89年アフリカ横断登山行
89年の暮れから90年の夏にかけて、僕は病院への就職を遅らせてまでも
アジア横断登山行に引き続き、アフリカ横断登山行の旅に出た。
所持金は残り僅かしかない。しかし冒険と未知への憧れは人一倍だった。
行き先には予想以上の困難が待っていたが、まだ僕は若く、いろいろな意味で強かった。
今では治安不良で通れない地域もある。暑い夏の熱い青春登山行の記録です。




「世界放浪の山旅、アフリカ編」
                                      東海山岳より   篠崎 純一
 アフリカ大陸横断の旅から帰ってきて、あっと言う間に3年の月日が過ぎた。
僕は、今、地方の総合病院の勤務医として毎日忙しく働いている。
白衣も似合う様になり、病院独特の消毒液の臭いにもすっかり慣れた。 
今年の2月には結婚し、長年の一人暮らしにピリオドも打った。
 しかし、今でも、デスクの前に座り、仕事をしているとき、ふとザイール川の悠々とした流れやサハラの焼けるような熱風を思い出す時がある。
 それは今でも自分の心を熱くさせる忘れようもない青春の思い出なのだ。

 平成元年12月14日、僕は40kg近い登山装備を背負って、ナイロビのケニヤッタ国際空港に一人到着した。
 僕にとって初めてのアフリカであり、知人や当てにする人物は誰一人としていなかった。
予約してあるホテルなどあるわけもなく、僕はとぼとぼと重たい荷物を背負いリムジンバスの乗り場を探した。
 僕の目的はアフリカの山々を登りながら大陸を横断するというものであった。ナイロビのダウンタウンに着くと、まず僕は安宿を探しだした。
手持ちの金は出国前にかき集めた5000ドル程であった。自分の目的達成に十分な金額とは考えていなかったが、それでも僕にとって、なけなしの大金であった。
お金はほとんどキャッシュのまま腹巻きに入れ、常に肌身離さず持ち歩く様にした。両替にはブラックマーケットを利用するつもりだった。
 一通りの情報収集が終わると、最初に僕はキリマンジャロへ向かうことにした。
国境を越えてタンザニアに入る。この山はタンザニアにとって、外貨獲得のための大事な観光スポットとなっていた。
ちょうど正月休みの頃だったので、日本の登山客も多数見かけた。
最もポピュラーなルートから入山し、4日目に僕は朝焼けのアフリカ最高点(5895m)に立った。頂上付近の火口には氷河が形成され、きれいな新雪が積もっていた。

キリマンジャロ頂上稜線には氷河あり


アフリカ最高点です



 続いてケニヤ山を目指す。岩と氷に守られたアフリカを代表する鋭峰である。
高山植物と氷河湖のトレッキングを2日も続けると岩場の取り付きにつく。
そこから最高点のバチアン峰(5199M)まで、本格的な岩登りとなるため、多くの人たちは、近くの歩いて登れるレナナ峰登頂でケニヤ山登頂に代えている。

近づくケニヤ山頂上、あの絶頂に立てるだろうか


手前ネリオンの岩峰を超えなければ、真の頂上バチアンには立てない


しかしそれではケニヤ山登山の心髄を味わってるとは言えない。やはり最高点バチアンに立ってこそ、ケニア山登頂と言うべきだ。
 現地で出会ったドイツ人のラルフ氏とザイルを組み、まだ暗い岩壁に取り付く。ルート上にはラビットホール、ワンオクロックガリー、デグラーフェのバリエーション、といった幾つかの難場がある。
ケニヤ山の頂上付近は双耳峰となっており、その低い方のピークであるネリオンでラルフ氏に高度の影響が出だした。
そこから先は単独となった。ネリオンの肩から、霧の門と言うコルまで60mの懸垂下降をする。天気が気になり出した。急がねばならない。
学生の時に覚えた単独登はんのザイル操作で急場をしのぎながら、バチアンの頂上まで何とかよじ登った。
ネリオンの頂上ではラルフ氏が僕の事を心配そうに待っていた。そして霧の門からの登り返しでは僕の事をしっかりと確保してくれた。後はひたすら懸垂下降の繰り返しで、安全地帯に戻ったのはもうだいぶ暗くなってからであった。

長い登攀が始まる


ネリオンを超えてバチアンへ単独登攀


下降はほとんど懸垂となる



 2つの登山を終えた後、僕はモンパサへインド洋を見に出かけた。海水浴と釣りの日々だ。海辺のホテルには巨大なカジキが陸揚げされて、タコ穴を探りに大きな鈎を持った漁師が磯を歩きまわっていた。
海辺のディスコでビールを飲みながら現地娘の踊りを見ていると時の過ぎるのも忘れた。
 ナイロビに戻ってからもしばらくのんびりとした日々が続いた。
ナイロビは娯楽の多い街であった。カジノにバーにプールにディスコ、皆格安に楽しめる。ちょっと郊外にでると、サファリを味わえ、岩登りの練習場まであった。僕は毎日のように遊び歩いた。しかしその間も確実に雨期がアフリカ東部に近づいてきていた。
雨期がくると次のターゲットであるルゥェンゾリ峰に登るのが、大変難しくなってしまうのだ。
 ナイロビの安宿で知り合った深川さんという旅行者と共に、僕はいよいよ西への旅にでる決心をした。

