頂上に立つ>
 3月9日朝6:00起床。今日も素晴らしい晴天である。小屋横のズラリ並んだアルミ製のトイレボックスで用を足す。ソーラーで分解処理をするとのことで、紙は別に捨てるようにしてある。
 7:40いよいよ頂上への登山である。入山禁止のロープを潜って中へ入る。入山許可のペナントを、篠崎のザック一杯に縛り付けているが、何だかとても申し訳ない気持である。「せっかく頂いたご好意だ。しっかり登ってこよう!」と雪を踏み締めて登る。ロープから上は、背を越す済州モミの木立の中で、膝までの雪である。誰も入らないから、我々がトレースを付ける純白の雪である。心地よいというより、感謝の気持ちで、一歩一歩雪を踏んだ。
 8:008合目の肩に到着。ここから頂上の岩の部分に取り付く。登ってきた方を眺めると、済州芝に雪の混じった高原が広がり、管理事務所と小屋が見え、さらに下方は海まで続く。実に雄大な光景である。
 岩への道は階段状になり、手摺りと鎖も付けられているが、荒れたままである。姜さんが先頭になり登って行くが、やがて崩壊部分に出る。手摺りはおろか足場もすっかり無くなっており、わずかな手がかりを求めて慎重に通過する。
 悪場を過ぎると岩のやせ尾根を行くようになり、快適な登りがしばらく続いた後、ついに頂上に着いた。時刻は8:30である。ついに禁断の韓国最高峰に立つことが出来た。劉さん姜さんと感激の握手、そしてお礼を述べる。
 頂上は広く、日本と同じように三角点石が立っており、標高1977mの表記がされている。ガイドブックには1950mとあったが、三角点の表記に従って1977mを採ることにした。
 頂上からの眺めは素晴らしく、さえ切るものは何もない。四方を見下ろすと、その先は春の海が霞んで見える。
 そしって景色以上に心打たれたのが、三角点に並んで立てられた石版の文字である。「来たの白頭山と南の漢拏山を一本の線に結ぼう」という民族の悲願に、胸熱くなる思いであった。
 この後、火口湖に下りサンプリングをしながら、火口壁を一周し元の位置に戻った。下山にかかり、岩場の崩壊部分を慎重に下って、11:45に7合目事務所に帰り着く。
 昼食の後、小屋の後片づけをし、事務所に挨拶をして、13::00下山する。軽やかな気分で高原を下り、何度も振り返っては、漢拏山の頂上を眺め、心の中でお礼を述べる。
 14:30登山口へ着き、管理事務所に登頂の報告をした。
 駐車場端には、トレーラー式の巨大な鉄製ゴミ箱が3台置かれており、ザックのゴミを投げ入れる。こうしたやり方は、日本も参考にすべきであり、トイレや登山道の清潔さは、大いに見習うべき事柄である。
 その後登山口をマイカーで出発し、15:30ホテルハワイに到着。登山チームは解散されたが、夜は再度5人が集まり、地元の人しか行かない魚料理店で、登頂祝いの夕食会を盛大に行った。日韓合同登山の仲間達が夜の更けるのも忘れる一時であった。


<記録概要>
(隊の構成)  篠崎純一、小川幸恵、村中征也
劉永鳳、姜東一
(活動期間)1997年3月7日〜3月11日
(行動概要)3月7日:名古屋→済州空港→ホテル
        8日:→国立公園管理事務所→7合目小屋
  9日:→ 頂上→火口壁一周→7合目小屋→公園管理事務所→ホテル
        10日:島内観光
        11日:→名古屋

