87年夏の冒険、インドヒマラヤ、ネパール、チベット

冒険の夏はインドから始まった


 <始めに>
 87年の夏は僕にとって特別な夏だった。医学部の大学5年生、本来なら勉強に励んで当然の時期である。
 だが当時の僕は勉強なんてとてもする気になれなかった。
 毎日海外や日本の山での冒険のことばかり考えて、それに夢中になっていたのだ。
 
 インドヒマラヤCB山群には、実力ある大学生が夏休みを使って山登りをするのには好適な山が沢山揃っている。
 名工大山岳部の大鐘氏、名大山岳部の後輩高橋氏の協力を得て、僕は名古屋大学山岳部インドヒマラヤ登山隊を組織した。
 わずか3人の小さな登山隊であったが、足並みはそろいチームワークは良かったと思う。
 協力していただいた大鐘氏と高橋氏にはいまだに大いに感謝している。
 
 登山隊は標高5964mティラカラール、標高6005mアケラキラ、標高5900mCB47に登頂した。
 ティラカラールはイギリス隊に続いて第2登、アケラキラとCB47は実質的に初登頂だった。
 
 その後隊は現地解散し、陸路単独で僕はネパールからチベットに向かう。大学の夏休みはじきに終了してしまう。欠席ばかりとなる授業が気にならないわけではなかったが、昔の大学は今よりずいぶんと自由でおおらかだった。留年が決まる前に日本に帰ればそれでよい。
 
 ネパールではアンナプルナ内院とダウラギリ南面のトレッキングを楽しんだ。
 更にカトマンズで中国の観光ビザを取り、陸路チベットに渡る。
 ギャンツェ、シガツェ、を経て憧れのラサへ。ポタラ寺院の威光には圧倒させられた。
 
 ここで偶然チベットの独立騒動に巻き込まれる。なんと欧米各国でトップニュース扱いの大騒動に、チベットのど真ん中で巻き込まれたのであった。
 23歳夏の冒険の日々は、チベットはラサの地で意外な展開を迎えることになる。
 
 以下にこれらの冒険の日々の記録を記します。
 
 <日本出発からBCまで>
 87年7月15日朝、名古屋空港を発ち、成田バンコク経由でデリーへ。猛烈に暑い。リエゾンとの打ち合わせ、IMF表敬訪問、日本大使館、通信社等へ挨拶をそそくさとすませ、急いでバスに乗り避暑地マナリに向かう。
 マナリでは日本の登山隊が良く利用するメイフラワーゲストハウス(通称ネギハウス)を宿とし、25日分の食料と燃料を準備する。

マナリで買出し

 7月23日朝、ジープ2台に約500kgの荷物を載せ、いよいよ山へ出発。
 ロータン峠まで上がると、目前に目指すクルティ谷が広がり、その最奥に目指すCB46,47,49が見える。苦しいことの多かった準備期間が思い出され、さすがに気持ちが高ぶる。
 がたごと道を更にジープで進みケイロンの役場で挨拶した後に、翌日からキャラバンが始まった。キャラバンはミュールというラバを使い、1日半で済む。

ミュールのキャラバン

 こういう手軽さがCB山群の最大の魅力ともいえる。
 ところどころにお花畑がある綺麗な川原を進む、のどかなキャラバンだった。
 氷河の末端アイスフォールの舌端下、標高3600mの平坦地にBCを建設した。
 
 <インドヒマラヤ、ティラカラール登頂>
 アイスフォールの突破には簡単な岩登りを要した。念のためザイルを35mフィックスする。雨の中の荷揚げを続けた。
 モレーン帯を通過した標高4200m地点にC1を作る。C1から上は上部のアイスフォール帯となる。ここには90mフィックス。更に上部のクレバス帯に80mフィックスした。