ナイロビのマーケット


懐かしのリバーハウス。いまや旅人の伝説か




 ルゥェンゾリは、ナイル川の源流として有名なビクトリア湖の西に位置し、1年に360日雨が降ると言われている程天気の悪い山であった。頂上付近にはスタンレー氷河という大きなプラトーがあり、最高点はマルガリータと呼ばれ、アレキサンドラというピークと双耳峰を形成していた。
 バスと列車を乗り継ぎ、ウガンダとの国境を越えて、ルゥェンゾリの麓の街、カセセについた。
この町でルゥェンゾリ登山のための準備を整えると、いよいよポーターたちと一緒の山登りが始まった。予想道り雨が多い。びしょ濡れのジャングル歩きが続いた。道はひどいもので、時には腰近くまで泥に潜って歩かねばならなかった。
それでもセネシオやロザリオといった奇妙な高山植物や、見たことも無い分厚い苔のカーペットがしばし疲れを忘れさせてくれ、やっとの思いで幾つもの大きな高層湿原を超える事ができた。

ウガンダのジャングルを行く





ナイル川最初の一滴



4日目に最高所の小屋であるエレナハットに着いた。ここからは単独行である。
ピッケル、アイゼンで身を固めて、暗闇のエレナハットを飛び出す。 
氷河を登るにつれて太陽も顔を出し、体も徐々に暖まってきた。
好運にも晴れた。真っ白のスタンレープラトーを進むと朝日に輝く美しい双耳峰が見えた。
これは登れるぞ、瞬間そう思った。
雪の詰まったクラックを抜け、アレキサンドラのピークに立つと、霧の向こうにマルガリータの頂上が見えた。
ところがアレキサンドラからマルガリータ側に降りる下降点がなかなか見つからない。なんとか古いロックハーケンを見つけそこよりアップザイレンした。
降り立った氷河より斜めに延びる雪壁を登ると、マルガリータの頂上はすぐそこであった。 帰路は少々ガスに巻かれたが、登りの時に立てた目印の赤旗に助けられた。

超幸運にも晴れてくれた。心が高鳴る



 これで僕はアフリカ三山と一般に言われている山々に全て登頂したことになる。
この中でも奇妙な植物のジャングルに囲まれたルゥェンゾリ登山が最も印象深いものとなった。
 この時までは大陸の中で最も旅行しやすい東アフリカでの山旅であった。しかしこれから入ろうとしている西アフリカの国々は、世界でも最も旅行のしづらい地域の一つと言われていた。つまりこれからアフリカ山旅の本番が始まるのである。  
 何とか国境を越えてザイールに入ると、途端に道が悪くなった。食料も乏しくなり、そのうえ公用外国語はフランス語で言葉もろくに通じなくなってしまった。
公共の交通機関は無くなり、いつ来るかわからないトラックをヒッチハイクしての移動が主になった。
荷台の上のわずかなスペースに、現地の人たちと一緒になってしがみつき、何日もガタガタ道に揺られる。

アフリカ中央部横断唯一の道を行く





キサンガニのマーケット。丸焼き猿やカブトムシ幼虫が軒を連ねる


 キサンガニという街から先はザイール川が唯一、自然の交通路を作っていた。
ザイール川は、ナイル川と並び、アフリカを代表する大河の一つである。流域面積と貯水量はアフリカ第一だ。
そのザイール川を航行する客船は昨日でたばかり、そして次の便が来るのはいつだかはっきりわからないという始末であった。
 それを聞いて僕は、現地人が使っているピローグという小さな丸木カヌーでザイール川を下るという計画をたてた。
30000z(約9000円)で2人乗りピローグを手にいれ、荷物を積み込んだ。安定の悪い船はぐらぐらと揺れ、今にも沈没しそうだ。狭い桟橋を離れると、僕らはたちまち深いジャングルの中へ吸い込まれた。
案の定、船はちっとも僕らの言う事を聞かず、右に左に蛇行を繰り返した。周囲は猛烈なジャングルであった。夜になるときまって蚊の大群に悩まされた。ここの蚊のほとんどはマラリヤ蚊であった。
食料事情も乏しかった。キャッサバイモより作ったシークワンギという、障子の糊みたいな食物が主食であった。
川下りは2週間で終わった。再びトラックのヒッチハイクを繰り返す。

ザイール川に漕ぎ出す





 ザイールから中央アフリカと国境を過ぎ、カメルーンという国に入った。ここにはカメルーン山(4070M)という西アフリカ最高峰がある。
麓の村で次々と現れる自称公認ガイドのうちの一人を雇うと、僕らは日帰りでこの山にも登った。富士山が熱帯のジャングルに現れたかのような山だった。