<現地案内>
(アクセス)日本からの飛行機の済州空港への直行便は、名古屋、成田、関西、福岡、仙台からあり、所要時間は約2時間。
 韓国本土からは、ソウル、釜山等主要都市からの飛行機便があるが、高速フェリーだと釜山から12時間かかり不便。
(ビザ)日本から直行便で済州島を往復する場合にのみ、15日間以内の滞在のビザは不要であるが、韓国各地から飛行機の国内線やフェリーに乗り継ぐ場合には、ビザが必要となるので要注意。
(言語)韓国語、日本語を話すホテルマン、タクシー運転手等も相当数いる。
(気候)長崎県とほぼ同緯度で、韓国本土と比べると温暖な気候であるが、西方からの風の影響をまともに受ける他、”台風銀座”となるので、気象情報の把握が大切。
 登山シーズンは、四季を通じて可能であるが、3月の残雪期からの春と、紅葉の秋とが、好期と言えよう。
(通貨)ウォン、為替レートは報告書作成時に激変しているが、近い内に安定するだろう。。
(島内観光)”韓国のハワイ”と言われるように、韓国各地からの新婚旅行の大半が訪れる観光の島であるが、マリンスポーツ、ゴルフの他、雄大な漢拏山の裾野のドライブなど多彩である。
 島内交通は、バスが中心となるが、タクシー料金が割安なので、日本語の話せる運転手と前日までに交渉しておき、島内一周または半周で回るのも趣向。
(登山手続き)7合目小屋までは登山許可は不要。
       そこより上部に向かうには特別な許可を国立公園事務所からとる必要があ       る。

     



Mt.Wilhelum(4508m)
パプア・ニューギニア ウィルヘルム山
                           中世古 隆司
<太平洋戦争の激戦地ニューギニア>
 ニューギニア島は、太平洋南西部、オーストラリアの北に位置し、グリーンランドに次ぐ世界第2の大島である。今回訪れたパプア・ニューギニアは、ニューギニア島の東半分とその周辺の島からなる国で、1975年オーストラリアから独立した。島の西半分はインドネシア領イリアンジャヤである。
 当初、我々の計画はオセアニアの最高峰でニューギニア島の最高峰でもある、イリアンジャヤ側にあるカルストンピラミッド(4884m、別名ジャヤクスマ)であったが、政治的理由により入山の許可が下りず、やむを得ずパプア・ニューギニアの最高峰ウィルヘルム山となった。詳細な理由は知ることは出来ないが、漏れ伝える所によれば、カルストオンピラミッド山の山麓にある“ フリーポート”と呼ばれる大規模な鉱山が国際的にも問題を抱えた鉱山で、外国人が近寄ることを嫌っているためらしいとのこと。

 1997年3月15日午前、名古屋空港を発ったパプア・ニューギニアにおける環境登山を撮影するCBC取材班は、別便で出発した篠崎隊員とシンガポール空港で落ち合い、パプア・ニューギニアの首都ポートモレスビーに向かった。
 筆者の私も東海支部員であるが、今回は登山隊の撮影をするCBC取材班の登山指導とサポートという形で、この隊に加わる事になった。
 飛行機は動き出したが、どうした訳かシンガポール空港内をドライブするだけで、なかなか飛び立たない。大幅に時間が遅れてしまったが、ポートモレスビーの国内線は同じエアー・ニューギニのせいか空港に待機していてくれた。撮影機材入国で大分手間取ったが、現地エージェントのサポートで済ますことができ、エージェントの担当者に言わせれば、彼が待たせておいた飛行機に乗り込んだ。
 一昨年、私が勤務するローカル誌で、戦後50年を記念して、岐阜県東濃に在住する戦争体験者から「戦争の生き証人」として戦争の思い出を語ってもらった。その中で最も悲惨な闘いとして強く印象に残ったのが、ニューギニア戦線であった。
 開戦以来、連戦連勝の我が日本軍が、わずか半年後の昭和17年(1942)6月ミッドウェー海戦を境に劣勢へと転落し始めた。それを機に中国大陸に進駐していた多くの隊が南方の諸島に転進、輸送中あるいは到着した任務地で多くの将兵が悲惨な最期を遂げた。ここニューギニアでも生きて帰国した者は1割に満たなかった。
 機から見下ろす緑のジャングルで、私の兄や父の世代の将兵が、圧倒的物量を誇る連合軍の猛攻撃だけでなく、飢えとマラリアに苦しみ、故郷の人々に思いを馳せながら、大半の将兵が死んでいったと思うと、登山への期待感以上に胸を打つものがあった。
 機はやがてパプア・ニューギニア第3の都市マウント・ハーゲンに着いた。熱帯地方とはいえ、標高が1500m位あるので、そんなに暑くはない。第3の都市といっても都会という感じはしない。中心部でも高いビルなどは無く、大きな平屋の建物が並んでいるだけである。
 陸路、登山基地となるケグルスグルに向かう。走っている車はほとんど日本車で、後ろが荷台となった貨物乗用車が多い。しかし荷物を載せているより人間を載せている方が多いくらいである。我々が山への往復で見た定期バス?もトラックの荷台が客席であった。
 途中のクンディアワという町から国1番の長距離舗装道路を離れ、山間部の未舗装道路を車は飛ばしていく。道行く人が、車によって砂ぼこりをかぶせられているのにもかかわらず、手を振って歓迎してくれる。「バクシーシー」(恵んでくれ)と手を出す子供もなく、素朴なのか、それとも誇り高い人々なのであろうか。
 標高約2500mのケグルスグルに着き、マウントウィルヘルム・ロッジと看板の出ている、こざっぱりした山小屋に入った。粗末ながらも水洗トイレもある。当然、酒など置いて無く、当てが外れたが、何年ぶりかでアルコール抜きの夜を過ごす。