   下部アイスフォールを抜けた

 ここまで4日間を費やす。これで上部の雪原になった氷河地帯に入る安全なルートが確保された。標高5000m地点にC2建設予定地を定めた。
 一旦休養のためBCに降りる。体調不良もあり5日間の十分な休養停滞を取った。
 8月4日、CB49頂上に向かってのアタックに入った。CB49はクルティ氷河最奥にある。更に2日間のルート工作を経て8月7日3人でC2から頂上アタックに出た。

ティラカラールへの登高


 高所の影響を全身に感じながら、よたよたと進み、3級程度のリッジを通り無事全員5964mCB49(ティラカラール峰)に登頂した。
 帰りはクレバス帯に気をつけながら、一気にBCまで標高を下げる。
 
 <インドヒマラヤ、アケラキラ、ドラギリ連続初登頂>
 2日間の休養後、篠崎、大鐘の2人で更にアケラキラ峰とCB47峰のアタックに出た。2日後にC2には入るが、悪天で一日停滞。13日が頂上アタックになった。

ティラカラールから見たアケラキラとドラギリ

 今日の登攀は技術的に困難な部分が出る。昨夜まで降り続いた雪の状態も心配だ。
 スノーリッジからミックス壁の懸垂下降を経てスノープラトーに出る。
 スノープラトーを横断して頂上雪壁の下へ、そこから懸命のダブルアックスで稜線まで這い上がった。滑落したら命は無い。必死の登攀であった。この稜線までは過去にイギリス隊が到達したことがある。
 ここから頂上は未踏となる。稜線通しに頂上に向かい、最後の難しい雪庇を乗り越え無事アケラキラに登頂した。僕にとって始めての6000m峰だ。雪が降り始めてガスってきた。急いで引き返して稜線伝いアケラキラの反対側小ピークCB47にも登頂する。
 この山は稜線の肩とも言えるが、地図上にはCB47という測量名がある。いちおう初登頂だ。名前の無い山なのでこの機会に僕らはこのピークをドラギリと名づけた。
 ドラゴンズのドラからの名前だ。ギリはヒンヅー語で峰という意味である。
 さてここからの下降が最大の難関である。慎重に9ピッチのスタカットを繰り返して頂上雪壁を降りた。表層雪崩に何回もひやひやさせられる。
 スノープラトーの横断はホワイトアウトの中計器歩行となった。
 最後の雪壁を探し出し、更に7ピッチでC2に無事生還できた。
 疲れた体でC2にもう一泊とする。
 
 <下山そして解散>
 翌14日は荷下げである。いままで苦労して持ち上げた装備を背負ってBCに戻る。ほとんどのフィックスロープは回収できた。
 15日にはBC撤収。17日にマナリに戻り、19日に隊は現地解散となった。
 このインドヒマラヤ登山は大成功だった。大鐘君、高橋君どうもありがとう。
 もしこのHPを見たらメールでも下さい。
 
 <陸路インドからネパールへ>
 バスでデリーに戻り、ネパールビザを取り、列車でネパールへ。列車は満員でしかもオーバーブッキングされている。さすがインドとあきれつつ苦しい夜行列車でゴラクプールへ国境の町を越える。
 クシナガル、ルンピニという仏教の聖地を観光しつつ、苦しいバス旅を経てネパールの観光地ポカラには8月30日に着いた。ポカラでトレッキングの情報を集める。
 
 <アンナプルナ街道から内院トレッキング>
 ポカラの町から見る月とマチャプチャレ峰の美しさは、他に比較するものが見つからないほど美しい。
 トレッキングはポーターを雇うことも無く、一人で荷物を担いでの気楽なものだ。途中に茶屋や宿もあり、前年のカラコルムトレッキングと比べても格段に快適である。

こういうところに泊めてもらう

 ただ雨季なので毎日雨ばかりだ。天気が良くないので山も良く見えない。特に蛭の大群に毎日襲われて気が滅入る。
 楽しみにしていたプーンヒルからのダウラギリは雲の間に雰囲気しか感じられなかった。
 アンナプルナ内院へは近道を取る。ジャングルの中の人気の無いトレッキングは印象深い。内院からのアンナプルナ南壁も残念ながら雲の間にしか見えなかった。
 雨季の山で、期待した大景観は得れなかったが、様々な出合いもあり楽しい思い出多い11日間のトレッキングとなった。
 