東アフリカ最高峰のカメルーン山


 次の国ナイジェリアに入る。首都ラゴスはエネルギー溢れるブラックアフリカ最大の街であった。
ここで僕はパスポートの期限が切れ、その再発行にいささか時間を費やしてしまった。所持金も残り少なくなってきた。日本に帰ってからの生活が頭にちらりとよぎったが、ここまで来た以上どうしてもサハラ砂漠には行ってみたかった。
 新品のパスポートを何とか手にいれると、ルートを北に採り僕らは予定どうりサハラ砂漠を目指す事にした。
サハラ砂漠の縦断コースにはホガールートを採る事にした。このルートはその半分以上が舗装されていて、またかなりの部分でバスが営業されていた。
そしてまたこのルートの中央部はホガー山地と言われる高山地帯をつくっているはずであった。
 季節は夏に近づいてきていた。やはり猛烈に暑い。水筒の水はたちまちお湯になってしまう。それでも脱水を防ぐため、バスが一時停止する度になま暖かい水をがぶ飲みした。アルジェリアとの国境からは定期バスも、整備された道も無くなる。またまたトラックのヒッチハイクをしなければならない。
 トラックは前車の轍と故障車の残骸を目印とし、砂漠の道無き道をひたすら進んだ。昼間の数時間はオーバーヒートを防ぐため大休止となる。その間ゆっくりと熱い紅茶を飲む事で暑さを紛らわすのだ。

ヒッチハイクに成功しないと帰れない



サハラの謎の香辛料





僕はサハラの遊牧民


サハラ砂漠中央のオアシスであるタマンラセットの町は、標高のせいか幾分涼しく、過ごし易い所だった。人々の肌の色も変わり、食事の内容もずっと豊かになってきた。
 ここの小さな旅行代理店で僕はジープを1台チャーターし、ホガー山地を目指した。
しばらく行くと様々な奇岩が周囲に見えてきた。話によると毎年何人かのフランス人がこれらの岩峰を登りに来るという。
だが目指す最高点のタハト山(3003M)は瓦礫を積み重ねたようなただの石の山であった。ジープで近づける所まで近づいてもらって二時間ほど岩砂漠を歩くと頂上についた。頂上からは360度の砂の地平線が見渡せた。
 その日の夜は涼しい山の中で、地面に絨毯を敷き眠った。天の川が地平線から地平線へ帯を作っている。すごい数の星だ。サハラに来て良かった。アフリカに来て良かった。天の川を見ながら、自分はつくづく幸せ者だと思った

サハラ中央部の山脈地帯を行く











サハラ最高点のつもりだったけど


 タマンラセットからも苦しい旅が続いた。ガルダイアという街でずっと一緒に旅をしていた深川さんと別れた。ここまでナイロビからずっと一緒だったのである。
 地中海に抜けると今までの旅が嘘だったかのように物資が豊かになった。バスはリクライニングシートとなり市場には物が溢れていた。特に新鮮な果物は宝石のようにすら思えた。
 アフリカ最後の国モロッコに入り、僕はアトラス山脈を目指す事にした。ギリシャ時代には地の果てと信じられてた山脈だ。又そこの最高峰トゥブカル山(4165M)は北アフリカの最高点でもあった。
 麓でガイドを雇い、ラバに荷物を積むと出発である。時々ラバに乗せて貰ったりして、のんびりとしたハイキングを楽しんだ。まだ残雪が多い谷ではたくさんの羊達がきれいな緑の新芽を食んでいた。
ネルトネルハットという小屋に一泊し、翌日雪渓を辿りトゥブカルに登頂する。周囲にはアトラス山脈の山々が連綿と連なっていた。この周辺だけで、何日でもトレッキングや縦走を楽しめそうな感じだ。




アトラス山脈を行く








マラケシュのマーケット



 下山後古い歴史を感じさせるモロッコの町並みを観光し、夜行列車でタンジェという港町にでた。ここから、フェリーでジブラルタル海峡を超えスペインに渡る事にする。
船はゆっくりと港を離れた。デッキに立ち、少しづつ小さくなってゆくアフリカ大陸を見つめる。幾つもの思いが紺碧の海に溶けていくのを感じた。約半年間にわたるアフリカ山旅はこうして幕を降ろした。
 
 以後はスペインの首都マドリッドで格安チケットを見つけニューヨークに飛び、そこでしばらくの観光旅行を楽しんだ後、日本に帰った。
 就職先も帰国後見つける事ができた。
それまでの思い出を整理する事もできないままに、僕は生活を180度切り替え、新米医師としての新しい生活に入り、いつの間にか3年が経った。
 いつの日か僕はまた仕事を整理して、山への旅に戻るのであろうか? それとも忙しい日々の現実の中で山への思いを切り離してゆくのであろうか?
この3年間でかなりの筋肉が皮下脂肪に変わった。生活を規定するしがらみの中で失った物の多さを考えた。
 青春の嵐の様な時代は過ぎ去っている。あれほどの盛り上がりを見せた人生の時をこれから再び経験することができるのか僕にはわからない。
ただ今でも山への情熱は消えていない。
新しい行動への思いは、少しずつ熟成の時を待っているはずと信じている。
そしてその時は年をとった分、自分の可能性をもっとぎりぎりまで引き出せるようになっているはずだ。     
 1993・5・3


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