<キャラバン>
 翌朝、外へ出ると、近所の人たちが集まっている。ただの見物客かと思ったら、幼児を除いて皆ポーターであった。この地の人々は、同じ黒人でもアフリカ系とポリネシア系を足して2で割った様な顔つきで、大きく立派な鼻に特徴がある。背丈は日本人とあまり変わらず、成人の男性は皆がっしりした体格をした人が多い。一般庶民の食生活は、そんなに豊かとは思われないが、発展途上国で見られる、がりがりに痩せた貧乏候 の人は見かけなかった。元々そうした体質なのか、主食が日本のサツマイモによく似た甘藷類に関係があるのかもしれない。
 ポーターは、ネパールヒマラヤの様に背負い籠を持たないので、荷物がリュックやショイコで無い人は、片方の方に担いだり、持参の編んだ袋(女性はほとんどこの袋を持っている)に入れたり、重い荷物は棒きれを天秤棒代わりに2人で担いだり様々である。家屋には壁など竹をふんだんに使っているのに、竹籠を使っていないのは不思議だが、島国であるニューギニアはヒマラヤ地方のような交易があまり必要ないためかも知れない。
 服装は、基本的には男性はシャツにズボン、ガイドやハイポーターは上に行くので上着も持っている。日本人の目から見れば、みな古着のようなものを、大切に長く着ているといった感じである。女性はシャツにスカート、またはワンピースだが、南国らしくカラフルである。
 一番違っているのは足もとで、しゃれた今風の運動靴やトレッキングシューズから裸足まで様々である。総じて女性に裸足が多い。男性に比べ女性の地位が低いのが原因である。一番多いのが、ここに限らずゴムぞうりである。
 ヒマラヤに比べ、一人あたりのかつぐ重量が軽いため、我々メンバーとガイド、ポーター併せて30人位もいるので、ちょっとしたキャラバンとなった。
 出発して間もなく、オーストラリア人が経営する農場を過ぎると、車道は終わりとなる。この農場には日本人が、養魚の指導をしているという。
 いよいよジャングルに入った。3000m近くとはいえ、さすが南国、松などもあるが、シュロやソテツに似た樹木も多い。
 運が良ければ、ニューギニアを代表する極楽鳥にも会えるかと期待したが、一度ガイドがその鳴き声を教えてくれただけで、その姿に接することはできなかった。
 森を抜けると、気持ちの良さそうな湿地性の草原に出た。そこにソテツのような樹がはえ、独特の景観をつくっている。最後に泉から落ちてくる滝の横の急登を登りきると、目の前に透明な水をたたえた、美しいピウンデ湖に出た。
 湖の畔に、我々のベースとなる小屋があった。早速、湖のプランクトンを採取する。


