(日付)2009年2月14日(土)〜3月4日(水) (山域)インドネシア、ニューギニア島 (現地エージェント)Adventure Indonesia (Mr.Ferdinand Tabulyan) (費用) (他の隊員方)倉岡さん、芳田さん、ヴォラド(スロベニア生まれのアメリカ人)、ゾルタン(ハンガリー人登山ガイ ド)、クリスティーナ(ハンガリー人)、メルディ(インドネシア人ガイド)、ポクシー(インドネシア人ガイド) (行動)2月14日:自宅発、16日:バンコク、ジャカルタ経由、ニューギニア島ティミカへ、17日:スガパ 18日〜23日:カルステンピラミッドベースキャンプへジャングルトレッキング、24日:休養 25日:2:00BC発→3:30岩壁帯取り付き→8:00岩稜チロリアンブリッジ→9:00頂上(4884m)→1 0:00〜12:00チロリアンブリッジでヴォラド待ち→14:15BC戻り 26日〜3月1日:帰路のジャングルトレッキングでスガパへ、2日:ティミカ、3日〜5日:ジャカルタで荷 物待ち (欧米人はヘリ下山) 悲喜こもごもの結果であったが、とにかく無事全員がベースに戻ってきた。しかし僕等の気持ちはそれほど明 るくない。というのはまだこれからまたジャングルでのリターントリップが待っていたからだ。フリーポート金山の 道を使えれば、わずか半日で下界に戻れるという事実も面白くは無い。 欧米人3人は帰りのジャングル通過に耐えられないと訴えている。結局彼等3人は、1人5000ドル以上の大 金を払いヘリコプターによる下山を決めた。残った日本人組3人は潔くジャングル経由下山だ。 26日の朝意外にスムーズにヘリコプターはベースキャンプまで現れた。欧米人3人組を乗せると、ベースキャ ンプのゴミやテントを風で撒き散らしながら、さっさと海岸の町に下ってしまう。ちと羨ましく思う。 (必死の思いのリターントリップ) 計画では行きに6日間かけたジャングルを帰りには4日間で通過する予定だった。工夫も何も無い。途中キャ ンプできる場所は限られているし、単純に行きの行程の倍歩く日が中2日あるだけである。楽しみは山やその 他で経験豊富な倉岡さんや芳田さんとの会話であった。 帰りのジャングルはこれまた行き以上の雨の連続だった。ドロドロの湿原を進むので、所々で道も消えてい る。倉岡さんの最新型GPSに何度も助けられた。 2日目の行程の時には、朝から雨が続き一生懸命歩いても次のキャンプに辿り着くのが夜となった。デジカメ もヘッドランプも雨に濡れて壊れてしまう。 3日目の行程は後半で、次々と危険な渡渉をしなければならなかった。降り続く雨で川が増水してしまったの だ。がけ崩れの箇所では、落石が頭にぶつかり肝を冷やす。ヘルメットを被っていて良かった。 挙句の果てに若いポーターの一人が足を滑らせ、橋から増水した川に落ちた。倉岡さんと二人で顔を見合わ せ、これはもう助からないぞと思う。 幸い彼は自力で川岸に這い上がった。しかし足と顔から血を流し、ショックのあまりブルブル震えている。他の ポーターたちも皆泣き出して、抱きしめてあって生還を喜んでいた。この落水によりテント2張りを始め多くの装 備が失われた。とは言うものの命が救われた事だけで幸運だ。この日もキャンプについたのは日暮れ寸前で、 ビショビショのまま寝袋に入り込む事となった。 (難しい現地ポーターとのコミュニケーション) ニューギニア島トレッキングの場合、現地で雇うポーターはほとんど未開の原始人に近い。 さすがにポーターの中にペニスケースの裸族はいなかったが、若い女性でも平気で裸足のまま雪の上を歩け るから驚いてしまう。あまりに生きる世界が違いすぎて、僕には彼等とコミュニケーション取る事がほとんど不可 能だった。 彼等がどれだけの給金を貰っているのか、何処でどのように貰ったお金を使うのか想像もできない。 落水により死にかけたポーターの補償を求め、再び通行止めのバリケードが途中の集落に作られていた。ど うもかなりの大金を要求しているらしい。 現地ポーター頭の必死の交渉(ポーズである可能性もあり)で先に進めたが、現地人によるジャングル通行止 めはカルステンツ登山においてかなりの障害だと思う。 ここは未開のジャングルである。彼等の平和?な世界に外国人が入り込むことは、彼等の生活にどのような 影響を与えるのだろうか。僕にはなかなか理解できなかったが、未知との出会いはその分価値ある経験になっ たと思う。 (文明社会に戻る) 4日間の困難なトリップを終えて、飛行場のあるスガパに戻った。久しぶりに屋根のある寝床に泊まる。やっと 湿った雨の世界とも離れられる。 靴とヤッケはこの厳しい旅で使い物にならなくなった。翌日にはチャーター飛行機でティミカに戻り、更に定期 便でジャカルタに飛ぶ。 僕は12年ぶりの海外旅行でいきなり未開ジャングルの洗礼を受けた。多くの装備を失いこの先この調子でエ ベレストまで辿りつけるのか大いに心配となる。 落水で怪我をしたポーターはその治療?のために僕等のチャーター飛行機に一緒に乗り込み、ティミカの病 院に入院となった。とはいえ彼の怪我は実際は大した事は無い。絆創膏でも張っていればOKの状態だ。しかし それ位のサービスをしないと現地ポーターの気持ちは収まらないらしい。彼とその仲間を乗せた代わりに、多く の積荷がスガパに残された。その積荷待ちで僕はジャカルタに3日間滞在する事となる。 荷物の事を心配しながらジャカルタで一人過ごすのは嬉しく無かった。しかしそれでも、電話とインターネット が繋がり、温水シャワーを使える文明の有難みを、毎日噛みしめて過ごす事は出来たのであった。 |