 <カトマンズから陸路チベットラサへ>
 9月14日朝に夜行バスでカトマンズに着いた。安宿を探しラサへの交通手段を考える。飛行機は高い。残りの所持金も多くはない。潔くバスでチベットに向かうことにする。
 中国のビザを取るために2週間近くカトマンズに滞在する。中国からのテレックスの返事を待つ日々だったが、このカトマンズ滞在も楽しい時間だった。多くの日本人旅行者と知り合う。
 国境へのバスに乗り込めたのは9月30日だった。ラサ行きの日産バンの切符を40$で購入する。
 国境まではわずか数時間で着いた。友誼橋を超えてネパールに入る。夜の国境越えだった。
 チベットの高地を走るバス旅ほど印象深いバス旅行は無い。次々と4000〜5000m級の峠を越える。

チベット高原を貫く道路

 途中シガツェやギャンツェといったチベットの歴史的街を通過する。シガツェのタシルフンポ寺院は沢山の修行僧が寝泊りしている。神秘的な場所だった。
 ラサには10月2日に到着する。大昭寺のすぐ横にあるキリーホテルに宿泊。
 
 <ラサで独立騒動に遭う>
 ラサの町はなぜか妙に騒然としていた。
 あちこちに投石された石が落ちている。転倒して燃えた車も路上に放置されていた。
 銀行も閉まっていて両替もできない。そのうえ肝心のポタラ宮も中に入れないようになっていた。
 夜は中国の公安がホテルの宿まで突然パスポートチェックに現れた。
 不思議に思っていたが、だんだん状況が読めてきた。このラサでは僕の知らないうちに独立騒動が起きていたのだ。
 気づいたらラサは閉鎖されていた。ラサを出るバスや飛行機は全て休止となる。密かに計画していたカイラス往復なんてとても無理のようだ。
 こういう時はひたすら待つしかない。外では大騒ぎになっていたようだが、内部にいると何がどうなってるのか良く分からないものなのかもしれない。
 それでも数日するうちに街は平穏を取り戻してきた。ポタラ宮も観光できた。大昭寺を回る五体投地の巡礼者たちも多い。僕には驚くことばかりだ。

祈る人々

 チベットはとにかく本当にすごいところだ。もうそれしか僕には言葉もない。

寺院には多数の価値ある経典が収められている

 そうこうするうちに外国人は飛行機でラサの外に出れるようになった。
 こういう時にぐずぐずしていてはいけない。速やかに成都までの飛行機チケットを200$で購入する。10月9日に飛行機に乗れた。
 
 <成都から日本へ>
 成都の飛行場に降りるとなぜかたくさんの欧米人記者に囲まれた。ニュースウィークとかタイムズというステッカーを貼った人たちもいる。
 どうやら今回の騒動は、予想以上に諸外国で大ニュースになっていたようだ。
 そそくさと記者さんの群れを離れて、すぐに列車駅に向かう。早く日本に戻らないと試験に間に合わないかもしれない。飛行機に乗った分残りの所持金も寂しくなった。何とか日本と電話が繋がる。当然とっとこ大学に帰れと言われる。
 夜行列車で重慶へ、そこから長江下りの定期客船の切符を購入。2泊3日の船旅で武漢まで。途中三国志で有名な赤壁と、建設中の三峡ダムを通過する。このダムは中国の国運を賭けた大プロジェクトである。もう完成しているのかなあ。そうしたらあの歴史的遺産の赤壁もダム湖の底に沈むと聞いているがどうなってるのだろうか。
 武漢から広州まではまた列車。更に陸路で香港に渡り、格安飛行機を見つけ日本に帰った。日本を出てから3ヶ月間とちょっと。僕にとって満足感あふれる快心の冒険の夏となった。


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