<頂上へ>
 翌朝午前1時、TVカメラのライトを浴びながら、小屋を後にする。南国とはいえ、夜間と高度のため、結構寒い。ヘッドランプを照らしながら、先導するガイドに黙々と従う。どこを歩いているかはよくは分からないが、湖のさざなみの音、続いて落下する滝の音で、上のアウンデ湖に向かっているのが、分かる。
 アウンデ湖の標識のある草地で小憩後、いよいよ山腹の急斜面の登りが始まった。先導ガイドが少し登っては立ち止まるという方法で進んでくれるので助かる。急斜面を登り切った所で休憩する。高度計を見ると、すでに3800m、富士山を越えている。
 途中、強風が吹き荒れる鞍部を通り、4000mを越えた所で、日の出を撮影する準備にかかる。しかし残念ながら雲が切れず、思ったような絵にはならなかった。
 4200mを越えると、完全な岩山になり、いくつかの岩峰の基部を巻きながら登る。岩峰の頂上にはアンテナのような物が立っている。
 数個の岩峰の基部を巻いて行くと、やっと目の前に頂上岩峰が姿を現した。
 ガイド達とテレビ班が先に行き、撮影される篠崎と私が後から登る。ルートは岩峰の裏側にあり、易しい岩登りで午前8時40分頂上に達した。
 登山経験もほとんど無く、その上始めて経験する高度に、テレビスタッフはかなり苦しそうな様子。しかしさすがプロ、薄い空気の中でも要所要所でカメラを廻し、その頑張りぶりは、私や篠崎を驚かせた。下では最後の部分は私に撮影するように依頼していたが、最後の最後まで自分たちで完遂した。その結果、帰途は気の毒なぐらい疲れきって、半病人状態でふらふらとなって下りてきた。
 篠崎と私は下山時、上のアウンデ湖でもプランクトンの採取を行い、ベースに戻った。


<下山>
 予定通りウィルヘルム山の登山と自然環境調査を終えた我々一行は、翌日はロッジ裏手の州境尾根へ登り、珍しい南国の山の花を撮影した。
 対面に見える昨日登った山腹の上部には、第二次大戦中に墜落した米軍のB29と云われる残骸がいまだに野ざらしになったままで点々と散らばり、陽光に光っている。
 メインの仕事を終え、気が楽になったので、いろいろと話が弾む。800以上の言語があると言われる彼らとは英語で話す。彼ら同しの会話も英語の単語が多い。統一語が英語を基本としているからであろう。「サンキューはニューギニア語で何と言うか」と尋ねたら、同じく「サンキュー」と答えた。
 こちらは未だ一夫多妻が残っている。ガイド頭に何人妻を持っているかと尋ねたら「オンリーワン、僕はカトリック信者です」と答えた。ガイド頭の話によれば、金持ちの某氏は12人の妻を持っている。しかし妻には等しく家を与え、平等に接しなければならないという。男性にとって一見羨ましく見えるこの制度も、経済的底辺の男性にとっては、一生独身を強いられるかもしれない訳だ。だからレイプ事件も時々起きるという。
 翌日、昨夜上がってきたポーターやガイド達と一緒に下山する。撮影隊の隊長でカメラマンの池田さんは、今日こそ極楽鳥を写すんだと、重いテレビカメラを持って歩いたが、残念な事に、その華麗な姿を見ることはできなかった。
 わずか数日の事であったが、ガイドやポーターの人達と別れるのは寂しい。初見はいかつく見えた彼らも、皆愛嬌のあつ人達で、特に笑顔が素敵である。
 再び車でマウントハーゲンに下り、市一番のホテルに泊まる。シャワーしかなかったが、日本出発以来1週間ぶりに湯を浴びる。浴後のビールも1週間ぶりで最高にうまい。


<すわ暴動の発生か> 
 翌朝、街の風景やコーヒープランテーションを撮影するため車で出発。バザールには野菜や果実が豊富で、私が始めて見る果実もあった。運転手からスリとカッパライにはくれぐれも注意するように忠告され、用心して歩く。広大なコーヒー園、茶園を見学後、スーパーマーケットに現地産のコーヒーを買いに出かけた。(余談であるがここのコーヒーはハイランドコーヒーを呼ばれ、主にヨーロッパ方面に輸出されるとか。帰国後コーヒー好きの人たちに飲んでもらったが好評であった。)
 スーパーは頑丈な金網で囲われ、入口には金属探知機があり、我々もそこを通って入る。帰る現地人の衣服が膨らんでいると、一々警備員がすそを開けて見ている。金属探知器を通過した奥の入口は、前方にしか回らない金属棒の入口である。出るには必ずレジの前を通らなければならない訳だ。
 中に入り、コーヒーを物色している時、突然中にいる客や店員が何事かをわめきながらレジの方へ走り出した。訳が分からない我々もレジへ行くと、店員が現金を袋に大急ぎで詰めている。そしてコーヒーの入った籠はそのまま取り上げられ、外に追い出されてしまった。
 出ると群衆も走っている。運転手が早く乗れと我々をせかし、乗り込むと同時に一目散でホテルに逃げ帰った。暴動が起きかけたそうだ。ホテルの敷地はブリキの塀で囲われているが、その塀沿いの内側をシェパード犬を連れた警備員が厳重に警戒している。
 早速CNNのテレビニュースを見ていると、首都ポートモレスビーで暴動が発生、こちらにも余波が伝わったらしい。後で分かった事だが、原因はブーゲンビル島の反政府ゲリラを壊滅するため、政府が外人部隊を雇った。それを知るのは、チャン首相始め政府要人だけだったが、豪紙がそれをすっぱ抜くと、その金額が年間国防予算の半額以上という高額に、給料も遅れがちな軍人の一部と数千人の群衆が国会を徹夜で取り囲み、大きな騒ぎとなった訳である。
 ホテルといっても平屋建てなので、塀の向こうは見えず、こんな所まで来て、テレビを見ながら半日を潰す。
 ひょっとしたら、当分帰れないかもしれないという状況であったが、首相の一時退陣、傭兵斡旋会社代表の逮捕と外人部隊の国軍による拘束によって納まり、予定通りマウントハーゲンを飛び立つ事ができた。
 
追記
 技術的には、全く問題ない山、ただ高所経験の乏しい人には、睡眠不足とあいまって苦しい登山が強いられる。このところ日本人の中高年登山者の高山病によるトラブルが時々発生しているようである。

<記録概要>
(隊の構成)登山隊員 篠崎純一
    中部日本放送撮影隊 隊長 池田東洋(撮影)
              隊員 伊藤和浩(ディレクター)
   久富貴博(撮影助手、技術)
                 中世古隆司(登山指導、撮影協力)
(活動期間)1997年3月15日〜23日
(行動概要)3月15日 名古屋空港→シンガポール
        16日 →ポートモレスビー→マウントハーゲン→ケグルスグル
        17日 → ピウンデ湖畔ロッジ
        18日 頂上往復
        20日 →ケグルスグル→マウントハーゲン
        22日 →ポートモレスビー→シンガポール
        23日 →名古屋空港

<現地案内>
(アクセス)日本からは定期の直行便は無く、一般的にはシンガポール、マニラ、香港経由でパウアニューギニア国営のエアニューギニ(PX)で首都ポートモレスビーに入り、目的地に近い主要都市へ国内航空(国営)で行く。
(ビザ)到着時に取得も可能だがビザは必要。発給場所はパプアニューギニア大使館(東京都港区三田1ー4ー28三田国際ビル3F313号、電話03ー3454ー7801)
(言語)800余りの方言があると云われるほど、各種族によって違う言語を話すと言われているが、公用語は英語なので。今回は英語で充分通じ合えた。
(気候)大きく分ければ、5〜11月が乾期、12〜4月が雨期だが、国土が広く場所によって異なる。高所山岳地の登山は1年中可能。
(通貨)単位はキナ(kina)、1キナ=100トイア(toea)。1キナ=100円弱であった。
(現地連絡先)Trans Niugini Tours 
P.O.Box 371,Mt Hagen, Papua New Guinia
TEL:675-521438 FAX:675-522470
(登山手続き)許可は不要。海外青年協力隊の隊員も良く登っている様だ。





インドネシアの山々
ロンボク島、リンジャニ(3726m)
バリ島、アグン(3142m)
                        篠崎 純一
<イリアンジャヤにて>
 シンガポールでCBCテレビ撮影隊と別れる。また一人になってしまった。シンガポール観光には目もくれず、翌朝早くジャカルタ行きガルーダ航空に乗り込んだ。
猛烈に暑いジャカルタで、したくもない市内観光により時間を潰し、夜イリアンジャヤ行きのメルパチ航空機に乗り変えた。典型的なインドネシアのローカル飛行機だ。
 途中聞いたことも無い飛行場に何回も停まりながら、イリアンジャヤの表玄関センタニに着いた。
 飛行場のゲートで早速、ヤニ族のガイドに捕まった。こういうパターンは余り好きではない。
 彼が薦める安ホテルにチェックインして、どれだけ信用できるかよく分からない情報を聞く。
 早速ガイドに連れられてイリアンジャヤ最大の町ジャヤプラに向かった。
妙に不便な道だ。バスとバンを何回も乗り変えて昼頃やっとジャヤプラに着いた。
 暑くてたまらない。つい4ヶ月前にはマイナス35度の南極にいたのだから無理もないだろう。南極との温度差は70度はある。
 そこの警察署で中央高地における登山許可を申請したが、予想通り軽く却下されてしまった。ニューギニア高地人の町が連なるバリエムバレー周辺での活動は許可できるが、高峰での登山は禁止だと言う。
 奥地への入域禁止の最大の理由がイリアンジャヤ最大のフリーポート鉱山にあるのは、間違いない。
 しかしヤニ族ガイド及びその友人達の情報を総合すると様々な抜け道がありそうだ。
 政府にとって鉱山が大事な金づるなら、現地人にとっては観光客が大事な現金収入源なのである。
観光客の激減を招く政策に現地高地人たちは文句たらたらである。
 この辺を付いて、うまく行動すれば、トリコラというイリアンジャヤの名峰の麓までは確実に入れそうだ。
 しかし自分は例によって単独である。
 環太平洋計画も終了間近である。つまらない冒険は避けるべきだろう。
 ここは分別ある大人の判断を下すことにした。
 ビジットインドネシアパスという融通の利く航空券を持っている事を良いことに、飛行機便を変更、急遽バリ島に飛ぶ事にした。


<バリ島からロンボク島へ>
 ある程度覚悟はしていた事だが、バリ島では超現代的な観光地が待っていた。狭い路地にはおみやげ物屋が軒を連ね、クタの美しいビーチでは、若い男女がつかの間のアバンチュールを楽しんでいる。
 石器時代から抜け出したばかりの人々が住む島から飛んできた私には、いささかカルチャーショックであった。
 観光を楽しむのもそこそこにフェリーでロンボク島に渡る。
 ロンボク島にはインドネシアで2番目に高い火山リンジャニがある。バリ島とロンボク島の間は幅約50kmの海峡があるだけだが、その間には生物学上重要なウォーレス線と呼ばれるものが存在している。
 物の本によるとウオーレス線を境にして動物の種類がオーストラリア産とアジア産に別れるのだそうだ。
 しかし私には暑すぎて、そのような科学的ロマンに思いを馳せる余裕は無い。
 暑い中、窮屈な船での移動は楽ではなかった。港からバスを乗り継ぎリンジャニ山麓の登山基地、バツコック部落に着いた。
 物好きな観光客が時々登りに来るらしく、小さな売店で、登山装備のレンタルから道案内の手配まで問題なく準備できる様になっている。
 コック兼ポーター兼道案内を一人雇って、標高600mのセナル村から歩き出した。
 熱帯雨林の中に細々と一本道が延びている。暑いだけで景色の無い単調な登りが続いた。気分を更に滅入らせているのが、道ばたに落ちているゴミの山だ。
 自分が今まで登った山の中で最もゴミが多い。
 昔、「富士山は世界で一番ゴミの多い山だ」と言った欧米の登山家がいたが、その言葉は嘘である。リンジャニ山の方が間違いなく多い。
 一日目のテントサイトには壊れたあずまやが立っていた。辺りはゴミだらけ。不潔な感じがしてせっかくの清流も直接飲む気がしなかった。 
 

<リンジャニ登頂>
 翌日は火口からの日の出を楽しむ為に早出した。さすがに朝は寒い。樹林帯を抜けたので景色は良くなった。
 2時間ほどで火口輪の一角に着いた。多くの観光登山者は標高2600mのこの地点から下山する。
 リンジャニ山はセガラアナック湖という巨大な火口湖を持っていて、火口の一角からその火口湖を望み、日の出を見て下山するというのが一つのパターンになっていた。
 しかし当然の事ながら自分は更に先に進み、リンジャニ山の絶頂を目指す。
 一気に700m近く下り、火口湖の畔に着いた。この火口湖は現地では聖なる湖として様々な言い伝えを持っている。
 火口湖唯一の出水口の近くに温泉が湧く所があり、もくもくと白い煙を噴き上げていた。 きれいな沢の流れに十和田湖と奥入瀬渓谷を思い出す。
 湖から離れて再度登り返し、リンジャニ山の北の肩、標高2900m地点にテントを張った。
 翌朝も早立ちである。ポーターは寒さの余りぶるぶる震えている。フリースのジャケットとヤッケを着込んでも、まだ寒いくらいだ。 
 暗闇の中登り出す。2時間ほど稜線伝いに進み、夜が明ける頃、標高3726mのリンジャニ山頂に着いた。
 眼下にセガラアナック湖が美しい。寒さに震えながら写真を撮り、空気を採取する。
 下山は登りと異なる道をとる。富士山のような広い裾野で、なかなか車道のあるセンバルン部落に着かない。
 標高も低くなり、直射日光の下たまらなく暑くなってきた。この暑さは私にとって拷問に等しい。日射病になる寸前に車道に出た。迎えに来たバイクで売店を探す。
 冷たいコーラを飲み産地直売のドリアンにかぶりつくと、やっと生き返った気がした。


<アグン山へ>
 次なる目標の山はバリ島最高峰アグンである。
 ロンボク島から来た経路をそのまま引き返してバリ島に戻る。
 アグン山麓の標高1000m地点にあるベサキ寺院は、膨大な数があるバリ島のお寺の中で、最も重要な寺院だと言われている。
 アグン山最高点にはこのベサキ寺院から登り出す事になっていた。ベサキの表参道にはおびただしい数の売店が並び、観光客も毎日大勢訪れている。
 それでも私が着いた頃には、観光客は既にホテルに戻った後で、あたりはひっそりとしていた。ガムランが静かに流れる表参道を散歩する。
 仲良くなった売店の裏側で、小さな部屋を借り、一晩の宿にした。
 翌日深夜午前1時に、頼んでおいた道案内が起こしに来た。
 眠い目をこすりながら、真っ暗闇の脇道を縫って進む。
 おそらくアグン山登頂で最も難しいのは、この寺院内の迷路から正しい道を選び出す事だろう。道案内を頼んでおいて良かったと思った。
 幾つもの複雑な分かれ道を抜けると、やがて一直線の登りになった。
 熱帯雨林がだんだん温帯林に変わり、やがて樹林帯が途切れる頃、ちょっとしたテラスにでた。
そこでひと休みしている内に周りも明るくなってくる。
 上部に控える岩棚を抜けると頂上部も近い。
 前衛峰から細い稜線を辿り、火口輪の一角に着いた。そこがバリ島最高点だった。
 頂上からすぐ下に見える火口は直径こそ富士山火口と同じくらいだが、深さはその何倍も深い。底に出来た池が不気味な色に光り、なかなかの迫力だ。
海の向こうには、先日登ったばかりのリンジャニ山が朝日に輝いている。
下山は早い。観光客で賑わうベサキ寺院には昼前に帰り着いていた。
 同日中にバリの観光基地クタに戻り、ビールを浴びる程飲む。
 南米や南極で充実した山登りをした後だからだろうか、私はこれ以上東南アジアでの登山に魅力を感じなくなっていた。たとえ環境調査という大義があっても、数を稼ぐ為の登山ではあまりに悲しすぎる。
 クタのバーで酔っぱらいながら、いささか早いが、日本に帰ろうと心に決めた。

<記録概要>
(隊の構成)  篠崎純一
(活動期間)1997年3月24日〜4月1日
(行動概要)3月24日:イリアンジャヤ、ジャヤプラにて情報収集
        25日:バリ島へフライト
  27日:→ロンボク島
        30日:リンジャニ山登頂
        31日:→バリ島
      4月 1日:アグン山登頂  
4日:帰国
 
<現地案内>
(アクセス)バリ島やジャカルタへは日本から数多くの飛行機便が毎日の様に発着している。インドネシア国内には、かなり密な飛行機の国内線網がある。
 今回自分が使用したビジットインドネシアパスというチケットは、ワンフライト100$でインドネシア国内なら何処にでも飛べるというチケットで、インドネシア国内の登山であちこち回るのにはお勧めである。ただし遅れやキャンセルは日常茶飯事なので覚悟は必要。
(ビザ)出国チケットを持っていれば60日まで不要。
(言語)インドネシア語、その他部族語多数。
(気候)1年中可能だろう。
(通貨)ルピア、為替レートは不安定
(登山手続き)現在、イリアンジャヤでの登山は実質禁止状態である。将来的にも近い内の解禁の見込みは薄そうだ。バリ島やロンボク島での登山に手続きの必要は無い。
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